2019年07月29日

自らを知れ

「新版 発心集」鴨長明 浅見和彦・伊藤玉美 訳注 角川ソフィア文庫
 平成二十六年

 第五(一二)現代語訳 p401〜
 「…またある人が片田舎に行って、身分の低い人の家に泊めてもらったところ、この家の主は八十歳余りだろうか、髪は雪のように白く皮膚は黒く、皺だらけで、目はただれ、歯は抜けて口ゆがみ、腰は二重に曲がって、立ち居のたびに大きく苦しい息づかいで、まさに今日、明日の命のように見えてとても気の毒だった。この老人に「あなたは老いが迫っていて、残りの命もどれほどであろう。歩くのもやっとなのだから、人中に交わっているだけでも苦しいだろう。今は出家の一つもして、念仏を唱え、心静かにしておいでなさい。そうすれば、来世が楽しみであるだけでなく、体も楽でしょう」と言った。翁は「たしかに、今はそのようにさせていただくべきなのですが、どうしても就きたい官職が一つありますので、堪え難い身ながら老いの力で頑張って、ここまで仕えて来ています。私よりもう三歳年上の老人が、私の上役にいます。この人が亡くなった後には、必ず私がその職に就く順番なので、それまで待っているのです」と言うのだった。
 この程度の人物が就く官職を考えてみると。その程度の大したものでないに違いない。そんなことに執着して、今か今かと見つめているとは、罪深く情けないことであります。」

(原文)
 「またある人片田舎に行きて、賤しき家に宿を借りて泊りけるに、この家の主を見れば、年八十余りにやあらん。頭(かうべ)雪の如くして、膚黒く、皺たたみ、目ただれ、口すげうて。腰は二重(ふたえ)にかがまりて、立ち居
るたびに大きに苦しう、いかにも今日、明日のことこそと、いとほしく覚えて、これをすすめていふよう、「汝、老ませりて、残命今いくばくかはあらん。行歩もかなはざれば、人にまじるにつけても苦しからん。今は出家うちして、念仏申して、のどかに居たれかし。さらば、後世の楽しみもしかるべきのみにあらず、身も安からん」といふ。翁のいふやう、「まことに、今はさやうにこそ仕るべきを、なるべき司の一つ侍るにより、たえぬ身に老いの力をはげみて、かくまで仕へ侍るなり。我よりも今三年がこのかみなる翁、上臈にて侍り。かれ、人まね仕りなん後は、必ずその司にまかりなるベければ、それまで待ち侍るなり」といひけり。
 さやうの者のなる司、思ふにさばかりにこそアルらめ。そのことに執をとめて、今や今やとまぼりおりけん、罪深くあわれにこそ侍れ。」

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posted by Fukutake at 14:19| 日記

2019年07月26日

炎の反骨精神

「楠木正成」 植村清二 中公文庫 1989年

 正成の人物

 p216〜
「… 足利尊氏が後醍醐天皇から離反して幕府を建設した際に当って、正成は和泉・河内の守護であった。恩賞の過不足は別問題として、少なくとも正成にとっては過去の潜勢力は公式に確認されたのである。地位の低い場合には身を軽んじても、地位が高くなれば、身を惜しむようになるのは人の世の常である。既に中興の政治の失敗によって、その久しく維持できないことを明らかに看取した以上、その地位と所領とを保有するために、もし能うべくばこれを拡大するために、足利氏の下に走ることは、正成にとっては必ずしも困難ではなかったに相違ない。事実当時の多数の武士は、極めて功利的であって、ほとんどすべてその利益を守るために、情勢の変化に応じて、あるいは宮方にあるいは足利方に、その態度を変化させているのである。赤松氏は播磨の作用庄に地頭から起って、宮方に馳せ参じたものであるが、のちに足利氏に属して、山陽道の東半を支配する大身となった。また一つの仮想であるが、正成が時局の趨勢を大観して、足利氏に属したならば、その地位は必ず赤松氏より下に在ることはなく、室町時代を通じて名門大姓の大なるものであったであろう。これはあるいは自家のために図って最も巧みなものであったかもしれない。何となれば何となれば楠木氏には新田氏のように足利氏と両立しない理由は存しないからである。「梅松論」によると、延元の際には一族さえ兵事を難儀したという。しかも正成はこの情勢を認めながらも、あくまでもその操持をかえず、「太平記」の作者の言によれば、死を善道に守って、挙族王事に殉じた。
 多くの場合人は打算によってその行動を決定する。しかしまた人はある場合には打算を超えて行動する。これはあるいは元弘以来恩寵を蒙った天皇との情誼が切であって、離るべからざるものがあったためでもあろう。しかしこれを単に名分あるいは情誼のみで解釈するのは誤っている。この正成の行動の根底には、やはり元弘の挙兵の際と同じく、新しい権力に対する反抗的精神が、火焔の如く烈々として輝いていることを否定することはできないのである。」


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滅ぶとも名を惜しむ
posted by Fukutake at 10:06| 日記

2019年07月24日

バーミアンの石仏

「打ちのめされるようなすごい本」 米原万里  文春文庫 2009年

p82〜

 「(読者から来た)手紙に中に、仏像を破壊するような輩に懲罰するのを躊躇する理由はない、という文言があった。おそらく昨年(2001年)三月にタリバンがバーミヤンの世界最大の石仏を破壊したことを指しているのだろうが、そう言い切る前に、ぜひともモフセン・マフマルバフ著『アフガニスタンの仏像は破壊されたのでない 恥辱のあまりに崩れ落ちたのだ』を読んで欲しいと思った。
 マフマルバフはイランを代表する映画監督で作家でもある。『サイクリスト』に続き昨年完成した映画『カンダハール』のロケのためアフガニスタンについて「およそ一万ページのさまざまな本や文書を研究し」つぶさに現地を観察する機会を持った。石像破壊について、貴重な文化財の破壊だと世界中が抗議の声を上げた最中に本書に収められた告発文は書かれている。巻頭で、著者は警告する。「この苦い題材が、あなたの心地よい生活に無関係だと思うなら、どうか読まずにいてください」と。

 ソ連軍が引き揚げた後も続いた内戦で国土が荒廃した大地を空前の旱魃が襲う。難民が数百万単位で発生する生き地獄の中で餓死者の数が百万を超え、さらに増え続ける。「私は、ヘラートの町はずれで、二万人もの男女や子どもが、飢えて死んでいくのを目のあたりにした。彼らはもはや歩く気力もなく、皆が地面に倒れて、ただ死を待つだけだった」「私たちのチームは、懐中電灯を持って荒野を調査していたのだが、アフガニスタンから逃げてきた難民たちが、羊の群れのように荒野に打ち捨てられ、死の淵にいるのを見た。コレラで死にかけているものと思い、ザーボルの病院に連れていくと、実は彼らは餓死しかけているのだと知った」「タジキスタンのドゥシャンベで、私は一〇万人ものアフガンの人びとが南から北へ徒歩で逃げる場面を見た。あたかもそれは最後の審判の荒野のようであった。これらの映像を、世界のメディアは少しも報道しない。戦争で傷ついた、裸足の飢えた子どもたちが、何十キロもの道を逃げてきたのだ。その後、この逃げる群衆は、背後からは国内の敵に攻撃され、逃げようとする先のタジキスタン側からは受け入れられなかった。そして千人また千人と、アフガニスタンとタジキスタンの間にある無人の土地で、彼らは死に、さらに死に、さらに死んだ」

 石仏破壊には大騒ぎした世界も、石仏破壊よりもはるか以前からアフガニスタン全土を覆っていたこの悲惨な現実に対しては無関心だった。手を差し伸べれば救えるだろう命が次々と絶たれていく事実は無視してきた。アフガニスタンの人たちは、「世界の無知の中で死に、さらに死に、死に続ける」。2000万人の飢えた国内に内、三〇%は難民となり、一〇%は死に、あるいは殺され、残り六〇%は餓死寸前である。ついに著者は…石仏は「あれほど威厳を持ちながら、この悲劇の壮絶さに自分の身の卑小さを感じ、恥じて崩れ落ちたのだ。仏陀の清貧と安寧の哲学は、パンを求める国民の前に恥じ入り、力つき、砕け散った。
 しかし、怠惰な人類は、仏像が崩れたということしか耳に入らない。こんな中国の諺がある。『あなたが月を指差せば、愚か者はその指を見ている』誰も、崩れ落ちた仏像を指さしていた、死に瀕している国民を見なかった」」


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何千万という人々が、スターリン毛沢東の卑小な野望で死に、あるいは原爆で死に、今も世界各地で無辜の人々が死に続けている。
posted by Fukutake at 09:46| 日記