2018年05月14日

消えゆく神話

「野に雁が飛ぶとき」キャンベル選集V ジョーゼフ・キャンベル 
 武舎るみ 訳 角川書店 1996年
その1

 「おとぎ話」

 38P〜

 「…民話や神話の「奇怪で不合理で不自然な」モチーフは、夢とヴィジョンの宝庫から引き出されてくる。こうしたイメージは夢のレベルでは、夢見ている人の心の全体的な状態を表す。しかし、詩人や預言者の手によって、個人レベルのゆがみが除かれた形で示されると、小宇宙である人間の霊的な規範を象徴する存在になる。形而上学的、心理学的、社会学的真理を表すイメージ言語から成る名言となるわけである。そして、この語彙は、原始的なレベルの文化を持つ社会、東洋や古代や中世の社会においては、熟慮され、多少とも理解されていた。それが突如意味を成さないものとなり、ばかげたことだと言われるようになったのは、ごく最近になってのことで、十八世紀の啓蒙運動以降のことに過ぎない。

 物語の起源と意味

 神話とは対照的に民話は娯楽のための物語である。物語を創り、話して聞かせる語り手の技術の甲乙は、聞き手がどの程度楽しめるかで決まる。この場合のモチーフは、神話の木から摘み取られることもあるが、作者の作話技術に神話的秩序があることは厳密に言えない。民話の作者の作品は最終的には、科学や社会学、心理学、形而上学ではなく芸術としてーとりわけ、識別可能な時代と国の個人が創り出した芸術としてー判断しなければならない。つまり、こう自問する必要があるのである。長年にわたってこれらの物語を作り上げてきた語り手たちにインスピレーションを与えたのは、技巧上のどのような原理だったのだろうか、と。

 ヨーロッパのおとぎ話のなかでとりわけすぐれたものを生み出した人々の遠い祖先とも言えるインド、ケルト民族、アラビア、中世の語りの達人達は、いずれは死ぬ運命にある事物を通して、なんとか永遠の存在の輝かしさを示そうとする技を実際に駆使した。そうした人々の作品の特色は、自然主義的ではなく超自然的な精密さであって、彼らの力は教育効果の面から見ると驚異的であった。われわれの目から見ると、このような技と形而上学にはほとんど違いがないように映るかもしれない。というのは、「形而上学的な」という言葉が示す意味は拡大されて、実証主義的な話のレベルに置き換えられないものすべてを含むようになったからである。しかし、ゴート人であれ、東洋人であれ、古代人であれ、トーテム制度の社会に属する人々であれ原始的なレベルの文化を持つ人々であれ、近代以前のタイプに属する人々は概して、超越的なエネルギーが空間と時間という形をとって作用することも当たり前のこととして受け取っていた。…」


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「おとぎ話の登場人物は、主としてその魅力ゆえに大事にされた。そのため、神々の王国は現代の精神という『酸』に溶かされてしまった…」
posted by Fukutake at 11:36| 日記

2018年05月10日

その赤は同じか

「遺言」 養老孟司  
−これだけは言っておきたかった− 80歳の叡智がここに! 
 新潮新書 2017


116p〜

 「芸術作品の唯一性と深く関連した概念がある。それはクオリアである。クオリアを精細に論じると厄介なことになる。簡単に説明しようと思って、ウィキペディアを参照したら、エライことになった。説明の長いこと、長いこと。しょうがないから、詳しいことは茂木健一郎に聞いてくれ、というしかない。

 クオリアは英語の質(quality)と関連している。語源はラテン語である。言葉の上では、クオリアは感覚の与える質感のようなものを指す。ただしこの質感は、他人に感知できない。子どもの時に考えたことはないだろうか。私が見ている赤色を、友だちはどういう色として見ているのだろうか。ひょっとしたら、私の見ている青の感じで受け取っているかもしれない。

 この説明で即座にわかる人もいるだろうし、まったくわからないという人もいるかもしれない。学生の三分の一は、この話がわからない。そういう研究報告をした人もある。脳の回路が人によって違っているのかもしれない。
 ともあれ、人がなにかを感じる時、その感じそのものを他人が感知することはできない。患者さんが痛い、痛いと言っている時に、実際どう痛いのか、医者は体験できない。教師時代によくやったことだが、学生が「説明してください」という時に、男子学生だったら、「説明したら。陣痛がわかると思うか」と言ってやった覚えがある。

 現代社会のように、情報が溢れている中で育つと、すべては説明可能だといつの間にか信じ込む。少し意地が悪いと思ったけれど、私は言葉の限界についての無知を注意しただけである。…」

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感覚は伝わらない。
posted by Fukutake at 09:20| 日記

2018年05月07日

仮面としての人生

「キャンベル選集U 生きるよすがとしての神話」 ジョーゼフ・キャンベル  飛田茂雄・吉川菜々子・武舎るみ(訳)  角川書店 1996年

ペルソナ

第四章 東洋と西洋の分離より
 75p〜

 「スイスのカール・G・ユングは、『人生において、どの人もある特別な社会的役割を演じることを社会から要求されていると』と指摘しました。社会の一員として機能するために、だれもが常に役割を演じなければならない。このような役割をユングはペルソナ(personae)と呼びました。…

 社会的役割を果たそうとすれば、人はなにか仮面をかぶって人前に姿を現さなければなりません。そのような仮面を拒否する人間も、結局はほかの仮面、つまり拒否の仮面をかぶるだけのことです。『仮面など、ごめんだ』とでも言いたげな表情の仮面を。仮面の多くは、大した意味のない、その日その日の気分に合わせた表面的なものです。しかし、非常に深遠な意味を秘めた、本人が考えている以上に深い意味を持つ仮面もあります。ちょうど、どの人の肉体も、頭部、二本の腕、二本の脚などで構成されているように、生きているすべての人間は、ほかの特徴と共に、パーソナリティーというものをもっています。パーソナリティーはとは、精神の奥深くに刷り込まれたペルソナです。パーソナリティーを通して、私たちは自分自身を知り、他人もそのパーソナリティーによってその人を理解するのです。したがって、パーソナリティーなくしてはその人らしさは失われてしまいます。だから、例えば「仮面を脱ぎ捨て、自然に振る舞おう」などと言うのは、実にばかげた話です。脱ぎ捨てても、脱ぎ捨てても、またまたその下には仮面がいくつもいくつもあるのですから。若さの仮面、年齢の仮面、さまざまな社会的役割の仮面が。そして、相手にこちらからかぶせてしまう仮面もあります。そのような仮面を通して見ると、相手の実像がぼやけてしまうのですが、私たちはその仮面に向かって対応するのです。」

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人生は一種の舞台だという意味がわかります。
posted by Fukutake at 07:43| 日記