2019年01月10日

自分という幻想

「ネコも老人も、役立たずでけっこう」
 養老孟司 NHKネコメンタリー 河出書房新社

「まるは、私の生きることの“ものさし”である」

 自分はナビの矢印

p153〜

 「みなさんには、それぞれ世界があって。それは頭の中にあるわけでしょう。そういうふうに想像することもできる。それは、まさに時間まで含めた四次元なんですよね。そして自分というものは、その空間の中のナビの矢印なんです。
 わかりにくいですか。たいていの人は自分というのは、中身があると思っているからですな。たぶんそれは錯覚です。自分なんて動物でもありますよ。そうでしょう。なぜあるかというと、動物は帰ってくるからです。
 動物には帰巣本能があるでしょう。なぜ帰ることができるかというと、今言ったような地図があって、その中に現在地を示す矢印があるからです。だからナビができるんですよ。現在地を示す矢印がないと、地図は使えないんです。
 我々は頭の中にナビの矢印を持っている。だからそれを地図に乗せると、矢印は自分でしょう。そうじゃないですか。普通はそういうふうに考えないかなあ。
 つまり、言いたいのは、自分というのはたかだかナビの矢印程度のものなんだということです。だけどこれがないと困る。どっちに行ったらいいのかわからなくなる。現に脳に故障を起こした人で、ナビの矢印の部分が壊れたケースがあります。矢印の部分が壊れたらどうなると思います?地図全体が自分になるんですよ。本当になるんだ。それを世界との一体化、宇宙との一体化という。
 世界の中に矢印を置くからその中で行動ができるわけでしょう。でも脳が故障するとその矢印が消えてしまう。これは非常に気持ちがいいんですね。法悦というか、まさに宗教体験ですよ。」

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神の啓示を受けた(と思える)瞬間

「まる」:養老孟司の愛猫
posted by Fukutake at 12:49| 日記

2019年01月07日

オリヴァー・サックス 最後の言葉

「意識の川をゆく THE RIVR CONSCIOUSNESS 」オリヴァー・サックス 太田直子 訳 早川書房 2018年

 p125〜

 「記憶は誤りやすい 
 心や脳内には、私たちの思い出の真実を、というか少なくとも事実と一致する特徴を、保証するメカニズムはないようだ。私たちには歴史的真実に直接近く方法はなく、自分が何を真実だと感じるか、あるいは何を真実だと主張するかは、感覚と同じぐらい想像力に依存している(ヘレン・ケラーはこのことに気づきやすい立場にあった)。世のなかの出来事を脳内で直接伝えたり記憶したりする方法はない、出来事はきわめて主観的に経験され、構築されるので、そもそも個人によって異なり、想起されるたびに違うように再解釈され、再体験される。私たちにとって唯一の真実は物語的真実、私たちがお互いや自分自身に話す物語、絶えず再分類し、磨きをかける物語である。そのような主観性は、記憶の本質そのものに組み込まれ、私たちがもつ脳内の記憶の基礎とメカニズムから得られる。不思議なのは、記憶が極端な逸脱をはたらくのは比較的まれで、私たちの記憶の大部分はとても確実で信頼できることだ。
 私たち人間は誤りやすく、弱く、不完全な、しかし同時にとても柔軟で創造的な記憶力を与えられている。記憶の出所に関する混同や無関心は、逆説的な強みかもしれない。もしあらゆる知識の出所を認識できたとしたら、私たちは無用の情報に押しつぶされるだろう。…

 聞きまちがい
 聞きまちがいは幻覚ではないが、幻覚と同じように通常の知覚の経路を利用し、現実のふりをするー本人はそれを疑おうとは思わない。しかし私たちの知覚はすべて、たいがい乏しくてあいまいな感覚データから脳が構築しなくてはならないものであるため、誤りやごまかしの可能性はつねにある。それどころか、私たちの知覚がほとんど瞬時にすばやく構築されることを考えると、たいてい正確であることのほうが驚きだ。周囲の状況、そして意識的なものにせよ願望や予想は、たしかに聞きまちがいの共犯者かもしれないが、ほんとうに悪さするのはもっと低いレベル、音韻分析と解読にたずさわる脳の領域だ。その脳領域は、耳からのゆがんだ信号や不完全な信号に対してできることをしようと、たとえばかげていても、現実の単語やフレーズを組み立てる。」

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正確な不完全より、不正確な完全性。

posted by Fukutake at 11:20| 日記

2018年12月28日

貧乏のススメ

「徒然草」 第二百十七段(後段)

金持ちと貧者は同じ

「…だいたい人間というものは、欲望を果たそうとするために財貨を求めるのである。金銭を財貨の第一と考えるのはあらゆる欲望を満たしてくれるからである。それに、欲望が生じてもこれを満たすことなく、金銭を蓄えても用いないでいるようなことでは、まったく貧乏人と変わるところがない。何の楽しみもないはずである。してみれば、大福長者の述べた、所願をかなえず銭を用いずの禁令の真意は、ただ、人間としての欲望をたち切って、貧乏生活を嘆かないようにしなければいけないということだと理解される。財貨を得たいという欲望を満たして銭をためこみ、それを用いることなくして心の安楽を得ようとするよりは、はじめから財貨を持たないで、清貧に甘んじている方がよほど気が利いているだろう。たとえば、癰(よう)や疽(そ)を患っている者が患部を水で洗って、その気持ち良さを喜んだりするよりは、はじめから病気にかからないでいるのに越したことはない。ここまで考えてくると、金がなくて使えぬ貧乏人も、金があっても使わぬ金持ちも変わるところがない。仏教でいう悟りの境地−−究竟(くきよう)も、迷妄の境地−−理即も等しいことになるし、大欲も無欲も変わるところはない。」

(原文)
「…そもそも、人は所願を成ぜんがために、財を求む。銭を財とする事は、願ひを叶ふるが故なり。所願あれども叶へず、銭あれども用いざらんは、全く貧者と同じ。何かを楽しびとせん。この掟は、ただ、人間の望みを断ちて、貧を憂ふべからずと聞こえたり。欲を成じて楽しびとせんよりは、如かじ。財なからんには。癰・疽を病む者、水に洗いて楽しびとせんよりは、病まざらんには如かじ。ここに至りては、貧・富分く所なし。究竟は理即に等し。大欲は無欲に似たり。」


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posted by Fukutake at 08:52| 日記