2018年03月15日

上手を真似よ

「徒然草八十五段」より

抜粋

 「…狂人の真似だといって大路を走るなら、とりもなおさず狂人である。悪人の真似だといって人を殺すなら、これまた悪人そのものである。駿馬を真似て1日千里を走るなら、これは駿馬の同類であり、舜を真似て舜と同じ行いができたなら、その人は舜と同列に立つものである。だから、うそにでもいいから賢人の行いを真似ようとして実践にふみきった人は、それを賢人と言って良いのである。」
(「イラスト古典全訳 徒然草」 橋本武)


 (原文)
 「…狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥(*)を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りて賢を学ばんを、賢といふべし。」(吉田兼好)

(*)驥:駿足の馬。
posted by Fukutake at 15:37| 日記

2018年03月12日

老害

徒然草
「イラスト古典全訳 徒然草」橋本 武 日栄社 1989年

第百六十八段

でしゃばるな

 「年老いた人が何か一つのことにすぐれた才能があって、「この人の亡くなった後には、このことについて誰に尋ねようか。」などど世間から言われるのは、老人にとっての味方であって、こういう老人は生きているのも無駄ではない。そうはいっても、そういう老人も衰えたところがないのは、一生このことだけで終わってしまったのだなァと、すさまじい感じがする。年をとったら「今はもうすっかり忘れてしまったなァ。」といっておくのがよい。
 一般的に言っても、いくら知っているからといって、自分の専門についてやたらに放言するのは、大した才能ではなさそうだと感じられるし、十に一つは誤りもあるに違いない。だから、いくら知っていても、「はっきりしたことはわかってないのですよ。」などと言っているのは、なんといってもやはり、まことのこの道の権威者なのだと感じられるに違いない。ましてや、知らないことを得意そうに、年長者でもあり、その人に対しては反対の意思表示ができそうにない人が言い聞かせるのを、「そうでもない」と思いながら聞いているのは、まったくやりきれないものである。」

(原文)
 「年老いたる人の、一事すぐれたる才(ざえ)ありて、「この人の後には、誰(たれ)にか問はん」など言わるるは、老(おい)の方人(かたうど)にて、生けるも徒(いたづ)らならず。さはあれど、それも廃れたる所のなきは、一生、この事にて暮れにけりと、拙(つたな)く見ゆ。「今は忘れにけり」と言ひてありなん。
 大方は、知りたりとも、すずろに(注)言い散らすは、さばかりの才(ざえ)にはあらぬにや聞え、おのづから誤りもありぬべし。「さだかにも辨(わきま
)へ知らず」など言ひたるは、菜穂、まことに、道の主(あるじ)と覚えぬべし。まして、知らぬ事、したり顔に、おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人(注)の言ひ聞かするを、「さもあらず」と思ひながら聞きゐたる、いとわびし。」

(注)すずろに:むやみやたらに
   もどきぬべくもあらぬ人:反論もできないような人

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アホの坂田になろう。


posted by Fukutake at 07:41| 日記

2018年03月07日

空間≠物体

「バカのものさし」 養老孟司  扶桑社文庫 2018 より

(小中学生からの質問に養老先生が答える)その2

85p〜

宇宙のはてはどこか

 「ぼくの娘の話。まだ小さかったころに、「宇宙の果てはどこか」って聞かれました。聞かれたからぼくなりに説明したら、怒ってたね。そんなこと聞きたいんじゃない!って。

 どういうことかと言うと、まず、子どもの頭には前提があるんです。たとえば、自分がここにある紙の上にいるとする、とか、この箱の中にいるとする、とか。で、その紙にも箱にも「へり」、つまり「果て」があるでしょう。それと同じような具合に、宇宙の「へり」つまり「果て」って、どこかにあるんだろう、って思いがちなんだ。
 でもそもそも、へりがあるのは、「物体」なんです。宇宙っていうのは、「物体」が入っている「空間」のことです。だから「物体」をどけてしまうと、その「空間」にはへりも果てもない。はじめっから、そんなもの、ないんです。
 だから、「宇宙の果て」なんて考えるのは、「宇宙」を「物体」とまちがえているわけです。だから、娘の質問自体、まちがってるよ、って言ったら、すごい勢いで怒られました。
 でも、娘にかぎらず、「物体」を考えがながら、なんとなく「空間」っていう概念に気づき始めたころ、この「果て」に関する疑問が頭にわいてくるようですね。
なぜかはよくわかりませんが。」

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空間には果てがない。空間は物体ではない!

posted by Fukutake at 08:41| 日記