2023年09月23日

高校へ行きたい

「教科書のその後」 水口ヒデ子 (産経新聞朝刊2023・9・13付け 朝晴れエッセーより)

「高校時代、友人と町工場のバイトにいった。 同年代の男の子がいた。

 シャイで眩しげな視線を向けていたが、時がたつと、昼休みは、おしゃべりタイム。

 かれの口癖は「いいな高校へいけて」。 夢は「労働条件の良い職場に移って、夜間高校から夜間大学へ、いつの日にか教師になりたい」だった。

 あまり勉強もしたくないのに、仕方なしに通学、授業中は居眠り状態。 こんなにも学問をしたがっている人がいることが新鮮だった。

 「私、勉強大嫌い」「エエー」。 かれは「よくわからないけど、学問は人生を豊かにしてくれると思う」。

 バイト終了日、私は一年生のときの教科書をそっくりそのまま彼にプレゼントした。 「本当に全部もらってもいいの?」 彼の瞳はキラキラと輝いていた。

 本当に必要としている人の所にいってこそ教科書は生きてくる。

 あれから長い年月、彼は夢がかなえられたのか?

 あいも変わらず私の方は、ダラダラと時は流れていった。

 そろそろ終活の教科書を勉強しなくては。」


60〜70年前はこんな感じでした。
posted by Fukutake at 07:57| 日記

単語会話

「木をみて森をみない」 青山南 ちくま文庫 1999年

ブッシュスピーク p104〜

 「アメリカのブッシュ大統領。 とにかくなにを言っているのか、なにが言いたいのか、一般人には分かりにくかったらしい。 ペンシルベニア大学のコミュニケーション学の教授の言葉を借りよう。

 「ブッシュがしゃべっている言葉は、わたしたちがふだん使っている言葉だから、馴染みやすい。わたしたちは、毎日の生活で、かならずしもはっきり分かりやすくものを言っているわけではないんですよ」
 うーむ。 まだ、なんだか分かりにくいね。 では、記者がつくってくれたブッシュ的言語を紹介してもらおうか。 訳しておく。

「野心的な目標? もちろん。 簡単? むずかしい」
これは直訳ですが、分かった? 分かんないだろうな、要するに、ブッシュスピークとは切れ切れの言葉なのである。 嘘か真か、麻薬退治のメッセージをテレビの漫画のなかに織りこむようにとテレビ関係者に要請したとき、ブッシュは、こう言ったそうだ。
「二千万人の子どもたち。 感じやすい」
まるで判じ物である。 いや、ほとんど俳句の世界だ。

 「古い池。飛びこむ。 蛙。 音」 アメリカで流行しているという俳句を思わせる、ブッシュスピークである。
『サタデー・ナイト・ライヴ』のコメディアンはブッシュスピークをつぎのようにパロったそうだ。
『ブッシュの前、壁。 ブッシュとともに、壁ない」

 あるいは、評判の悪い、というか評判のない副大統領を弁護してブッシュ曰く。
「ダン・クウェイル。 まだ受け容れられている」
『ニューヨーク・タイムズ』のダウド記者によれば、(1)主語がない、(2)ときどき動詞がない、がブッシュスピークの特徴なんだそうで、若い共和党員の間でこのしゃべりかたはおしゃれだと人気があるらしい。”clipped lip"(刈りこまれた口)、という韻を踏んだ名称までできているという話だけれど、ホントかね。 きっとホントだよ。 情けない。 ヴィジョンがない、とブッシュを批判するゲッパート議員のことを、若い共和党員はたとえばこんなふうにブッシュスピークで論評しているというのだ。

「ゲッパート。 死んでる。 九二年。 死人」
まあ、内容空疎な美辞麗句を並べられるのもなんだが、こんな具合に簡潔にやられるのもたまりません。」

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相方の小泉元首相も似たような口調だった。

posted by Fukutake at 07:54| 日記

2023年09月22日

ドイツ、日本 ー 個人主義度が低い

「我々はどこから来て、今どこにいるのか?(下)」ー民主主義の野蛮な起源ー エマニュエル・トッド 文藝春秋 2022年

直系家族型社会としてのドイツと日本 p174〜

 「肝腎なのは、ドイツと日本が、人口学的に見て同じような軌跡を辿っているということ、そしてそのドイツと日本が直系家族という人類学的形態から生成した二つの社会、つまり、父系制レベル1に特徴づけられた二つの直系家族型社会だということである。 父系制レベル1は、女性たちの教育を禁止しないだけでなく、子供の教育係としての母親を大いに尊重する。 しかし女性たちは、学業ののちに職業労働に就こうとすると、男性の特徴ー子供を産まないということーを自分のものとしなければならない。 「核家族」型社会は、高等教育を受けて職業労働に就いている女性が女性であり続け、子供を持つことを許す。 

 この二つのタイプの先進社会を対立させてみると、変化と収斂を混同しなくても済む。 しかし、もう一つ別のパラロジスム(誤った推論)に嵌ると、あたかも厳密に分離された二つの軌道があるかのように錯覚してしまう。 つまり、核家族型社会と直系家族型社会がいわば横並びで、それぞれ純粋に内発的に、別々に推移しているかのように考えてしまうわけだ。 

 実際には、人口の変化は、人類全体が統合されていく過程にある世界で起こる。 経済的クローバリゼーションは、多くの次元にわたるグローバリゼーションのうちの一次元にすぎない。 第二の人口転換もまた、まず米国で起こり、その後世界に拡がったひとつの革命だと見做されなければならない。 そのベースとなった価値観は、まぎれもなく核家族型社会由来だ。 すなわち、個人主義的で、自由主義的で、女権拡張的な価値観。 したがって、ここでわれわれは自問しなければならない。 まさにこの価値観に適応しようとしたからこそ、ドイツと日本の直系家族型社会は人口面で機能不全を来し始めたのではないだろうか。

 グローバリゼーションという概念をここでもし純粋に経済的な次元に限定するならば、グローバリゼーションへのドイツないし日本の対応は高度に効率的だと見做すことができる。 実際、この二国は貿易において構造的に黒字国であり、日本の赤字は、福島原発の惨事によって引き起こされた原子エネルギーの生産停止のあとに現れたにすぎない。 今日では、世界の貿易に驚くべき非対称性と相補的関係が存在している。 英語圏のすべての国が赤字で、一般的に直系家族型社会が黒字なのだ。 しかしながら、もし人口動態を「世界化」という概念(ここでは「グローバリゼーション」よりも広範で、文化的な諸価値をも内包する)の適用対象の一つとするならば、苦悩をともなう疑問が浮かび上がる。 

 子供を生み出す力がドイツと日本で弱いのは、直系家族型社会の単純で直接的な結果であるどころか、もっと微妙に、アメリカ的近代に対する直系家族型社会の反動なのではないか。 個人主義の度合いの低い直系家族型社会では、女性たちが解放され、子供たちが「王様」になっていくような環境の中で、子供を有益な存在だと見做しにくいのではないだろうか。」



posted by Fukutake at 07:48| 日記