2025年04月22日

分かりやすく書け

「「豆朝日新聞」始末 山本夏彦 文藝春秋社 1992年

ながいばかりが能じゃない p142〜

 「伊藤整氏は自分は一流の大学で経済学を学び、また一流の文学を読んで西洋の文物に通じているつもりなのに、新聞の経済記事も外国電報の読んでも分からないと書いたことがある。(昭和二十九年九月四日朝日新聞)

 分からないもの随一は昔の綜合雑誌の論文で、分かりやすくしてくれと頼んでも応じない先生方が多かった。 分かるようにすると次第に内容がなくなるからで、若し内容が充実していれば字句はやさしい方が引き立つはずである。 流石にこの頃難解は少なくなったが、その代わり長くなった。 たった一つのことを言うのに千万言を費やすのは、書くほうがも読む方も共にご苦労で、半分または四半分にすればよくなるのに長くなるに任せている。

 飯田経夫氏の「マネーゲーム批判」佐藤誠三郎氏の「税制改正」を私が読んだのは、何より短かったからである。 並みの人なら二十枚三十枚書くところを四、五枚で片づけて明快だったからである。 字句が平明だからために内容があることが分かる。 分かりやすい文の特色はそれに賛成か否かを直ちに、または考えて言うことができること、分からなければそれはできない。

以下はその一つをダイジェストしてみたい。 読者は賛成するか反対するかできるはずである。
 「マネーゲーム批判」飯田経夫(名古屋大学教授)
 メーカーはモノを作るのが仕事であるのにアメリカのメーカーは作らなくなった。 ある製品が儲からないとあっさりあきらめる。 別の製品でもうけようとするかというと必ずしもそうしない。 むしろ作るのをやめてサービス業たとえば金融に転じる。(略)

 アメリカの自動車メーカーはメキシコやブラジルで組み立てた車をアメリカに輸入する。 そのほうが安上がりで、品質もいいと聞くとアメリカの生産現場が荒れはてていることが察しられる。 そういえば単純作業ミスによる大事故の発生が多すぎる。

 いったん低下した労働力のレベルを元に戻すことはむずかしい。 いっそモノを作るのやめにして、その金でマネーゲームをやった方がいい。 アメリカ経済がマネーゲーム化したのはそれなりにわけがあるろうが、金のひとり歩きを喜んで行きすぎれば資本主義は崩壊する。

 アメリカで流行することはすぐに日本に波及する。 あまりに急な円高はその波及を早めた。 それはメーカーの初心と日本の企業のよさを失うことである。 ところがすでにメーカーだけではなく銀行までこのゲームに参加している。 が、世間はうまいばかりの話はない。 「豊田商事」以下にだまされたのではない欲張ったのだ。 被害者のふりをしてセールスマンや行政を非難するのは誤りである。(昭和六十一年十月十五日付読売新聞 夕刊)」
(「プレジデント」昭和六十二年二月号)

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「資本主義は崩壊しつつある」今に続く経済のマネーゲーム(曰く、新ニーサ、株式投資、仮想通貨云々)
posted by Fukutake at 08:54| 日記

2025年04月21日

実現不可能な哲人政治

「プラトン T」生涯と著作 田中美知太郎著 岩波書店 1979年

遍歴時代 p100〜

 「(プラトンの)『第七書館』に、
「わたしははじめのうちこそ国家公共の仕事をしたいという非常な熱意に燃え、それで心がいっぱいになっていたのですが、これらの実際に目を向けて、それらが変転きわまりない動き方をするのを見るとき、ついに目まいを感じるようになりました。 そしてそれらのことがらそのものについても、また国家体制全体についても、どうしたらちょっとよくなるだろうかと、考察することをやめなかったけれども、実際政治にたずさわることの方は、いつもその機会を待つだけにとどまり、ついに現在のすべての国家が、すべて間違った仕方で国政を行っているのだとさとるようになったのです」

 とあるのは、不断の政治的関心と意欲にもかかわらず、実際政治に入って行くきっかけとなるものをつかむことができず、迷いのうちに年月を送り、ついに国家体制と国政のすべてについて、否定の極に達することになるまでを、後から回想して簡単にのべたものと見ることができるだろう。 そしてそこからプラトンは、どういうところへ行ったのだろう。 かれは、

 「現在の個々の法律や習俗にかかわることがらは、何か並大抵でない準備をした上で、好運の助けを借りるのでなければ、ほとんど治療できないところに来ている。」
という認識に立って、

「国家のことも個人のことも、およそそれらの正しいあり方は、哲学からでなくては見きわめることはできないと、正当な意味での哲学を賛美する言明をしなければならなかった。」

 というところへ到達したのである。 つまり年来志していた政治に対して、哲学はむしろ否定的な力としてはたらき、そのために政治か哲学かの二者択一を迫り、かれを迷いと苦しみのうちに投じて、容易にそこから脱出を許さないで来たのであるが、ここにおいてついに一つの解決に到達することができたのである。 それは政治的なものを二者択一的に否定するだけのものではなく、むしろ政治を哲学との新しい結びつきで考えるようとするものであった。 むろんそれは両者の単なる結合というようなものではなく、「国家のことも、個人のことも哲学なくしては」という認識にもとづく、新方式の結合でなけれなならなかった。 ソクラテスとの出会いから、思えば永い年月の遍歴であったとも言える。 そしてそれの具体的な意味は、次のような一つの提案、あるいは方策として宣言される。

 「正しい意味での真実の哲学者の類が、国家統治の役につくか、あるいは現に諸国において実権をもっている人たちの類が、何か神の特別の計らいによって、真実に哲学しようとするのでなければ、人類が災悪からまぬかれることはないだろう。」

 しかしながら、これの実現は「神の特別の計らい」でもなければ、とうてい考えられないことであった。」

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posted by Fukutake at 06:30| 日記

芸は武士の身にならぬ

「葉隠入門」 三島由紀夫 新潮文庫 昭和五十八年

芸は身を滅ぼす p138〜

 「芸は身を助けるというが、それは他藩の侍のことである。 ご当家の侍にとっては、芸は身を滅ぼす基だ。 なにごとでも一芸に堪能なものは、技芸者であって侍ではない。 なんのたれがしは侍であるといわれるように心がけるべきで、少しでも技芸のあるものは、侍にとって害になるものだと知ったとき、はじめて諸芸が役に立つようになるのだ。 この点をじゅうぶん承知ししておく必要がある。」

老人のくりごと p183〜

 「ふかく経験をつんだ人の話などを聞くときには、たとえ自分の知っていることでも、ありがたく拝聴すべきである。 同じことを十度も二十度も聞くうちに、ふと、なるほどと胸に頷く時があるものである。 そのときは、ふつうのときと違い、とくべつの意味を持ってくるだろう。」

毎朝、まえもって死んでおけ p196〜

 「必死の思いは、日々あらたにするように努むべきである。 朝ごとに身心をしずめ、弓、鉄砲、槍、あるいは刀で切り裂かれ、大浪にまかれ、大火の中に飛び込み、雷に打たれ、大地震にあい、高い崖から落ちたり、病死、頓死などといった、さまざまな死にざま、末期のことを考え、毎朝、ゆるみなく、死んでおくべきである。 古老のことばに、「軒を離れればし死人のなか、門を出れば敵に会う。」というのがある。 これは用心のことばではなく、まえもって死んでおく心構えのことなのである。」

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何事も真摯に前向きに、真剣に。
posted by Fukutake at 06:28| 日記