2018年09月03日

毛沢東語録

「中国政治論集−王安石より毛沢東までー」 宮崎市定 著 1989年
 中央公論文庫

「毛沢東語録」より『反対自由主義』
p61〜

 「さて、以上(「反対自由主義」)を通観すると、ここに列挙された弊害は別に新しいものではなく、従来も絶えず指摘されてきた官場の習気の継続と見るべきものが多い。それが根強い伝統であると同時に、一方からは常に非難の的となり、改革が要求されていた事柄である。毛沢東の言葉は従来の皇帝や、政治の責任者たる大臣の言ってきたことと、実はあまり内容の変わらぬものなのである。それが従来ついに大なる効果を挙げることができなかったのは、要するに権力のあり方に起因するのではあるまいか。権力は強ければ強いほど、また集中すればするほど、権力者の腐敗する虞が多い。旧中国では農業・商業・工業が相当発達を遂げながら、それが政治の系列に従属してしまったため、政治家・官僚の手中にすべてが握られ、権力の集中するところ、官場の習気が育成されたのであった。日本が幕府末年の賄賂政治から明治以降、多少改善の傾向を見せたのは政治系列の権力の外に、陸海軍、財界、司法界、学界などが独立した系列を形成した為といえる。いま再びそれが政治に一元化されそうな傾向が見えるのは遺憾である。ところが、中国においては民国成立以来、国内の分裂と共に政治に対抗する勢力の勃興する気運を見せたのであるが、人民共和国の出現によって、すべてが政治に一元化され、この点においては危険は十分感ぜられるのである。このように考えると、今度の文化大革命の勃発はむしろ歴史的な必然性であったとも言えよう。
 但し、今次の文化大革命が果たして所期の目的を達成することが出来るであろうか。またその目的のために『毛沢東語録』を読ませるような教育方法が、果たしてどこまで有効であろうか。長い人類の歴史を見てきた私の目からすれば、遺憾ながら些か悲観的とならざるを得ない。私はある程度の軍隊生活の経験を有するが、大正末年には、「軍人に賜わりたる勅諭」の類は、別に暗誦を強制されることがなかったが、当時の軍隊幹部はまた人間味があって気風もよかった。「勅諭」が全員に暗誦することを命ぜられるようになって、軍隊はすっかり駄目になっていったのである。」


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政治至上主義の悲劇
posted by Fukutake at 08:42| 日記

2018年08月29日

死ぬ間際の幸せ

「生きる意味への問い V.E.フランクルをめぐって」 山田 邦男 著
 佼成出版社 1999年 (その2)

253p〜

 「『いよいよお終いだ!』誰かが頭の上で言った。彼はこの言葉を聞いて、それを心の中で繰り返した。『もう死はおしまいだ』と彼は自分で自分に言い聞かした。『もう死はなくなったのだ』
 彼は息を吸い込んだが、それも途中で消えて、ぐっと身を伸ばしたかと思うと、そのまま死んでしまった。」(『イワン・イリッチの死』米川正夫訳)

 この人物についてフランクルは次のように述べている。
 「…この人間は彼の生命の最後の時間になお、自分自身を遥かに超えて成熟し、内的な偉大さに達するのであり、それは逆行的に彼の今迄の全生活をーそれが一見無駄のようなものであるにもかかわらずー或る意味に充ちたものにまで昂めるのである。生命はその究極の意味を…死の中にもうることができ…、生命は失敗においてすら充たされうるのである。」(『死と愛』)

 この人物は、その人生の最期の瞬間いおいて、かの「人生の意味につての問いの観点の転回」を成し遂げたと言うことができるであろう。それまでの彼の人生は、家族や職場の同僚などの周囲の人たちすべて自分の栄達のためという観点から見てきたが、最期の瞬間になって、そうした生き方が「すべて間違いかもしれない」と気づき、「これはこの人たちを苦しめている」と考えるようになる。そのきっかけとなったものは、意識が朦朧とする中で、「誰かが自分の手に接吻しているのを感じた」ことであった。その刹那、彼のそれまでの自己中心的なあり方が他者から破られたのである。そのとき、彼は子どもや妻になり、彼らの側から自分を見たのである。
 もっとも、彼は一挙にそういう考えに至ったのではなく、それまでの彼は痛みのためにのたうちまわって苦しみ、家人を憎み、また運命を恨んで自暴自棄になっていた。しかしそういう苦悩に耐えることによって、ついにかの転回、すなわち自分から世界を見るのではなく、世界から自分を見る、という転回がなされたのである。自己の死、つまり世界から生まれた自己がふたたび世界に還ろうとするとき、自己を放下して、自己を世界から受け取るという視点が切り開かれたのである。自己を放下したとき、そこにはもはや死はない。彼は「ああ、そうだったのか!」と叫ぶ。そして死の代わりに、そこにあるのは世界いっぱいの「光」である。彼はまた叫ぶ、「なんという喜びだろう!」と。

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「自己を世界から受け取る!」
posted by Fukutake at 09:23| 日記

2018年08月23日

死はどこ?

「生きる意味への問い V.E.フランクルをめぐって」 山田 邦男 著
 佼成出版社 1999年 (その1)

 人生の意味と価値 252p〜

 「イワン・イリッチは、官界における栄達という「力の意思」の充足をひたすら追求してきたが、あるとき些細な事故がもとで不治の病にかかり、長い間の肉体的苦痛と「力への意志」の挫折のために、恐ろしい苦悶と絶望に陥る。
 
 『以前まったく不可能に思われたことが、今ふと彼の心に浮かんだのである。
つまり、今まで送ってきた生活が掟にはずれた間違ったものだという疑念が、真実かもしれないのである。社会で最高の位置を占めている人々が善とみなしていることに、反対してみようとするきわめて微かな心の動き、彼がいつもすぐに自分で追いのけ追いのけしていた、あるかなきかの微かな心の動き、− これこそ本当の生活なので、そのほかのものはすべて間違いかもしれない、こうした考えが彼の心に浮かんだのである。… それは…死ぬ二時間前のことであった。ちょうどその時、イワン・イリッチは穴の中に落ち込んで、一点の光明を認めた。そして、自分の生活は間違っていたものの、しかし、まだ取り返しはつく、という思想が啓示されたのである。…その時、誰かが自分の手を接吻しているのを感じた。彼は眼を見開き、わが子のほうを見やった。彼は可哀そうになってきた。妻がかたわらへ寄った。彼は妻を見あげた。妻は…絶望したような表情を浮かべながら、じっと夫を見つめていた。彼は可哀そうになってきた。『そうだ。おれはこの人たちを苦しめている。』と彼は考えた。…すると、とつぜんはっきりわかったー今まで彼を悩まして、彼の体から出て行こうとしなかったものが、一時にすっかり出て行くのであった。…妻子が可哀そうだ。彼らを苦しめないようにしなければならない。彼らをこの苦痛から救って、自分ものがれなければならない。『なんていい気持ちだ、そして、なんと造作もないことだ』と彼は考えた。…『ところで死は?どこにいるのだ?』古くから馴染みになっている死の恐怖を探したが、見つからなかった。いったいどこにいるのだ?死とはなんだ?恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。
 死の代わりに光があった。『ああ、そうだったのか!』彼は声をたてて言った。『なんという喜びだろう!』これらはすべて彼にとって、ほんの一瞬の出来事であったが、この一瞬の意味はもはや変わることがなかった。しかし、そばにいる人にとっては、彼の臨終の苦悶はなお二時間つづいた。…

(その2につづく)
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死はない。
posted by Fukutake at 12:04| 日記