2020年01月16日

時によっては不正もやって良いか

「クリトーン」 プラトン 田中美知太郎 池田美恵 訳 岩波文庫 をもとに、以下の抜粋で意見を述べたい。

不正を為すのは時と場合に依るか?

 「牢につながれ、朝夕の命に直面するソークラテースに対しクリトーンは、「上手くやるから脱獄してくれ」と頼む。いわく、
 「ソークラテース、君が行おうとしていることは、正しいことではないように思われるのだ。君は、助かることができるのに、自分自身を見すてようとしているのだからね。…君の了見では、家族はどうなろうと、少しも構わないということになるのだ。子供たちが孤児の境遇において、通常あわなければならないような目に、たぶんあうことになるだろうというのにねえ。…というのは、僕のためにも、これは恥だと思うのだ、君(ソークラテース)をめぐる、このたびの事件というものが、全体としては、われわれの側に男らしさが欠けていたから、こういうことになってしまったのだと思われわしないだろうか。…われわれは、少しでもまともなところのある者だったなら、君を救い出す条件はそろっているのだから、それができたのに、それをしなかったし、君も自分で助かろうとしなかったということになる。…
何でもいいから、ソークラテース、僕の言うとおりにしてくれ。いやだなんて、どうか、言わないでくれ。」
 他方、ソークラテースは、言う。「つまり僕が、アテーナイ人の許しを得ないで、ここから出ていこうと試みることは、正しいことなのか。それとも正しくないことなのかという問題だ。もしそれが正しいということが明らかになったなら、僕たちはそれをしてみよう。しかし、それの不正が明らかになったなら、やめることにしようではないか。…
 さて、僕たちの主張は、どんなにしても、故意に不正を行ってはならないということだろうか、それとも不正を行っていい場合と、いけない場合があるということだろうか。どっちだね。それとも、われわれが信じてきたあんなものは、どれも皆、この(裁判後の)数日の間に、すべて御破算になってしまったのか。…
 とにかく不正というものは、不正を行う者には、どんなにしても、まさに害悪であり、醜悪であるということになるのではないか。どうだね、僕たちの主張は、これかね、それとも、これではないのかね。」
 クリトーン「うん、僕たちの主張はそういうことになる。」
 ソークラテース「それなら、どんなにしても、不正を行ってはならないということになる。…そうすると、たとい不正な目にあったとしても、不正の仕返しをするということは、世の多数の者が考えるようには、許されないことになる。とにかく、どんなにしても、不正を行ってはならないのだ。…
ところで、どうだね。害悪を加えるということは、クリトーン、なすべきことかね、それとも、なすべからざることなのかね。」
 クリトーン「無論、なすべからざることだと思うね。ソークラテース。」
 ソークラテース「では、害悪を受けたら、仕返しに害悪を与えるというのは、世の多数の主張しているように、正しいことなのだろうか、それとも正しくないことだろうか。」
 クリトーン「それは決して正しいことではない。」
 ソークラテース「つまり、人に害悪を与えるということは、不正な目にあわすということと、ちっとも違っていないからだ。」」


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ゴーンよ、聞け。汝は害をなす者なり。

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posted by Fukutake at 13:33| 日記

2020年01月15日

試験地獄

「科挙」−中国の試験地獄− 宮崎定市 中公新書 1963年

あとがき より
p214〜
 「中国の科挙制度はその前に存在した貴族制度の代替として考案され、日本の学校制度は封建制度が崩壊した直後に、主として官吏養成の目的で設けられた点に何かしら共通なものをもっている。そして社会の地盤には十分な近代的条件がそろっていなかったことも併せ指摘さるべきであろう。正直にいって日本の現在の社会には、まだ非常に封建的な、前近代的な要素を多分に含んでいる。特に労働市場の狭いことから、終身雇用制が社会のいたるところに行われている点が、入学試験地獄が発生する、一つの社会的地盤になっていると思われる。
 中国旧時代の官吏は典型的な終身雇用者である。官吏となれば、終身その地位が保証される一方、他に転業することが非常にむつかしい。そういう地位に就くことを最終の目的として科挙の困難な試験に世人が殺到するのである。日本の現在もややこれに似たところがある。終身雇用制だから、最終学校の卒業と就職とが密接に結合し、一度就職してしまったならば、その後は転業がむつかしく、あるいはほとんど不可能な状態にある。大蔵省の官吏となれば一生大蔵省ですごし、住友に入れば一生住友マンで通す、とすると、一生の運命はほとんど卒業の一瞬間に定まるようなもので、この点科挙と非常によく性質が似通っている。だから卒業の際にいちばん就職に都合よさそうな大学へ我がちに入ろうとし、そのためには最もその大学に可能性の多い高校に入ろうとし、高校のために中学校をえらび、中学校のために小学校をえらび、小学校のために幼稚園をえらぶという一連の最難関競争コースがいつのまにか出来上がってしまう。この一ヶ所への集中、偏在が試験地獄を発生させるのである。…
 日本の試験地獄の底には、封建制に非常に近い終身雇用制が横たわっており、これが日本の社会に真の意味の人格の自由、就職の自由、雇用の自由を奪っているのである。それが大官庁、大会社ほどひどいから困ったものである。
 会社は学校の新卒業生を雇用した時、もうそれから先一生を買い上げたつもりで、忠誠を要求する。それは人間的な誠実ではなくして、封建的、没我的な忠誠なのである。もし自己一生の都合でその会社をとび出せば、裏切り扱いをされるだろう。もしもっと有利な条件で雇う雇い主が現れると、極力義理人情で引きとめようとするだろう。それは労働を買ったのではなく、人格まで買ったことを意味する。」

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執筆から半世紀経った現在でも大組織内では、徒弟制度的な上下関係があるようだ。
posted by Fukutake at 08:58| 日記

2020年01月14日

過去を視る

「ユーラシアの東西 − 中東・アフガニスタン・中国・ロシアそして日本」
 杉山 正明 日本経済新聞出版社 2010年
(その2)
人類という立場からの世界史

p154〜
 「(新しい世界史)において、紛争や対立をのりこえる視座や思考は不可欠である。かつての西欧ないし欧米は、みずからを優位におくあまり、そうでないものを「異なるもの」として、ことさらに蔑視や差別感をあおるような文明観・歴史観をつくりだしてきた。それは、政治家・宗教家・思想家にとどまらず、歴史家・歴史研究者も、自分が実は十分に理解しきれていないものについてはむしろ、ともすればマイナス思考に傾きがちであった。
 学者が対立を助長することもある。たとえば、「文明の衝突」などといった浅はかな頭脳がひねり出した虚構と単純化が、お粗末で攻撃的な権力に「錦の御旗」をあたえて実態化させてしまい、世界に多くの不幸と災厄をもたらしている愚をわたくしたちは目のまえに見ている。(十数年もまえ、筆者がハーヴァードに滞在していたおり、ハンティントンなる奇矯な人物の語ることを、ほとんど誰も相手にしていなかったことを思い出す)。
 世界史をふりかえれば、西欧が浮上した十八〜十九世紀以降、むしろ野蛮と暴力・殺戮・破壊はどんどん激しく大規模になっている。「文明化」というもの、そしてそれにともなう美化された対立・抗争の図式においては、プラスとマイナス、はたしてどちらが大きいだろう。過去と現在を眺める行為は、ときに現在が創作した過去をもって、現在を語らんとすることになりかねない。ところが、いわゆる「近代」なるものが、遅れた時代のこととして断罪するこれ以前のさまざまな侵略や破壊のストーリーは、きちんとしらべてゆくと、しばしばそれは、その時代よりも後の思惑が生んだ「つくりごと」や自己正当化のための述作・いいわけであったり、もしくはとくに一神教の宗教家たちによる聖化のためのことさらな教説であったりする。歴史を率直に見れば、時代としての野蛮さは「近代」「現代」「現在」の方が圧倒的である。今をもってよしとするのは、今に生きるわたくしたちの“うぬぼれ”の類いかもしれない。
 そのいっぽう、かつて実際にあったことや近現代の現実をこえて、あまりにも「国民国家」的な幻想や言説がゆきわたってしまった結果、ほとんどはそうではなかった歴史が、現在の幾らかの国々において、内外にたいする擬態やブラフとして政治利用されたり、さらにはナショナリズム風のエモーショナルな利害・気分で色づけされてすっかり変身し、別の姿となりはてて、時には「踏絵」さえ求めたりする。ところが、そもそも歴史と現在を語るさい、共通して使われる「国家」「民族」「部族」といった基本用語そのものが、タームは同じでも実態においては、「近代」以前と以後では似て非その上なるものである。そのうえ、それらがさしていたものは、ことば・概念・実態のいずれにおいても、今やほとんど地崩れをおこしている。多分、わたくしたちは、輪郭のあきらかな説得力のある別の用語・概念をつくる必要がある。」

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これからの世界の行方を考える糧としての過去の歴史を把握しなおす。


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posted by Fukutake at 10:55| 日記