2017年09月11日

ファシズムの起源

「エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層」 鹿島 茂 
KKベストセラーズ  ベスト新書 2017年

ファシズムの発生

122p〜
 「直系家族(*家族形態の一種で、ドイツや日本も含まれる)というのは、縦型の権威主義と不平等原則を原則としますが、この二つの要因からだけではファシズム、なかんずくナチズムを説明できないからです。むしろ…(*直系家族の原則は)プロイセンや江戸時代の日本のような旧套墨守の極端な保守主義や、地域分権型の自民族中心主義に直結します。直系家族は、ファシズムやナチズムのような統合的、盲目的全体主義とは親和的ではありません。
 しかし、ファシズムやナチズムがドイツや日本のような直系家族地帯で発生したというのは紛れもない事実ですから、これを説明しなければなりません。」

 (ファシズムの発生の背景)
 「ドイツの都市部では一九世紀後半から核家族化が進行していました。資本主義化が進み、主産業は農業から工業・商業に移って、人々は一労働者として都市に住み働くことが多くなりました。都市部では、土地や家に結びついていた直系家族的な三世代同居(親−子−孫)は難しくなります。
 
 農村から都市にやって来た賃金労働者となった直系家族第一世代も根こそぎにされますが、第二世代は別の解体に見舞われます。それは、構造体として権威を保っていた父親の権威が都市労働者となったため弱体化することです。
 直系家族では、父親に実際の権力はなくても、権威はあるとされています。資本主義と都市化の時代に入って、個人の自由の意味を知り始めた直系家族の息子は、ハリボテの権威である父親に反感をいだき始めます。父親の不在が続いたりすると、父親に同化すべき男の子の、アイデンティティの獲得の機会を失ってしまいます。」

 「直系家族においては、父親の権威に反発しながらもこれを承認することで大人になっていくのですが、家族の解体により、アイデンティファイする対象をあらかじめ失っている直系家族の息子、とりわけ次男・三男は、父親の延長ではない大きく飛んで離れた遠方の存在、スーパーファーザーのような存在を求めてしまうのです。解体期の直系家族に特徴的な不安、といえるでしょう。ヒットラーもまたそのような不安をいだいていたのかもしれません。
 トッドは、こうした時代の変容の中にある直系家族の子の心性を、こう解き明かしています。
 『権威という理想の中で育った個人が、ただ一人で都会的な生活様式の中に入って行く。しかしその生活様式は、家族的理想の具体的実現を許してくれない。世帯はもはや個人に安心感を与えることがない。国家や政党が個人を呑み込み、心の平安を返してやらなければならなくなるのである。』(「新ヨーロッパ大全」)」

(*)筆者注
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いわば、近代化工業化が産んだ鬼子!

posted by Fukutake at 09:07| 日記

2017年09月04日

直感と事実との乖離

「無駄学」 西成 活裕  新潮新書 2008年

97p〜
 「…何かうまくいかないことが起こったときに、「なぜ」を5回繰り返せ、という言葉がある。うまくいかない真の原因の究明はムダとりにおいて大変重要だ。特に不覚型の場合はなかなか無駄の原因究明に時間がかかる。ここで、5回というのは原因が見えてくるまで、という意味で考えるとよい。例えば、
 『忙しくて大変』 「なぜ?」
 『締切日がいくつも重なっているから』「なぜ重なったの?」
 『前からやらねばならない用事があるのに、さらに幾つか急用が入ってしまったから』「なぜ急にそんなに入ってしまったの?」
 『同時進行しているプロジェクトがたくさんあるために、いろいろハプニングが起こるから』

 というふうに質問を繰り返してゆく。こうすると何を反省すればよいのかが具体的に見えてくる。この場合、各プロジェクトの進捗状況の管理をきちんとやっておくのと同時に、同時進行プロジェクトの数を絞ることも重要だ。」

127p〜
 「…ある(中国)在留日本人から聞いた言葉が印象に残っている。それは、
 『日本人は一人一人は豚でも、三人集まると龍になる。中国人は一人一人は龍でも、三人集まると豚になる。』というものだ。これは中国人から聞いたそうだが、中国人は一人一人の能力は非常に高いが、チームワークが弱く、日本人はその逆だと思われているそうだ。」

189p〜
 「仏教経済学の提唱者である故・井上真一は、幸せの計算式を次のように定義している。
       幸せ=財÷欲望

 これは仏教的な考え方であり、人の持つ欲望が大きければそれだけ幸福度が減ることを意味している。これに関して、興味深いエピソードがある。ブータンの電気がなかったある村での話だが、人々は貧しいなりにもこれまで家族と楽に暮らしていた。そこに援助によって電気が来るようになった。電気が来ると住民たちは夜の暗闇から解放され、便利になったように見えたが、彼らの反応は逆だった。電気が来ると、今度はテレビも冷蔵庫も欲しくなり、それを買うためのお金が欲しくなる。そして仕事をたくさんするようになり、家族の団らんの時間が減ったのだ。彼らの心は、これまでとは逆に現状に対する不満と将来への不安でいっぱいになってしまった。」

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確かに思い出すと六十年前はテレビも車もクーラーもなかったけど、楽しかったですね。
posted by Fukutake at 08:27| 日記

2017年08月31日

思考の近代化

「方法序説」 デカルト 谷川 多佳子 訳
 岩波文庫 1997年

25p〜

(受け入れてきた諸原理を疑い、常道から離れる自由を手に入れる)

 「…学院にいたころから、どんな風変わりで信じがたいことを想像しようとも、哲学者たちのだれかによって言われなかったようなことは一つもないのを学び知った。またその後、旅をして、次のことを認めていった。
わたしたちとまったく反対の意見を持つすべての人が、それゆえに野蛮で未開だというわけではなく、それどころか多くの人がわたしたちと同じかそれ以上に、理性を働かせていることだ。そして考えた。同じ精神を具えた同じ一人の人間でも、子供の時からフランス人やドイツ人の間で育てられると、中国人や人喰い人種のなかでずっと生活してきたのとは、どんなに違った人間になることか。そしてわたしたちの服装の流行においてまで、十年前に気に入っていて、また十年もしないうちに気に入るかもしれない同じものが、今どれほど突飛でこっけいに見えることか。結局のところ、習慣や実例のほうが、どんな確実な知識よりわたしたちを納得させているが、それにもかかわらず、少しでも発見しにくい心理については、ただ一人の人がそういう真理を見つけだしたというより、はるかに真らしいから、賛成の数が多いといってもなにひとつ価値のある証拠にはならない。こうしてわたしは、他の人よりもこの人の意見のほうを採るべきだと思われる人を選び出すことができずに、自分で自分を導いていかざるをえないことになっていた。

 だが、一人でも闇のなかを歩く人間のように、きわめてゆっくり進み、あらゆることに周到な注意を払おう。そうやってほんのわずかしか進めなくても、せめて気をつけて転ぶことのないように、わたしは心に決めた。以前わたしの信念のなかに滑り込んでいた、理性によって導き入れられたのではない意見をすっかり棄てることを始めようとも、思わなかった。その前に十分時間をかけて、とりかかった仕事の案を立て、わたしの精神が達しうるすべての事物の認識に至るための真の方法を探求してからだと思ったのである。」

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まずすべてを疑う…
posted by Fukutake at 13:45| 日記