2019年01月21日

他人に頼るな

「徒然草 第二一一段」

「万(よろづ)の事は頼むべからず。愚かなる人は、深く物を頼む故に、恨み、怒る事あり。勢ひありとて、頼むべからず。こはき者先ず滅ぶ。財(たから)多しとて、頼むべからず。時の間に失ひ易し。才(ざえ)ありとて、頼むべからず。孔子も時に遇はず。特ありとて、頼むべからず。顔回も不幸なりき。君の寵をも頼むべからず。誅を受くる事速かなり。奴(やつこ)従へりとて、頼むべからず。背き走る事あり。人の志をも頼むべからず。必ず変ず。約も頼むべからず。信ある事少し。
 身をも人をも頼まざれば、是なる時は喜び、非なる時は恨みず。左右(さう)広ければ、障(さわ)らず、前後遠ければ、塞がらず。狭き時は拉(ひし)げ砕く。心を用ゐる事少しきにして厳しき時は、物に逆(さか)ひ、争ひて破る。緩くして柔かなる時は、一毛も損せず。
 人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人も性(しょう)、何ぞ異ならん。寛大にして極まらざる時は、喜怒これに障らずして、物のために煩(わづら)はず。

---
現代語訳は次回。
posted by Fukutake at 09:10| 日記

2019年01月17日

有色人種へ抜きがたい差別意識

「天を相手にする 評伝 宮崎市定」  井上 文則 
  国書刊行会 2018

P337〜

 「『中国のめざめ』は、宮崎(市定)にとっては自身が生きていた同時代の歴史であり、同時代史を書く以上は、「私は努めて私の皮膚で感じとった当時の雰囲気を後世に伝えたいと思う」という意気込みを持っていた。
 宮崎が「私の皮膚で感じとった当時の雰囲気」は、大きくは二つあったように思われる。一つは、この点については太平洋戦争原因論の所でも言及したが、植民地主義の時代にあって日本が「あらゆる方面で窒息しそうな、締めつけられた姿勢にあったこと」である。「当時の世界は今日とは違って、いたる所が列強の植民地であって、局外者は指一本ふれることを許されない。移民を送ろうとすればことわられ、商品を売ろうとすれば締め出される。軍備がなければすぐに付けこまれる」という状況に日本は置かれていたのである。もう一つは、白人優越主義である。宮崎は言う。「時計の針を五〇年ほど、逆まわりさせた二〇世紀初頭において、白人優越主義がいかなる程度であったかは、昭和生まれの若人には想像ができないであろう。もちろん、こういうことはすでにすんでしまったことであるから、改めて関心をよびさますのは本当は面白くないことなのである。しかし、当時の歴史は、困ったことに、それに触れないでは本当に理解できないのである」。宮崎の考えでは、十九世紀と二十世紀を区別する特徴の「最大なもののひとつ」として、「有色人種の自覚」があり、この有色人種の自覚は二十世紀の初頭に日露戦争を通して日本人が呼び覚ましたものであった。
 また同時代史である分、宮崎には思うところが多くあったようであり、あの時、こうしておけば、こうはならなかった。あるいは少しは事態の成り行きが変わっていたのではないかという感慨が『中国のめざめ』ではしばしば吐露される。例えば一九一一年の辛亥革命は袁世凱と妥協することで中途半端なものとなったが、「いまから思えば、革命軍はその目標をひとつに絞って、攻撃すべきものは腐敗しきった北京政府にあるとし、袁世凱を含めて根こそぎ打倒すべきであった。そのためには、異民族居住地の属領などは一時的に手放してもよかったのではないか。外国から金を借りでもよかったのではないか。さずがに孫文などはそういう考えであったが、どうもその方が正しかったと思われる」と述べる。特に宮崎は中国が清朝の領土にこだわったことが後々まで禍根を残したと考えていた。このような感慨はやはり日本に関わる部分で多い。この点も太平洋戦争の原因論との関わりで述べたが、『中国のめざめ』でも、当時のアメリカの執拗な日本敵視政策とこれと表裏の関係にあった中国への肩入れに対しては、宮崎は憤りを隠さない。日中関係が最終的に破局に至ったのも、「第三者たるアメリカのけしかけがなかったならば、こうまではならずに済んだところであった。[中略] 国民政府が倒れて中共政府が出現するに至ったのも、結局はアメリカの行きすぎた努力に負うところが多かったのだ。およそ一国の外交政策として、他の二国を離間して自国が良い子になって甘い汁を吸おうとするようなことはたとえそれが義憤に出たつもりであっても、減に慎まなければならないことだ。[中略] さすがにアメリカのライシャワー元大使は、日本と中共とのあいだで貿易を盛大にしろ、という。もしアメリカが五〇年前からこういう方針でアジア外交を推進していたなら、世界の歴史はだいぶん変わっていたはずである」。宮崎の考えでは、アメリカは中国に深入りしないのがいつの時代でも一番賢明なのである。」

-----
米国が世界を地獄に落とした。



posted by Fukutake at 11:41| 日記

2019年01月15日

ユダヤ人の対応

「悪魔の日記を追え」FBI捜査官とローゼンベルク日記 
 ロバート・K・ウィットマン  デイヴィッド・キニー 河野純治 訳
 2017年 柏書房

ヒトラー政権下、なぜユダヤ人はドイツから逃げなかったか。

P137〜

 「… ケンプナーは(ナチスの政権掌握後の)恐ろしい最初の数ヶ月間は、どうにか逮捕を免れたが、ユダヤ人−そして言うまでもなくナチスの敵− に分類された人間がヒトラーの帝国で暮らすことが、どれほど危険か、よくわかっていた。だがケンプナーはベルリンを離れなかった。まだそのときは。その点では、ドイツの大多数のユダヤ人と同じだった。ビザを求めて事務所に駆けこむ人々もいたが、多くの人−大多数の人々−は様子を見ることにした。
 主に中産階級の人々は、精神的にも、物質的にも土地に縛られていた。みんな自分はドイツ人だと思っていた。単純に、自分たちが栄えていた、しかも過去二世代にわたって栄えてきたこの国でも生活を放棄する準備ができていなかった。
 長年、二級市民として扱われた後、一八七一年、皇帝ヴィルヘルムによって解放されたユダヤ人は、新たな自由を歓迎した。彼らは、ヨーロッパの経済大国になりつつあったこの国で、官職につき、医者や弁護士になり、学界に入り、企業を経営した。多くのユダヤ人はすぐに社会に同化し、あるいは、同化しようと試み、そのために先祖代々の信仰を捨て、プロテスタントや世俗主義に転じた。ドイツ、とくにベルリンはあらゆる国籍のユダヤ人が目指す場所になった。ドイツの金融、政治、科学、文化の重要人物中に、初めてユダヤ人が含まれるようになった。第一次世界大戦中、一〇万人のユダヤ人が入隊し、一〇人中八人が最前線に送られ、一万二〇〇〇にんが理想のために戦って死んだ。
 権力を握ったナチスは、ユダヤ人を追い出してやると怒り狂いながら誓ったが、ユダヤ人のほうとしては、この脅しをどのくらい真剣に受けとめるべきなのか、よくわからななかった。権力を手にした今、きっとヒトラーはレトリックを和らげざるをえなくなる、と多くのユダヤ人は考えた。きっと、ユダヤ人が平和に暮らせるような妥協案を考え出すことができるはずだ。ユダヤ人の指導者たちは忍耐と平静を説いた。たぶんドイツ国民は、一年か二年の狂気の時期が過ぎたら、正気に戻って、ヒトラーを放り出すだろう。
ユダヤ人に対する暴力はこの数年、激化と沈静化をくりかえしていた。ユダヤ人にとって、この先さらにひどい攻撃を受けるのも恐ろしかったが、同様に、国外移住で危険な目に遭うのも心配だった。見知らぬ外国の通りで、無一文でさまよい、言葉もしゃべれず、自分に合った仕事も見つからない、ということになるのではないか?そんなユダヤ人の多くは一家の稼ぎ手で、国外移住を訴える妻の声を無視しているうちに、けっきょく手遅れになった。総合的に考えてみると、ドイツのユダヤ人は、出ていくべき理由よりも、とどまるべき理由のほうが多かった、と歴史家のジョン・ディッペルは書いている。「最初に克服しなければならないものが多すぎた。−土地への執着、現状への満足、懐疑心、独善、無知、希望的観測、そして日和見主義」。驚いたことに、ナチス支配下の最初の数年間、一部のユダヤ系企業は繁栄していた。
 どんな抜け目のないユダヤ人も、まさか大陸全体がナチスの手に落ちるとは予想できなかった、とケンプナーは後年書いている。
 だから彼らは待った。『忠実なドイツ人の愛国者』として待った。」

----
まさかのことが実際に起きるのが現実。
posted by Fukutake at 12:56| 日記