2018年05月01日

論語的発想

「現代語訳 論語」宮崎市定 岩波現代文庫  2000年

学而 第一 七

 「易(とかげ)の色は賢々として周囲に応じて変わるもの、とういう古語がある。これは人間が、父母に仕える時には(孝子となって)その力の有る限りを尽くし、君に仕える時には(忠臣となって)その身命すらも捧げ、朋友と交わる時には(親友となって)言ったことには責任をもつことの譬えである。このような人は、もし学問したことがないと世間から見なされていても、私ならば、そういう実践こそが学問で、この古語の意味を真にわきまえた人だと断言して憚らない。」

「これは子夏の言であるが、世間の一般通念として学問をしたと言えない人でも、その行為が道に叶っていれば、それこそ学問したと言えるという、この発想は極めて論語的な発想である。まことにこれは孔子思想の最も鮮やかな特徴であって、論語の中で随処にそれが見られる。実はこのような伝統的な、何気ない言葉に新しい解釈を吹きこんで教え、同じように人生の目的、人間の生きかたにも、この新しい言葉の概念によって指標を示したところに儒教が誕生したのであった。」

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宮崎論語解釈の発端。
posted by Fukutake at 09:14| 日記

2018年04月26日

「同じ」と「違う」

「遺言」 養老孟司 新潮新書 2017
 
「おわりに」より

181p~

  「…強いフェミニズムは、感覚で捉えられる男女の「違い」を無視し、なにがなんでも男女を「同じ」にしようとする。「病」というしかない。「同じにする」がどんどん強くなって、信仰の域に達する。「病」というしかない。それがアメリカの「リベラルという病」だ、ということになる。
 
 「同じにする」ことが間違っているのではない。ただし感覚は「違う」という。その二つが対立するのは、そう「見える」だけで、そこには段差があるのだから、両者を並べることはできない。まずそのこと自体を「意識」したらどうですか。それがいわば私の拙い提案である。

 さすがに「違い」を無視することは完全にはできない。だから、「同じにする」論者も単純に「正しい」とは言えず、ポリティカル・コレクトネスなどという言葉を創らなければならなくなる。トランプを代表とする側が、その無理を指摘する。そんな無理をしなくたって、意識は「同じ」だといい、感覚は「違う」という。その両者を矛盾として抱えているのは、あなた自身ですよ。それを素直に認めたらどうですか。私はそう言いたいだけである。

 それはじつは矛盾ではない。右に述べたように、両者は「階層が違う」からである。ただしそこで意識、つまり「同じ」が上だとするのが、階層的にものを考える時の問題である。より抽象化されたものが「上」だとすれば、「同じ」が上になる。学者が議論すれば、ひとりでにそうなる。なぜなら学者とは「より抽象的」に考えるものだからである。だから神学の世界から自然科学が発生した。中世の神学が、抽象としていわば行き過ぎたから、近代の自然科学がそれを是正することになった。その意味で自然科学は、「感覚の復権」だが、科学者自身がいまや階層的な世界に取り込まれてしまったから、実験は感覚の復権だなどとは到底言えなくなった。いまでは実験室そのものが「意識の世界」に
変わってしまった。だからマンガに描かれる科学の実験室は同じようなビーカーを並べて白衣を着た人がいて、どれも「同じ」に見える。私の議論がややこしいのではない。実状がややこしいのである。」

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感覚と意識!
posted by Fukutake at 13:16| 日記

2018年04月23日

人は裏切る

「君主論」 マキャベリ  池田 廉(訳) 中公文庫 昭和50年

 残忍さと憐れみぶかさについて
p92〜

 「(君主は)愛されるのと恐れられるのとはどちらがよいかということである。だれしも両方をかねそなえていることが望ましいと答えるであろう。だが、この二つを同時に具備することはむずかしい。したがって、かりにそのどちらかを捨てて考えなければならないとすれば、愛されるより恐れられるほうがはるかに安全である。というのは、人間については一般に次のことがいえるからである。そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、偽善者で、厚かましく、身の危険は避けようとし。物欲には目のないものである、と。
 
 そこで、あなたが恩を施しているあいだは、みなあなたの意のままであり、血も、家財も、生命も、子息すらあなたに捧げてくれる。といっても、これは前に述べたとおり、そういう必要性がまだずっと先のばあいのことである。そして、必要性が迫ってくると、彼らは反抗する。したがって、彼らの口約束に全面的に頼ってしまっていた君主は、ほかの諸準備をまったくおろそかにするため、滅びてしまう。けだかい精神や偉大さではなく、報酬で買いとった友情は、それだけの値打ちのもので、いつまでも価値があるわけではなく、すわというときに役だてることはできないのである。

 また、人間は恐れている者より、愛情を示してくれる者を容赦なく傷つけるのである。この理由は、がんらい人は邪悪であるから、たんに恩義の絆でつながれている愛情などは、自分の利害がからむ機会が起きれば、すぐにでも断ち切ってしまうものだからである。だが、恐れている者に対しては、処刑の恐怖でしっかりと縛られているので、けっして見殺しにはできないのである。

 それにしても、君主は、たとえ愛されなくても、人から恨みを受けないようにして、恐れられる存在にならなければならない。つまり、恐れられることと、恨みを買わないこととは立派に両立しうるのである。これは、君主が自分の市民と領民の財産や、彼らの婦女子にさえ手を出さなければ、かならずできることである。また、流血の騒ぎをどうしても起こさなければならないときは、適当な口実としかるべき理由のもとでやるべきである。だが、人間は父親の殺されたのはじきに忘れてしまっても、自分の財産の損失はなかなか忘れないものであるから、特に他人の持ち物には手をださないようにしなくてはならない。…」


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人間の本性!
posted by Fukutake at 12:09| 日記