「菅江真澄」ー旅人たちの歴史2ー 宮本常一 未来社
眠り流し(ねぶた) p290〜
「(菅江真澄の)『ひなの遊び』の中に
六日、眠流しとて、ここらの火ともしささげもて益荒雄の祭、いづこもおなじふりな がら、桐の広葉に歌かいて流すけふの夜のためし、いささかことにこそおぼえ侍つれ。
というのが出て来るのです。これも実に短い記事なんだけれど私には興味があるのです。ここに「男たちが燈火をささげ」とある。これが提燈に変って来たのが秋田の竿 燈でございましょう。今でも曲芸みたいなことをして大きな竿を一人で持って、倒さな いようにして行列して歩いておる。それが七月七日の行事なんですね。そしてそれは 実は眠り流しの火を流す行事だったのがあのようにはなやかな行事になって来た。眠り流しが津軽に行くとねぶたになるわけでしょう、本来は同じものが一方はねぶた。ところが坂上田村麻呂ん何とかって話が一方についているのです。むろん、その話が ついたから皆の記憶に残っていてその行事を行ったのでしょうね。そういう点ではた いへんおもしろいと思うのです。そしてその歌というのは普通、「長き夜を」なんて言葉 がありますが、夏は非常に眠たいものだからその眠りを持って行ってもらおうとそのた めの眠り流しであったといわれています。
眠り流しという行事はわれわれの知っている限りでは西の方はずっと富山県辺りま で分布をみておったのです。もう今日では眠り流しというのではなくなっております。 むしろ眠り流しではなくなってなたばたの笹を流す行事になって来ているのですね。 人形を流したりしている所もあります。それは近頃になって来ると眠りなんか流さなく てもよくなって来たからでしょう。何故眠りなんか流さなきゃならなかったかということ なのですが、これは皆さん方わかる方はわかることですが、昔は夜も昼もなかなか眠 れるものではなかったんですね。のみが喰い蚊が喰い、特に蚤にさされるというのは たいへんなことなので、富山県辺りの眠り流しというのは、蚤流しともいって、蚤を 取って笹の葉に乗せて川へ流すのです。すると蚤が少ないと夜眠れるわけで昼間眠 らなくてもすむわけです。
もとの姿というのはそういうものだったろうと思うのです。それがごく端的にここに書 かれているのですけれど、それと中央のたなばたの笹流しとつながって来るのだと思 うのです。それ以前からわれわれの世界ではわれわれにとって必ずしも幸いでないも のを持って行ってもらう行事があった。今日では蚤も蚊もいなくなり、夜もやすらかに 眠れるようになると、呪術が芸能になり青森辺りのようなねぶたに変って来るのでしょ う、ということは、明治の終わり頃まではこんな大きなねぶたは青森にも弘前にもな かったんです。直径三〇センチメートルくらいの普通たい車といいますが、魚の格好をしたものの中にローソクを立ててそれを川のほとりへ持っていって流したものなんで す。...」
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イエスの裁判
「すらすら読めるイエス伝」山本七平 講談社α文庫 2005年
イエス法廷の謎 p121〜
「『新約聖書』のイエスへの裁判記録を読むと、だれでも、何かわからない点が残ると思います。
そこでここではまず。そのわからない点について書き、次に、裁判における細かい点に進もうと思います。
わかりにくい点の一つは、当時のユダヤで、だれが人を裁く権限をもっていたかが、はっきりしないことですが、これは、『聖書』の記述が曖昧だからではありません。 当時の人にも、よくわからなかった、そしてわからないのが実情だったのです。 この点、『聖書』の記述は非常に正確です。
と言うと奇妙に見えますが、日本も、戦後の米軍占領時代に、これとよく似た状態になりました。 ですから、ここまでまずそのころのことを思い出していただくと、当時のことが比較的正確に理解できるだろうと思います。
戦争直後の日本にも、二種類の裁判所がありました。
一つは日本の法廷、もう一つはアメリカ軍の軍事法廷です。
そして原則的には、アメリカの軍人・軍の関係者は軍事法廷でアメリカの軍法に基づく裁判にかけられ、普通の日本人は日本の法廷で日本の法律に基づく裁判にかけられたわけです。 こう言うと簡単明瞭なようですが、細かく調べるといろいろな問題が出てきます。
アメリカ軍に対する犯罪と見なされるもの、たとえば軍施設の破壊などは、その容疑者が日本人で、実際に被害を受けたのが日本人だけでも、軍事法廷でアメリカの軍法に基づいて裁かれます。
では、アメリカの軍人の日本人への犯罪はどうでしょうか。
これも講和までは軍事法廷でした。 また、日本政府への叛乱は、たとえ純然たる日本政府への叛乱だと主張しても、それは、政府を管理しているアメリカ軍への叛乱と見なされて、やはり軍事法廷で裁判にかけられることになります。 イエスの時代すなわちローマ総督下のユダヤは、これと非常によく似ていた状態にありました。
といっても、ローマの態度はアメリカほど明確ではなく、また総督にとっても方針が違いますから、その時どきの状態で、同じような犯罪も、あるときはユダヤ人が裁判権をもち、あるときはローマ側が裁判権をもつといった例もあったようです。
イエスへの裁判の記録を読む場合、以上のことを頭に置いておくと、非常にわかりやすいと思います。」
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人を処刑する権限は?
イエス法廷の謎 p121〜
「『新約聖書』のイエスへの裁判記録を読むと、だれでも、何かわからない点が残ると思います。
そこでここではまず。そのわからない点について書き、次に、裁判における細かい点に進もうと思います。
わかりにくい点の一つは、当時のユダヤで、だれが人を裁く権限をもっていたかが、はっきりしないことですが、これは、『聖書』の記述が曖昧だからではありません。 当時の人にも、よくわからなかった、そしてわからないのが実情だったのです。 この点、『聖書』の記述は非常に正確です。
と言うと奇妙に見えますが、日本も、戦後の米軍占領時代に、これとよく似た状態になりました。 ですから、ここまでまずそのころのことを思い出していただくと、当時のことが比較的正確に理解できるだろうと思います。
戦争直後の日本にも、二種類の裁判所がありました。
一つは日本の法廷、もう一つはアメリカ軍の軍事法廷です。
そして原則的には、アメリカの軍人・軍の関係者は軍事法廷でアメリカの軍法に基づく裁判にかけられ、普通の日本人は日本の法廷で日本の法律に基づく裁判にかけられたわけです。 こう言うと簡単明瞭なようですが、細かく調べるといろいろな問題が出てきます。
アメリカ軍に対する犯罪と見なされるもの、たとえば軍施設の破壊などは、その容疑者が日本人で、実際に被害を受けたのが日本人だけでも、軍事法廷でアメリカの軍法に基づいて裁かれます。
では、アメリカの軍人の日本人への犯罪はどうでしょうか。
これも講和までは軍事法廷でした。 また、日本政府への叛乱は、たとえ純然たる日本政府への叛乱だと主張しても、それは、政府を管理しているアメリカ軍への叛乱と見なされて、やはり軍事法廷で裁判にかけられることになります。 イエスの時代すなわちローマ総督下のユダヤは、これと非常によく似ていた状態にありました。
といっても、ローマの態度はアメリカほど明確ではなく、また総督にとっても方針が違いますから、その時どきの状態で、同じような犯罪も、あるときはユダヤ人が裁判権をもち、あるときはローマ側が裁判権をもつといった例もあったようです。
イエスへの裁判の記録を読む場合、以上のことを頭に置いておくと、非常にわかりやすいと思います。」
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人を処刑する権限は?
posted by Fukutake at 10:05| 日記
2025年01月30日
自分は騙されない!
「幸・不幸の分かれ道」ー考え違いとユーモアー 土屋賢二 東京書籍 2011年
考え方が幸不幸の分かれ目になる p32〜
「われわれは判断力も思考力も貧弱なのですから、なおさら、よけいな先入観をもたないように気をつけなくてはなりません。
ミステリを読むと分かりますが、ダマされないように注意深く読んで、こいつが犯人 だなと思っても、だいたいその推理は間違っています。ぼくなんか当たったためしがな い。ただ裏切られる快感のために読んでいると言ってもいいんですけどね。慎重に考 えながら読んでも、作者の術中にはまっているんです。ちょっとしたことで誤りを犯して しまう。
人間は簡単に間違えるし、簡単にダマされます。詐欺にも簡単に引っかかるし、ミス テリにもダマされるし、マジックを見ても簡単にダマされますよね。それを楽しんでいる んです。ミステリやマジックを楽しめるのは、自分が正しいことを見抜く力がないから です。何でも見通せる神だったらそんなものは楽しめないでしょうからね。こういうこと からも、いかに自分が思い違いをしやすいかということが分かると思います。どんな 人でも、本人が思っているほど正しい考えをもっているわけではないし、ものの考え方 が確かなわけではないんです。
マジックやミステリのように人間の間違いやすさが楽しみにつながる場合だけでは ありません。それが原因で不幸になったりすることがあるのが問題です。ダマされた 結果お金を巻き上げられることもあるし、お金の損失はまだいいとしても、間違った考 え方のせいで不幸になったり、不幸な状況が耐え難いほど不幸に思えることもありま す。たとえば、「幸福とは神と向かい合えることだ」と思い込んでいたら、ふつうの人な ら、ぼくと同じように、自分は色々悪いことをしているから神と一対一で向き合えない と思って、幸福な気分にはなれないででしょう(もしかしたらぼくだけでしょうか?)。 ちょっとしたものの考え方が、幸不幸の分かれ目になることがある。だから、できるだ け正確に考えて、自分の考えを絶えず吟味する必要があります。
ただ、ぼくがこう言っても、多くの人は、自分は間違っていない、少なくとも自分の考えはだいたい正しいと思っているかもしれません。」
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考え方が幸不幸の分かれ目になる p32〜
「われわれは判断力も思考力も貧弱なのですから、なおさら、よけいな先入観をもたないように気をつけなくてはなりません。
ミステリを読むと分かりますが、ダマされないように注意深く読んで、こいつが犯人 だなと思っても、だいたいその推理は間違っています。ぼくなんか当たったためしがな い。ただ裏切られる快感のために読んでいると言ってもいいんですけどね。慎重に考 えながら読んでも、作者の術中にはまっているんです。ちょっとしたことで誤りを犯して しまう。
人間は簡単に間違えるし、簡単にダマされます。詐欺にも簡単に引っかかるし、ミス テリにもダマされるし、マジックを見ても簡単にダマされますよね。それを楽しんでいる んです。ミステリやマジックを楽しめるのは、自分が正しいことを見抜く力がないから です。何でも見通せる神だったらそんなものは楽しめないでしょうからね。こういうこと からも、いかに自分が思い違いをしやすいかということが分かると思います。どんな 人でも、本人が思っているほど正しい考えをもっているわけではないし、ものの考え方 が確かなわけではないんです。
マジックやミステリのように人間の間違いやすさが楽しみにつながる場合だけでは ありません。それが原因で不幸になったりすることがあるのが問題です。ダマされた 結果お金を巻き上げられることもあるし、お金の損失はまだいいとしても、間違った考 え方のせいで不幸になったり、不幸な状況が耐え難いほど不幸に思えることもありま す。たとえば、「幸福とは神と向かい合えることだ」と思い込んでいたら、ふつうの人な ら、ぼくと同じように、自分は色々悪いことをしているから神と一対一で向き合えない と思って、幸福な気分にはなれないででしょう(もしかしたらぼくだけでしょうか?)。 ちょっとしたものの考え方が、幸不幸の分かれ目になることがある。だから、できるだ け正確に考えて、自分の考えを絶えず吟味する必要があります。
ただ、ぼくがこう言っても、多くの人は、自分は間違っていない、少なくとも自分の考えはだいたい正しいと思っているかもしれません。」
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posted by Fukutake at 06:47| 日記