2019年04月15日

長生き許可状の交付!

「生きものとは何か」世界と自分を知るための生物学  本川 達夫
ちくまプリマー新書 2019年

 生物のデザインからみた現代文明
 拡大版利己主義のすすめ p295〜

 「…長寿を支える医療や介護は赤字国債によりまかなわれているが、これは次世代の資産を奪う行為である。現在人は赤字国債で寿命を買っており。この調子で国債を発行し続ければ、いずれ国家財政は破綻して医療費をまかなえなくなり、結局、寿命も短くなるのではないか。孔子曰く<老いて死せず、これを賊となす>(「論語」憲問)。賊とは泥棒のこと。今の高齢者は次世代の寿命を盗んで長生きしている時間泥棒なのかもしれない。
 泥棒は高齢者だけではない。現在社会は大量のエネルギーと資源を使うことにより成り立っているが、石油やレアメタルなどは限りがあり、次世代の使うべき資源を食いつぶしながら皆が生活しているのである。地球温暖化や原発事故による長期の環境悪化も、住み場所という資源を「食いつぶして」次世代が使えなくしている行為だと言っていい。だから全員が泥棒。現代は泥棒社会なのである。
 そうなるのは現代が功利主義の社会だから。功利主義においては、他人に迷惑をかけない限り自由。そして他人とは「迷惑だ」と裁判に訴える可能性のある人のことである。まだ生まれていない世代は訴訟を起こせないから、次世代に配慮する必要はない。功利主義とは、しかたなくまわりと妥協している利己主義なのであり、利己主義(エゴイズム)が基本となっているのが現代社会なのである。そんな現代で「利己主義はいけない、次世代に配慮して長生きを自粛せよ、資源の枯渇や環境に配慮してもっと省エネの生活(つまり不便な生活)にあまんじよ」と言っても通用しない。
 そこで「利己主義、大いに結構、ただし利己の己を考えてほしい」という言い方で現代人にアピールしたい。生物学的に考えれば、子は私、孫も私であり、私(己)を時間的に拡張して、<私>=<己>として捉えようというのが本書の考えだった。今の自分だけよくても、子の<私>、孫の<私>がみじめなら、三代の<私>の幸せ度の合計は下がってしまう。そこでトータルの<己>を利する利<己>主義(=「拡大版利己主義者」)になろうではないかというのが小生の提案。これは自分の世代だけのエゴイズムを野放しにすることなく、次世代をも大切にする発想である。となると長生きはダメとなってしまうのだが、そんな考えには誰もついてこないから、利<己>主義に寄与するならば長寿には許可証がおりると考える。』

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posted by Fukutake at 09:13| 日記

2019年04月10日

内なる『神』

「野に雁の飛ぶとき」ジョーゼフ・キャンベル 武舎るみ訳 
 角川書店 1996年

「聖なるものの世俗化」p198〜

 「…東洋における神々の崇拝の究極の目的は、実体と自分自身が同一であることを認識し、その実体が万物に内在していることを実感することであって…
神々を崇拝するときには、「『神』は、自分自身の最も重要な『自我(セルフ)』に他ならない。この『神』において、すべての神々がひとつになるのだから」という認識を持っていなければならない。
 こうして「私はブラフマンだ!」という認識をもっている者はだれでも、この『万物』になる。こう認識した瞬間に、その人物は神々の『自我(セルフ)』になってしまうからである。そのため、この『セルフ』以外の神をあがめ、「神と私は別々のものだ」と考えている者にはわかっていない。

 これと「創世記」の次の一節を比較してほしい。
 「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」こうして(神は)アダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎をおかれた。」

 私は、太平洋戦争で我が国が日本と戦っていたときにニューヨークの新聞で見た写真が忘れられない。それは奈良の東大寺の南大門の南大門のなかに立つ二体の巨大な金剛力士像の一体を写したもので、金剛杵を振りかざして、恐ろしい顔つきをしていた。東大寺そのものの写真や、菩提樹の下で手の平を揚げて「恐るなかれ」のしぐさ(右手の平を開き、外に向けて肩のあたりに上げる施無畏印)をしている大仏の写真はなく、恐ろしい形相で脅すケルビム役の仏像が載っているだけで、写真の下には「日本人はこんな神を崇拝している」というキャプションがあった。
 そのとき私の心に浮かんだ唯一の明白な考えは(それはいまもなお消えないが)、「それは日本人ではなく、われわれだ!」というものであった。エデンの園から人間を追い出そうとするような神を崇拝しているは、ほかならぬわれわれだからである。東洋の考え方はまったく逆で、門番が守る門を通って「不死の命の木」の実を、われわれ自身が、いま、この地上に生きているあいだに摘み取るというものなのである。」

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posted by Fukutake at 15:35| 日記

2019年04月08日

謙虚に

「徒然草 第二百三十三段」

 「何事につけても欠点をなくすようにしたいと思うなら、何をするにも誠意をこめてやり、誰に対しても慎しみ深い態度をとり、口数を少なくするというのにまさることはあるまい。男女・老若を問わず、人はみなそういう人が最高に立派なのだが、とりわけ、年も若く容貌もすぐれている人で言葉づかいの端正なのは、いつまでも忘れがたく印象にとどまるものである。
 何事につけても現れてくる欠点は、手馴れた様子でいかにも巧者らしく振る舞い、自分として最高の地位を確保したというような傲慢な態度をとり、他人をまるで無能力者であるかのように、無視して軽蔑するところにあるのである。」

 (原文)
 「万(よろづ)の咎(とが)あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分(わ)かず、うやうやしく、言葉少からんには如かじ。男女・老少、皆、さる人こそよけれども、殊に、若く、かたちのよき人の言(こと)うるわしきは、忘れ難く、思ひつかるるものなり。
 万の咎は、馴れたるさまに上手めき、所得たる気色して、人をないがしろにするにあり。」

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ひたすら誠実に謙虚に。
posted by Fukutake at 10:10| 日記