2018年01月05日

ファストフードの裏の真実

「ファストフードが世界を食いつくす」(その1) エリック・シュローサー 
楡井 浩一=訳 草思社 2001年

 食肉業界の現実

 234p〜
 「… 解体場に入ると、光景はもはや理論の意味づけを待ってはくれない。日常とかみ合わない場面が、次から次へと現れるばかりだ。電動のこぎりを手にした従業員が、牛を縦に割っている。丸太を製材する要領だ。半身になった牛が高架レールからぶら下がり、わたしの鼻先をかすめて冷蔵庫へと向かう。がぜん食肉処理場らしくなってきた。数十頭分の牛が、皮を剥がれ、後ろ脚を鎖でくくられた格好でぶら下がっている。
 案内人が足を止めて、私(シュローサー)に気分はどうかときき、先に進むかどうかを打診した。人によっては、この辺で吐き気がするそうだ。私は平気だった。何もかも見て帰ろうと心に決めていた。なにしろ意図的に隠されてきた世界だ。解体場は蒸し暑かった。牛糞の臭いが漂う。牛は体温が三八度前後あるそうで、その胴体が部屋中にごろごろしている。ぶら下がった枝肉が高架レールをどんどん流れてくるので、流れを横目でにらみながら、身をかわし、足もとに気をつけていないと、ぶつかったら造作もなく、血まみれのコンクリートの床に投げ出されてしまう。従業員はしじゅう、そんな目に遭っている。
 こんな光景を見た。男が牛の腹に腕を突っ込んで、素手で腎臓をもぎ取り、金属製の荷滑らし(シュート)に投げ込む。これを何度も何度も、目の前に牛が流れてくるたびに繰り返す。ステンレス製のラックに、舌が掛かっている。<ウィザース(丸刃を回転させる小型の電動ナイフ)>が、胴と切り離された頭部から、肉を削ぎ落とす。いっさいをこそげ落とした頭部は、ジョージア・オキーフが描く白い頭蓋骨さながらだ。足首を浸す血だまりが、渦を巻いて排水溝へと流れ込み、床下の巨大なタンクに落ちていく。ラインの先頭に近づいてきたらしく、ここで初めて、規則正しい、ポン、ポン、ポンという牛を気絶させている音が聞こえてきた。
 このあたりにまでくると、頭上を行く牛は、いつも牧場で目にしている牛とどこといって変わらない。ただしここでは、逆さになって鉤にぶら下がっている。一瞬、目の前の眺めが、現実感を失う。何体も逆さ吊りの牛、牛、牛が、息ひとつせず……。ふと見ると、幾頭かが、なお後ろ脚を蹴っていた。最後の反射作用だ。ざらついた現実感がくっきりと立ち上がる。
 八時間半問うもの、刺し屋(スティッカー)と呼ばれる作業員は、ただ黙々と、潮のような血溜まりの中、全身から血を滴らせ、ほぼ10秒おきに、去勢牛の喉もとを切り裂き、頚動脈を絶つ動作を繰り返す。長いナイフを操って、間違いなく急所を探り、牛をせめて楽に成仏させてやらなければならない。彼は、何度となく、同じ急所を刺しつづける。」

---
屠殺場の光景。
posted by Fukutake at 11:18| 日記

2017年12月27日

見巧者とは

「落葉籠(下)」 森 銑三 (小出昌洋 編) 中公文庫 2009年

 坂元 雪鳥

194P~
 坂元雪鳥能評全集
 「…能を見る機会には戦後恵まれないが、坂元雪鳥さんの能楽に関する著書の一二を読んで大変感心した。この序にと、「坂元雪鳥能評全集」の上下二巻をも通読したら、これはまたこれで実にいいものであった。
 第一に坂元氏の純粋な態度に打たれる。坂元氏は自分の眼で能を見て、思うがままを、率直に述べている。相手がどんな能楽者であろうと、おめず臆せず物がいってある。少しも萎縮したりしない。その反面、素人の能は素人の能として、それも丁寧に見て、素人の芸にはまた玄人も及ばない特別のよさのあることを認めている。そうした坂元氏の人間に好意がもたれる。坂元氏はもともと国学者で、その方面にもしたい仕事を持っていられたというが、その方面には纏まった業績というほどのものもなくて、この「能評全集」が同氏の第一のに挙ぐべき著作となってしまった。しかし氏がその一生を通じて、打込んで能を見て、これだけの能評を残して置かれたというのは、実に有意義なことだったと思わずにはいられない。

 万三郎の羽衣
 明治四十五年一月、梅若会の例会脳に、坂元氏は万三郎の「羽衣」を見て、その最上級の出来栄に、いい尽くされぬ満足感に浸り、こういう出来済ました能に、どこがよいなどと指摘することは不可能だといい、若草の萌ゆる円い山を、花の香のする春風が、静かに撫でて行く、そうした感じの能であった。要所要所を書留めはしたけれど、列挙するとなると、全部書かなくてはならない。『先づ我々が予想し得る出来栄の極致に達したものといへばそれでよい』といい、『この能が済むと、もう何物も見たくなくなった。六郎の望月は白頭と小書にあったにも拘らず、それも見捨てて帰ってしまった』という。後の能を見ないで帰ったというのは、いつまでも万三郎の「羽衣」の能の雰囲気に浸っていたかったのでもあるが、かような記述を読むと、幸福感を満喫してもうこれだけで十分だという坂元氏の気持ちが伝えられて、読む者までが嬉しくなる。」

---
万三郎の能について、小林秀雄も『當麻』に書いてましたね。

posted by Fukutake at 15:44| 日記

2017年12月25日

種の寿命

「人類が知っていること すべての短い歴史(下)」 ビル・ブライソン 
楡井 浩一 訳 新潮文庫 2014年

 186p〜

 「過酷な環境に強いものの例にもれず、地衣類は生長が遅い。シャツのボタンほどの面積を埋め尽くすのに半世紀以上もかかることがある。そのため、デイビッド・アッテンボローは、地衣類がディナー用の大皿くらいの面積まで広がるには「数千年とまではいかなくても数百年はかかるだろう」と記している。これ以上に不活発な存在は想像しがたい。アッテンボローは、「地衣類はただそこにある。そして、この上なく単純なレベルの生命体でさえ、明らかに自己のためだけに発生するという感動的な事実を証明している」と付け加える。
 生命体とはただそこにあるもの、という考えかたは見過ごされがちだ。わたしたち人間は、生きることに意味を求めようとする。計画や野心や欲望を抱え、絶えず自分に与えられた生を堪能しようとしているのだ。しかし、地衣類にとって生命とはなんだろう? あらゆる点から見て、存続したい、生きたいという地衣類の衝動は、わたしたち人間と同じくらいーいや、おそらくはそれ以上にー強力だ。わたしなら、森の中の岩に生えた苔として何十年も過ごせと言われたら、きっと生きる意志を失う。しかし、地衣類は違う。事実上すべての生きとし生けるものと同じく、ほんの一瞬でも長く存在するために、艱難辛苦を乗り越えていく。簡単に言えば、命あるものはひたすら自己の存続を願う。しかしーここが興味深い点なのだがーだいたいにおいて、多くは望まない。
 (中略)
 四十五億年という歴史の中で、わたしたち人類の存在がいかに新しいものかを、さらに効果的に把握するためには、両腕をいっぱい伸ばして、その長さを地球の全歴史だと考えればよい。ジョン・マクヒィーの『盆地と山脈(Basin and Range)』によると、この尺度では、片手の指先からもう片方の手首までの距離が、先カンブリア時代に当たる。複雑な生命体はすべて、片手におさまる。『そして、爪の中目のやすりを一回かけただけで、人類の歴史は剥がれ落ちてしまう。』
(中略)
 「これまで地球に生まれた全生物種の99.99パーセントは現存していない。シカゴ大学のデイヴィッド・ラウブは、『まずひとつ言えることは、すべての種が絶滅するということだ』と言っている。複雑な生命体の場合、種の平均寿命はほんの四百万年ほどだ。これは人類が生きてきた年月にほぼ相当する。」

----
そろそろ人類も…。
posted by Fukutake at 08:09| 日記