2018年07月05日

つまらない仕事はない

「歳を取るのも悪くない」 養老孟司 小島慶子  
 中公新書クラレ 2018年

61p〜
  養老:
  「不自由だと感じる組織にいるからって、何も見つけられないということはないよね。誰でも必ず自分を育てることはできると思う。それが、今はあまり言われなくなっちゃったけど、修行でしょ。やったことが自分の身につくということだね。いい加減にやっていたらまったく身につかないけれど、本気でやれば身につく。これは、たぶん真実だと思います。周囲をきちんと見ていれば、人はいやがってやらないけれど、一番基本的な仕事だと思えるものは、必ず見つけられるはずですよ。

 秀吉の草履取りっていうでしょ。どんな仕事でも全力でやることです、それは修行だし、自分を育ててくれますよ。仕事って、穴を埋めていくようなものだと思います。山を作るのとは違う。穴を埋めておけば、平らになってみんなが歩きやすいでしょ。山を作れば目立つかもしれないけれど、邪魔になったり見通しが悪くなることもあるよね。穴を埋めるのは地味な作業だし、もしかしたら、後から来た人はそこに穴があったことすら気付かないかもしれない。でも、穴を見つけたら埋めていく。それが仕事ですよ。
 その人が埋められる穴もあるだろうし、埋められない穴もある。それに、埋めたい穴と埋めなきゃいけない穴は別のこともある。埋めていくうちに、穴をまちがえた、ということもあるかもしれない。それを一生懸命やれる人が、自分を育てることになるのです。とりあえず雑用をやってみるのは、ためになると思います。ただし、それを雑用だと軽く見て、中途半端にやっても何も身につかない。自分の薬にするためには、雑用こそ必死でやるべきです。」

144p〜
  「今は、なんでも言葉にしなくちゃならない時代だよね。子どもには、自分の意見をきちんと言いなさいと教えている。でも、言葉というのは、意識の中の氷山の一角だと知るべきです。どんなことでも言葉にするべきだという思い込みは間違っていると、僕は思う。だから、自分でどう考えればいいのか、それを教えてくれる言葉など、ないと思った方がいい。
 ただ、一つだけ確かなことがあるとしたら、どういう意味があるかわからないことであっても、それはやっている当人を育てるということです。だから、役に立つとわかっていることだけをやるのはダメ。役に立つのかわからなくても、とにかくやり続けてみるべきで、そうすれば「やった」という事実が残り、その人は育ちます。そうやって育つとともに、自分の頭で考える力がついてくるのです。」

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養老人生訓。
posted by Fukutake at 08:58| 日記

2018年07月02日

子どもの幸せ

「シボレーサマー(Chevrolet Summer, Dairy Queen Night of Cloudless and Carefree American Days)」 ボブ・グリーン 著  桜内 篤子 訳
TBSブリタニカ 1999年


 親子のふれあい
27p〜
 「… 土曜の朝、アトランタからシカゴに帰ろうとしていたときだ。巨大な空港の中央ターミナルと搭乗ゲートを結ぶ電車に乗った。無料で清潔。だが味気はない。
 ところがこの朝、電車の前の方から笑い声が聴こえてきた。線路やこれから入ろうとするトンネルがよく見える一台目の先頭のところに親子が立っていた。息子は五歳ぐらい、父親は三〇代前半ぐらいだろうか。
 最近は活字で人種に言及するのは避けるべきだという風潮があるが、あえていわせてもらうなら、その電車に乗っていた人の大半は中流階級の白人だった。出張帰りか休暇に行くところといういでたちだった。その親子は黒人で、これ以上安いものはないだろうというような服を着ていた。電車に乗っていた人はみな機内に持ち込むスーツケースやブリーフケースやバッグパックをもっていたが、その親子だけは手ぶらだった。
 一般の乗客にとって空港は、やむをえず通過する退屈なところにすぎない。だからみんないかにもつまらなそうに乗っていたが、その親子だけは楽しそうだった。
「ほら、見てごらん、廊下をパイロットが歩いているだろ。これから操縦する飛行機にむかっているんだよきっと」と父親が言うと、息子は首を伸ばして一所懸命見ようとした。
 僕は搭乗ゲートでいったん降りたが、ターミナルで買い忘れたものを思いだし、まだ時間があったので、戻ることにした。買い物を終えてもう一度乗ろうとすると、先ほどの親子がまたそこにいた。
「帰ろうか」と父親が言うと、「もっと乗りたい」と息子が答えた。
「もっとだって?」まいったような顔をしてみせたが、父親は嬉しそうだった。「まだ疲れないのかい?」
「だって楽しいんだもん」
「わかったよ」父親は言い、電車のドアが開くと乗り込んだ。

 ヨーロッパ旅行やディズニーランドに連れて行っても、ろくでもない大人になる子は多い。大邸宅に住み、車を与え、自宅のプールで好きなだけ遊ばせても、まともな人間に育たない子もいる。裕福な環境でも貧しい環境でも、黒人社会でも白人社会でも、たくさんの子が道を外してしまっている。

「お父さん、この人たちどこへ行くの」男の子が聞くと、父親は「世界中だよ」と答えた。この父親は土曜日の朝、息子を連れて飛行場にやってきた。飛行場にいるほかの人たちはこれからどこか遠い目的地に向かうか、旅を終えて帰ってきたところだったが、この親子は電車に乗るためにやってきていた。親子で一緒に時間を過ごすために。そして無料の電車に乗るというつつましい体験を「冒険」していた。休みの朝を共に過ごすには絶好の場所だったのだ。」


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子どものためにできるだけのことをしてやること。
posted by Fukutake at 08:10| 日記

2018年06月27日

世界一のピザ

「チーズバーガーズ1」ボブ・グリーン 著 井上一馬 訳 
 文春文庫 1993年

反グルメ論  218p〜

 「『世界一のピザ』を食べてみないか、と何人かの人間に誘われた。
 そのとき、なにを血迷ったのか、私は行ってもいいよ、と答えてしまった。おまけに、新聞でそのピザ・ハウスの名前を書かないことを約束させられた。世界中の人間がその店にピザを食べにくるようなことにでもなってせっかく見つけた場所をだいなしにしたくないのだそうだ。いずれにしても行ってみることにした。とにかくピザには目がないのだ。
 車で一時間十分走って、ようやく目指すピザ・ハウスに到着した。とくにこれといって特徴はない、背の低い建物だった。
 なかには、限られた数のテーブルしかない。客は、店に入るとすぐに注文を求められ、それから席が空くのを待つ。運がよければ、席が空くのとほとんど同時に注文したピザが出てくる。
 なんにしますか、私も注文を促される。
 「ええ、そうね」世界一のピザを食べさせる店にいるのだから、いろいろ試してみたかった。
 「ご注文をどうぞ。なんのピザにします」と催促される。
 「ペパローニにチーズをダブルで」と私はいった。
 「うちはペパローニはやっていません」
私は唖然としてその場に立ちつくした。これは冗談ではない。“世界一のピザ”をだすという店が、ペパローニはメニューにない、といっているのである。
 大声でわめきたてることだってできたはずだ。泣きだしたって不思議ではない。壁を蹴とばしてやる権利だってあっただろう。
 だが、そのどれも実行はしなかった。かわりに、けっして破ってはならない、このうえなく有益な人生の教訓を、続けて二十回、心のなかで繰りかえし唱えた。

 「断じて食べ物のために旅をしてはならない」

 単純かつ初歩的にして重要な教訓である。すべては身から出たさびだ。おまえはみずから進んで教訓を破ったのだ。何人も一回の食事のために一時間十分もかけて出かけていくべきではない。どんな美味しいといわれようと、そんなことは問題ではないのだ。一時間十分もかけて出かけていくような愚か者は、ペパローニもないピザ・ハウスに行きつくぐらいの罰を受けて当然なのだ。」

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心にクスッとおかしさとペーソスを醸し出す、ボブ・グリーンの筆致がすごい。
posted by Fukutake at 10:46| 日記