2023年09月25日

何を言ってもいいよ?

「科学はどこまでいくのか」 池田清彦 1995年

真理という物語 p69〜

 「「できるだけ簡単な仮説を天体運動に適用しなければならない」と言ったプトレマイオスも、実に「オッカムのかみそり*」の信奉者である。 「「オッカムのかみそり」は現在では、最節約原理という舌をかみそうな名で呼ばれている。
 プトレマイオスがコペルニクスの説を聞いても、拍手を送ることはあっても敵対することはなかったかも知れない。

 スコラ哲学者トマス・アクィナスによって展開されたアリストテレス的なコスモロジーが、教会の公的解釈ではあっても、プトレマイオスの説の、さしあたり教会から激しくし指弾されることはなかった。 それらはいずれも、神学的なコスモロジーに敵対するものではなく、見せかけの現象を説明するための仮説であったからだ。 真理は神にあり、仮説は人間にありというわけだ。

 コペルニクスの地動説といえども、宇宙の中心が地球から太陽に移っただけで、アリストテレス的な宇宙論(宇宙には中心があり、天体は円運動を基本とする運行を守り、宇宙は有限である)と激しく矛盾するわけではない。 コペルニクスの地動説には新プラトン主義の影響が見られるが、いずれにせよ、コペルニクスは自分の仮説を神学の秩序の下で正当化しようと最大限の努力を払っている。

 コペルニクスの地動説は、コペルニクスの死後に発表され、しばらくすると禁書になったが、それはコペルニクスの死(一五四三)の少し後に生まれた、ジョルダノ・ブルーノが、コペルニクスの説を持ち上げたからである。
 ブルーノは「無限宇宙」を主張した。
「世界は無限である。 それゆえ物体は中心にあるとか周辺にあるとか言うことができない」「無限の宇宙のなかに無数の天体があり、地球も太陽も特別な存在ではない。」
 我々から見れば、ごくあたり前の主張である。 もっとも現代宇宙論は、宇宙は有限だと主張する。 まあどっちでも普通の人には関係ない。

 ブルーノは、これで教会の怒りにふれて、一六〇〇年に火あぶりになってしまう。 スコラ哲学的世界観を徹底的に破壊したからである。 とばっちりをうけて、コペルニクスの説も禁止されてしまう。 付言しておけばブルーノもまた、無神論者ではなかった。 彼は現代の科学者のように神学とは無関係な科学を打ち立てようとしたのではなく、新しい神学を打ち立てようとしたのである。

 今は何を言っても、少なくとも日本では死刑にならない、 いい時代になったものだ。 そのかわり何を言ってもインパクトというものがない。」

オッカムのかみそり* 「より少しのものでなしうることを、より多くのものでなすのは空しいことだ」という格律。
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posted by Fukutake at 05:27| 日記

2023年09月24日

バナナフィッシュ

「自我崩壊」ー心を病む・不条理を生きるー 岩波明 講談社 2007年

テネシー・ウィリアムズ p209〜

 「テネシー・ウィリアムズの本名はトマス・ラニアー・ウィリアムズで、後に自ら「テネシー・ウィリアムズ」と名乗るようになる。 ウィリアムズは祖父母の援助により大学で劇作を学んだあと創作活動に励み一九四五年の『ガラスの動物園』で高い評価を受けた。 彼はアメリカを代表する劇作家となり、多くの作品がブロードウェイの舞台で演じられさらに映画化された作品もあったが、一九四八年には『欲望というなの電車』で、一九五五年には『熱いトタンの屋根の猫』でピューリツァー賞を受賞している。

 ウィリアムズの児童期は恵まれたものではなかった。 彼の父は酒を飲んでは賭け事にふけり、両親の争いが絶えず家庭的には不安定だった。 ウィリアムズは、五歳でジフテリアに罹患してからは夢想的となり一人で遊ぶことが多くなった。 中学時代から詩や物語を活発に創作するようになる。 その頃より同性愛的傾向が見られた。
 ウィリアムズには思春期に赤面恐怖症、強迫観念、心臓神経症などの神経症症状が散発した。 彼は自分の心臓には欠陥があり、長生きできないと信じていた。 劇作家として著名になるに従い、アルコールの量が増加するようになる。 さらに、バビツール系睡眠薬(セコナール)や他の薬物の乱用も行うようになった。 鎮静剤を自ら注射して用いることもあった。

 ウィリアムズは一九六〇年頃より創作活動に衰えが見られ、アルコールに救いを求めるようになった。 作品が劇評家により酷評されたことなどをきっかけとして抑うつ状態が出現する。 アルコールの量はさらに増加し、被害妄想的、心気的*となることが多くなる。 この頃、数名の神経科医によって精神分析的治療を受けているが、あまり効果はあがらなかった。

 彼は次第に不安・恐怖感が強い状態となって、人を避け自閉的となり、ニューヨーク、サンフランシスコ、ニューオリンズと転々と住居を変えた。 一九六九年には強い抑うつ気分、悲哀感を伴う錯乱状態となり、セントルイスにある精神科の閉鎖病棟に強制入院となった。 数ヶ月の入院後退院し比較的安定した状態が見られたが、抑うつ気分や不眠は散発した。 テネシー・ウィリアムズの抑うつ症状は彼の芸術的活動と不可分な関係にあり、劇作の出来不出来や劇評家の批評によって反応性に増悪した。 さらに症状の形成には、アルコールやその他の薬物乱用が大きな影響を与えた。 彼は自らの精神障害を「青い悪魔」と呼んだ。 彼は「皮膚の下に野良猫が何匹もいる感じだ」と説明している。

 幸いにも、精神病院に入院した後、彼の人生は比較的平穏なものとなった。 抑うつ気分や不眠はときおり襲ってくるため、アルコールや睡眠薬は手放せなかったが自制がきくようになり、荒れ狂う感情によって身を引き裂くような思いをすることはなくなった。 一九七〇年代以降も、『小舟注意報』「叫び』などの戯曲が知られている。」

心気的* 心身の些細な不調に著しくとらわれ、必要以上にこだわり、他者に執拗に訴える。
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posted by Fukutake at 08:51| 日記

暑い時は暑い方がいい

「随筆の表現」 各論篇5 枕草子・方丈記・徒然草 昭和六十三年

枕草子の表現 稲賀敬二 p11〜

 「冒頭章段「春は曙」で、清少納言は、「をかし」「あはれ」「つきづきし」「わろし」などと、四季のさまざまな事象を批評していた。 「曙」ということばは、現存する文学作品では、『蜻蛉日記』にはじめてあらわれ、『枕草子』でも用例は冒頭段の一例だけである。 『源氏物語』で、一〇余例、しかしその後、『新古今集』までは、あまり使われなかった。 春の美の焦点を「あけぼの」にしぼったのは 清少納言の発見だったと申してよい。 当時の人の常識からすれば、「春は花、秋は紅葉」ということになる。 清少納言は、常に新しい表現を発見しようと、まわりを見回してばかりいたのだろうか。

    冬は、いみじう寒き。 夏は、世に知らず暑き。(一一八段)

 たったこれだけの短い段がある。 これだけでは、清少納言は酷暑・極寒が、好きだったのか嫌いだったかは、はっきりしない。 他の類纂形態の本には、次のような一文がある。

     冬は、雪・あられがちに氷れる、風はげしくていみじく寒き、よし。 夏は、日いたく照り、扇など片時もうち置かず、耐へがたく暑きぞ、よき。 なのめなるはわろし。

 これによると、清少納言は烈日、極寒を「よし」とする。 「なのめなる」中途半端なのは「わろし」という。 冒頭段の「冬はつとめて」のところで。「昼になりて、ぬるくゆるびもていけば…わろし」と述べていたのと同じとらえかたである。
 しかし、生活者としての清少納言は、暑さや寒さが、うれしくてしょうがなかったのだろうか。 それとも、敢えて人に異をたてて喜んでいたのだろうか。 生活者としての清少納言は、常人並に、やはり暑いのは閉口だったらしい。 次のように書いている。

     いみじう暑き昼中に、「いかなるわざせむ」と、扇の風もぬるし、氷水に手をひたし、もて騒ぐ程に…。(一九二段)

彼女も暑さから逃れたい。 扇の風では間に合わず、氷水に手を入れてと、八方手を尽くしている。 だのに、なぜ「夏は世に知らず暑き」が「よし」ということになるのだろうか。右の「氷水に手をひたし」たりして暑さを忘れようとしている場面は、次のように展開する。

    いみじう暑き昼中に… こちたう赤き薄様を、唐撫子*のいみじう咲きたるに結びつけて取り入れたるこそ、書きつらむ程の暑さ、心ざしのほど浅からず推しはかられて、かつ使ひつるだに飽かずおぼゆる扇も。うち置かれぬ。(一九二段)

 清少納言は、「暑さ」そのものが好きなのではなく、暑ければ暑いほど、暑さを忘れた瞬間が貴重なものになるから、酷暑を「よし」とするのである。 右の例では、唐撫子につけた赤い模様の手紙が、清少納言を酷暑の世界から別な世界へ転身させるのである。」

唐撫子* 襲(かさね)の色の名。夏に着用する。
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posted by Fukutake at 08:47| 日記