2018年03月05日

こころ(頭)とからだ(もの)

「バカのものさし」 養老孟司  扶桑社文庫 2018

(小中学生からの質問に養老先生が答える)

 「「こころ」と「からだ」って、どうちがうのですか。
 それから「自分」って、こころにあるのですか。からだにあるのですか。とくにこころってどこにあるのか……小さいときから不思議なんです。(15歳 中三・北海道)


 養老孟司
「まず「からだ」。からだっていうのは、人間の感覚でとらえられる世界を指していますね。だって、目という感覚器で見ることができるわけだから。
 ところが、「こころ」っていうのは、目でも、他の感覚器でもとらえられない。感覚でとらえられるものととらえられないもの、こころとからだははまず、そういう大きなちがいがあるでしょう。
 で、キミは、「自分」ってこころにあるのか、からだにあるのかって聞いているけど、それはどちらも自分だ、というしかありません。考えすぎです。

 話はあちこちに飛ぶけれども、そもそも「こころ」がどこにあるのかという質問自体がまちがっています。
 最初に、「こころ」は感覚ではとらえられない、と言いました。
 でもキミは、「こころ」って、ここにある、と言える場所があるものだと思っているんでしょ?
 ものごとには場所があるものとないものがある。感覚でとらえらるものにはほとんど「場所」がありますけど、たとえば、「運動」はどこにあるかって聞かれたら、どうする?だって「運動」って動いて行っちゃうでしょ?だからもともと場所がないんですよ。こういうふうに、場所が特定できない、ということはいくらでもあるんです。
 で、「こころ」っていうのは、わかると思うけれど、「働き」です。言ってしまえば、脳の「機能」です。で、「働き」はどこにある?と聞きますか?なんだか妙でしょ。「運動」がどこにある?って聞くことのヘンさと同じです。
 「こころ」と「からだ」がどうつながっているか、という質問も同じようにちょっとおかしいんです。からだという「もの」とこころという「」働きは別のものなんだから。
 わかりやすく言うとね、キミの質問自体が、キミの「こころの働き」から生まれたものでしょう。キミは眠っているときに、こんな質問はしないよね。でも、キミが眠っていたって、他人から見れば、キミの体はあるわけでしょう。で、どっちもキミでしょうが。
 まあともかく、「場所」があるものとないもの、感覚でとらえらるものと頭の中にしかないものがあるってことは、きちっと理解しておいたほうがいいね。こころとからだ、両方あるから自分、なんだから。」

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なるほど。
posted by Fukutake at 08:53| 日記

2018年03月01日

死ぬためには生きなくてはならない

「半分生きて、半分死んでいる」 養老孟司 PHP新書 2018年

半分死んでいる

 166p〜
 「先月の土曜日に久しぶりに東京農業大学に行った。ここは昆虫学研究室があるので、たまに勉強に行く。一服しようと思って屋外の喫煙場所に向かったら、学生が寄ってきて「養老さんじゃないですか、もう死んだと思っていました」という。いくら若者でも、それじゃ少しひどいと思ったか、「もう歴史上の人物ですよ」とつ加えてくれましたね。
 …
 歳を取ると、むしろ宗教に近づく。これは実際にそうだと思う。そうでないと、なんだか生臭い感じがする。この世での要件はあらかた済んでしまったのだから、あとは後生を願うばかり。欧州の墓を巡ると、時に墓碑に写真が埋め込まれている。若くして亡くなった人であることが多い。美しいときのままに残しておきたいという家族の気持ちがよくわかる。それと同時に、なんだか生臭いなあと思う。日本の墓地の良さは、その意味で浮世離れしているところかもしれない。あっちはあっち、こっちはこっちだから、写真なんかをお墓に貼り込もうという気がない。さっぱりと切れている。
 若者がときどき亡くなる。家族がやりきれないのは、よくわかるような気がする。だからあれこれ言ってみたりするのかもしれないが、亡くなった人を戻すことはできない。冷たいようだが、それは誰でも知っている。親しい人の別離は痛み、傷である。脳科学はそうした別れと身体の外傷では、苦痛に関しての脳の同じ場所が働くことを示している。子どもと死に別れた親、恋人と別れた人は、脳から見れば、大きな傷を負ったときと痛みは同じである。それは脳を調べなくたってよくわかっているから、言葉がそこでは共通している。別離はまさに心の痛みを伴う。
 …
 同じ傷でも、耐えられる人と耐えられない人がいる。痛がる人と痛がらない人がいる。その二つがあるということは、進化の過程で、そのどちらにも、それなりの意味があったということであろう。戦前から戦中なら、身体の痛みは徹底的に我慢しろと教えた。戦後は徹底的に痛みは避けよ、与えるな、と教えている。どちらも極端であろう。実情はその中間に落ちる。私は半分生きているが、半分はもう死んでいるのである。」


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どちらつかずが人生だ。
posted by Fukutake at 13:11| 日記

2018年02月26日

田舎での暮らし

「聞書 忘れえぬ歳月(東日本編)」 宮本 常一 著(田村善次郎 編)

八坂書房 2012年

「秋田県仙北郡西木村戸沢」で村の古老から聞き取り
92p〜

 「…五年生六年生は宮田へいったが高等科へ行こうとすれば松葉まで歩かねばならなかった。高等三年は角館にあった。角館の高等三年へ通ったのは門脇宇一朗さん一人であった。大ていの子供は宮田までいってそれでおしまいだった。松葉にゆくと下宿しなければならなかった。宮田に通ってさえ、授業が終わって帰って来ると暗くなったものである。宮田に通うにも通学用の草履は、みな自分で作った。冬はそれにカンジキをつけて雪の中をあるいた。細い道をあるかねばならぬので大変であった。学校へ通うのがそんな状態だから、ここから他所へ出ていくのはもっと大変であった。村の家をふやさなかったこともよくわかる。凶作などがあると山の中の不便な村は助けてくれるものはないのだから自分たちで身を守らなければならなかった。
 だから一七軒時代にはどこの家も一町歩以上の水田を作っていた。私の家は昔から一町三反作っており、今もそのままである。とにかく、大正時代までは土地を売る者は少なかった。他所に稼ぎに出るようになって少しずつ耕地を減らしていった。そうしないと出稼ぎに出られないからである。したがって、この土地で百姓を主にしている家は逆に耕地を増やしている。門脇宇一朗さんの家は今戸沢で一番多く作付けしている。
 農業以外の仕事がふえて来て、それぞれの家の耕地面積がまちまちになって来た。今は土地を持たなくても生活ができるようになった。そして、土地の少ないものはどんどん村をすてて出ていくようになった。しかし、昔からの一七軒は今もしっかりこの土地におちついているといっていいだろう。
 しかし、先祖からの財産を持ちつたえるということは容易なことではなかった。この土地は昔は凶作が多かった。私が六〜七歳の頃であったが稲が実らず、困ったことがあった。そこで父は大鳥鉱山へ稼ぎにいった。凶作があると皆稼ぎに出たものである。その年は米をついても白米にすることができなかった。くだけてしまうからである。その米に大根の乾葉をこまかに切って入れてカテ飯にしてたべた。
 とにかく食う物の不足する年は多かったが、昭和二十一年〜二十二年頃は格別ひどかった。米を売ることも買うこともできず、みな供出にとられてしまって、田植えの時の米がなかった。田植えのときはたくさん食べるので田植米といって用意しておくのだが、それがない上に配給もしてくれなくて本当に困った。そこで、どの家もワラビの根をほってワラビ粉をとってたべた。一番辛いことであった。塩気がなくて皆困り、醤油も作れなかった。ニガリをたべて胃病になった人もあったし、栄養不足になって死に絶えた一家があった。」

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ついこの間の田舎の暮らし
posted by Fukutake at 08:20| 日記