2017年12月21日

全てはつながっている

「鏡の伝説(TURBULENT MILLOR)」−カオス・フラクタル理論が自然を見る目を変えたー (その2)

 J.ブリックス+F.D.ピート (高安秀樹+高安美佐子 訳)ダイアモンド社
 1991年

全体論的視点
284p〜
 「『基本的には、すべての物事は一つです。物と物とを区別するような線を引くことは不可能なのです。私たちは、分類することを日常的に行っていますが、これは絶対的なものではありません』と彼女(遺伝学者バーバラ・マックリントック)は述べています。彼女がこのような一体感を持つようになったのは、ある部分(具体的には染色体)を細かく観察した結果でした。本来、彼女の研究は、還元主義的な情熱に支えられていたのですが、彼女は普通の還元主義者とは異なる視点を持っていました。
 『より詳しく研究を進めれば進めるほど、染色体が大きなものに感じてきました。あるとき、研究をしている自分自身が、外部にいるのではなく、そこの中にいるようにすら思えてきたのです。私自身が染色体の一部になったのです。』
 マックリントックは、老子などの哲人や、あの伝説の黄帝のように、還元主義と全体論のはざまに立ったのです。彼女のいう全体感は、<生命の感覚>であり、不確実性、相互関係、相互依存によって自然が成り立っているという直感です。細胞から個体、そして生態系にいたる生命の形態に潜む相互連帯性を求めるのです。『あらゆるものが結びついて一つになっているという認識がなければ、科学は単に、ばらばらになった自然、あるいは自然のほんの一部を見せてくれることしかできないのです』と彼女は言います。さらに彼女は次のように続けます。
 『私たちはこれまで、あまりにひどく環境を破壊し続けてきました。科学技術はよいものだと考えてきたからです。工業的なレベルになって、私たちの科学が浅はかなものであることのしっぺ返しがきたのです。本来、全体の動きを知ってからでなければ部分の動きの意味はわからないのに…私たちは、一部分だけに注目して、他の動きを見ることを忘れていたのです。全体の動きを見ようとしなかったのです』」

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地球自体が一種の生命体と捉える考え方でしょうか。
posted by Fukutake at 11:51| 日記

2017年12月18日

理解不能の世界

「鏡の伝説(TURBULENT MILLOR)」−カオス・フラクタル理論が自然を見る目を変えたー (その1)

 J.ブリックス+F.D.ピート (高安秀樹+高安美佐子 訳)ダイアモンド社
 1991年

時間の矢 181p〜
楽観的時間と悲観論的時間
 「熱力学は、熱の移動、エネルギーや仕事の変換を扱う学問で、技術者にとってはとても有用ですが、いろいろと難しい問題を含んでいます。熱力学は習っていなくても<エントロピーは増大する>という有名な熱力学の第二法則はご存知の方も多いことでしょう。その法則を導入したのはドイツの科学者ルドルフ・クラジウスです。ニュートン力学の方程式は時間反転に関して不変であり、そのレベルでの現象には時間の方向性はありません。もし、たくさんの粒子がニュートン力学に従ってあっちこっちで衝突している映画を見たならば、フィルムを逆回しにしても私たちは違いがわかりません。原子、分子程度の大きさの世界には時間の方向性はないのです。量子力学の方程式も、普通の解釈の範囲では時間の方向性はなく可逆です。時間の可逆性は、今世紀初頭の物理学革命の中でも生き残り、アインシュタインも友人の物理学者ミッシェル・ベッソの未亡人に次のような手紙を書いています。

  『ミッシェルは、この奇妙な世の中を私より早く去ってしまいました。
   しかし、早いか遅いかなどということは重要ではありません。私たち
   物理学者の間では、過去、現在、そして未来などの区別は幻想でしか
   なく、一貫した存在があるだけなのです。』

しかしながら、熱力学では、時間に支配されている世界観を主張しています。熱力学的には、物事は一つの方向にしか進みません。つまり、世の中は不可逆的であり、時間の矢がたしかに存在するのです。アインシュタインの友人のベッソもこの世に生をうけ、育まれ、そして死を迎えたのです。命は永続することはなく、また時間をさかのぼることもできません。車は錆びた鉄の塊になりますが、錆びた鉄の塊がひとりでに車になることはありません。熱力学の発見によって、物理学者は、物事は崩壊と死滅に向かうという悲観的な時間の考え方に関心を持ち始めました。」
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人間という動物には、どうにも理解不能なことがあっても不思議ではないですよね。
posted by Fukutake at 11:42| 日記

2017年12月11日

みやこ人のやさしや

「徒然草」 橋下 武  イラスト古典全訳 日栄社  平成1年(1989)

第百四十一段 

 「悲田院の堯蓮上人は在俗時代の姓を三浦の何がしとか言い、並ぶ者がない武者である。故郷の人が訪ねて来て物語りの際に、「東国の人間はなんといってもいったん口に出したことは絶対に信頼できる。都の人間は安請け合いはするけれども真実味がない。」と言ったが、上人は「あなたにはそのように思われるだろうが、わたしは長年都に住みなれて、人々と親しくつき合って見ておりますと、都の人の心情が劣っているとは思われません。一般に心がやさしく人情に篤いために、人の言うことをきっぱりと断ることができず、どのようなことも突き放せず、気弱に承諾の返事をしてしまう。嘘をついてやろうとは思わないが、貧しく不如意な人ばかりなので、自然と思いどおりにことの運ばぬことが多いのであろう。東国人は私の同郷人ではあるが、実のところ、心のやさしさがなく情もこわく、ひたすら剛直なものであるから、できないことははじめからダメだと言って突っぱねてしまう。生計が豊かだから人から頼りにされるのだよ。」と理路整然と説明されましたのには、…」

(原文)第百四十一段
 「悲田院堯蓮(げうれん)上人は俗姓は三浦の某とかや、双なき武者なり。故郷の人来たりて、物語すとて、「吾妻人(あつまうど)こそ、言いつる事は頼まるれ、都の人は、ことうけのみよくて、実(まこと)なし」と言ひしを、聖(ひじり)、「それはさこそおぼすらめども、己れは都に久しく住みて、馴れて見侍流に、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて、心柔かに、情ある故に、人の言ふほどの事、けやけく(*)否(いな)び難くて、万(よろず)え言ひ放たず、心弱くことうけしつ。偽りせんとは思はねど、乏しく、叶わぬ人のみあれば、自ら、本意通らぬ事多かるべし。吾妻人は、我が方なれど、げには、心の色なく、情おくれ、偏(ひとへ)にすぐよかなるものなれば、始めより否(いな)と言ひて止みぬ。賑はひ、豊かなれば、人には頼まるるそかし」とことわられ侍りしこそ、…」
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(*)けやけく:きっぱりと
優しさとは。
posted by Fukutake at 12:08| 日記