2017年10月04日

交通事故は簡単には無くならない!

「事故がなくならない理由」〜安全の落とし穴〜  芳賀 繁  PHP新書

事故は無くならない 172p~

 「事故を起こしやすい人はいるだろうか。そういう人をテストで予測できるだろうか。
  確かに、ドライバーの中には「事故反復者」、「事故多発者」と呼ばれている人がいる。交通事故を繰り返し起こす人である。彼らの多くは、衝動的、攻撃的性格を持ち、認知よりも動作優位の傾向があり、ルール軽視、社会性の欠如などの特性を持つといわれる。しかし、彼らが起こす事故は、交通事故のごく一部である。大半の事故は、普通のドライバーの意図しないうっかりミスによって発生している。
 産業界でも、医療現場でも、エラー反復者、いわゆるリピーターがいると信じている安全管理者が多いが、仮にそれが事実だとしても、ミスをリピートする前にテストで彼らを予測してスクリーニングすることはほとんど不可能である。もちろん、職業適性のない人が職についているのは、本人にとっても、同僚や患者にとっても幸せなことではないので、本当にリピーターであるならば、本人と上司、あるいは人事担当者がじっくり話し合う必要があるだろう。
 今日に至るまで、事故者と無事故者の違いを調べるおびただしい数の研究が積み重ねられ、両者を判別するためのたくさんのテストが開発されてきたが、事故防止に直接役立つような成果は一つもない。確かに、平均よりもリスクをよくとる傾向のある人、平均よりもある種のミスをおかしやすい人はいる。しかし、一つのリスク・テイキング行動や一つのエラーが事故に結びつくまでには、他の様々な要因が関与し、偶然や不運も手伝うので、個人差に着目する安全対策は重視すべきでないと筆者は考えている。
 ただし、個人のおかしやすいエラーや違反の傾向や特徴は抽出することができるので、きめ細かい個人指導や教育・訓練のツールとしてテストを利用するのは有効だと考える。
 『エラーや事故を起こすのは一握りの頼りない、できの悪い従業員であり、彼らを職場から追放すれば、システムの安全性は確保できる』という考え方を「腐ったリンゴ理論」という。しかし、リンゴが腐る環境をそのままにしていたのでは、腐ったリンゴを取り除いても、別のリンゴがまた腐るだけである。
 エラーを人より五割多くおかす可能性のある10パーセントの人を見つけて排除するよりも、全員のエラー可能性を10パーセント低減するほうが、システム全体の安全性は確実に向上する。」

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posted by Fukutake at 15:36| 日記

2017年10月02日

本当の利益

「ロゴスとイデア」(2)田中美知太郎 文藝春秋ライブラリー 
2014年

220p〜
自己の利益は本当に自己にとって良いことか?

 「われわれの行為というものは、ソクラテスによれば、われわれが内心その方がよいと思ったことの行為なのである。その点、われわれは常にしたいと思うことをしているのである。極端に言えば、われわれの行為は一応心からの行為なのである。無論、やむを得ないいろいろの強制によって、われわれが心にもない行為をしなければならぬことは明らかな事実である。しかしながら、その場合においても、われわれは心にもない行為を肯定しているのであって、自殺や反抗をその代わりに選ぼうとはしていないのである。

 …しかしながら、そのような場合、われわれがその方をよいと思って行ったことは、果して皆すべて本当によいことであったろうか。トラッシュマコスは、法律がすべて支配階級の利益のために制定されたものであることを主張したのであるが、しかしその場合、権力者はたとい自己の欲するところを自由に行い得たとしても、果して真に自己の利益となるものを法律に制定し得たかどうかは甚だ疑問である。けだし真の利益が何であるかの認識は極めて困難であって、世上一般の権力者が容易にこれをなし得るものではないからである。そして同様のことは、一身のためではなく、国家のために行動していると信ずる人たちにも当てはまるのであって、何が本当に国家のためであるかは、まことに慎重熟慮を要する問題であって、責任ある政治家が日夜そのために心を苦しめていることなのである。もしこの点において誤謬を犯すならば、ひとは国家のためと思って、かえって国家のためにならぬことを計り、いわゆる愛国の至情がかえって国家を危うくすることともなるのである。そしてこのような危険は、国家のためにはたらくことを一種の職業としているような者どもにおいて特に警戒されねばならぬ。なぜなら、自己の職業的利害に過ぎないものを国家的利害のごとくに錯覚する場合が少なくないからである。…」

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このような鋭い指摘が紀元前四百年前になされていた!
posted by Fukutake at 11:50| 日記

2017年09月27日

ロゴス!

「ロゴスとイデア」(1) 田中美知太郎 文春学藝ライブラリー 
文藝春秋 2014年

149p〜

 「ロゴスという言葉と一緒にいつも私が思い出すのは、プラトンが『パイドン』の中に述べている次のような考えである。すなわち「ものの真相を見きわめようとする者は、直接に事物そのものを見てはいけない。たとえば日蝕の観測に太陽を直視する者は往々にして眼を損ねる。われわれは水その他の物質に太陽に姿を映して、間接にこれを見るようにしなければならない。ちょうどこれと同じように、事物を直接に耳目で捉えようとする時、われわれの精神はかえって盲目となって何ものも見ることが出来なくなる。われわれはむしろ事物に直面することを避けて、これをロゴスの中に見るようにしなければならない。われわれはかくすることによってかえって事物の真を捉えることが出来る」という考え方である。

 ロゴスを事物の陰に過ぎないと考える人々は、…ものは直接に見るだけで充分だと考えている。そしてこの考えは、事物が見られるだけで十分に捉えられていて、ものはちょうど見られた通りにあるという信念にもとづいている。別な言葉でいえば、人々は先ず間違いなくものを見たと信じているのである。そして事物はまさに見られたとおりであり、自分は事物の真を把握し、事物を知っているのだと信じているのである。しかしこのような信念には何らの保証もない。彼等が果たして事物を見たかどうかということさえ疑わしい。彼等はただ見たと信じているに過ぎない。そして「ものを見ることが即ちものを知ることである」というような考えは、プラトンが『テアイテトス』の前半において、まさに許すべからざる思想として徹底的批判を加えたところのものなのである。

 …われわれの見るところのものは事物の一部分に過ぎないから、これを事物の全体と信じてはならないのである。ものはまた他のようにも見られ得ると考えなければならない。しかしながらわれわれは、ものを自分の眼でしか見ることができない。また従って、自分の見たものと他人が見たものとをおのおのその一面とする事物の全体を直接に見るということは出来ないわけである。われわれは自分の見たと信ずるものを、自分の見ることの出来ない他の多くの面をもつ、もっと別なものの単なる一面であると考える時、既にわれわれは直接に見るだけのものでは充分でないと考えなければならなくなっているのである。かくてわれわれは自分がただ直接に見ているだけのものを越えなければならなくなる。そしてかく越えさせるものがすなわちロゴスなのである。」

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見たことが真実であるという確信の誤り、危うさ。
posted by Fukutake at 14:44| 日記