2017年11月10日

日本人の感性

「日本瞥見記」小泉 八雲 著  平井 呈一 訳 恒文社 1975年

 229P〜

  松江での印象

 「よく夜など、−−ことに祭りの晩などに多いのだが、表の通りで、ちょっとした小さなさしかけ小屋の前を、行人の群が、無言のうちに何かを鑑賞しながら通っていく光景に目のとまることがある。そうした小屋がけのなかを、たまたまのぞいて見ると、そこには草花か、あるいは花の咲いている切りたての美しい木の枝を生けた花瓶が、五ツ六ツ並んでいるだけで、ほかに見るような物は何もない。ほかでもない、これは花の小展覧会なのだ。もっと厳密にいうと、生け花の師匠の技芸を、無料で公開する展覧会なのである。日本人は、われわれ野蛮な西洋人みたいに、花の首をちょん切って、そいつを無意味な色のかたまりにでっち上げるような、ああいう無風流なまねはけっしてしない。そういうことをするには、日本人は、あまりに自然というものを愛しすぎている。かれらは、花のもっている自然の美が、それを挿したり、活けたりする方法如何、あるいはまた、葉と茎のうつりぐあいなどに、いかに因っているかということを、よく心得ている。だから、一本の美しい枝でも、茎でも、日本人は、自然が作ったままのものを選択する。そういうことをまるで知らない西洋人が、こういう展覧会をはじめて見ても、何がなにやらとんと訳がわからないだろう。その点では、諸君は、この国のごくつまらぬ労働者よりもまだ野蛮人なんのだ。しかし、そういう諸君も、こうしたお手軽な展覧会に、日本の大衆が興味をもつことを不思議がっているうちに、おのずと生け花の妙味というものが、諸君の心のなかに芽生えてきて、そこに一つの悟りが開けてくるだろう。そうなると、西洋人はえらいのだという、諸君の西洋人流の自己優越感などはどこへやら、これまで海外の諸国で諸君が見た挿花などは、ここにあるほんの四、五本の自然そのままの花の美しさに比べたら、まるで醜性そのものだということがわかって、それこそ、穴があったらはいりたくなるだろう。それからまた、花のうしろに立てまわしてある、無地か薄青い色の屏風、これがランプや提灯の光をうけて、どれほど花を引きたてているかということにも、諸君は気づかれるだろう。このうしろの屏風は、活けた花の「影」の美しさを見せるために、特にそうした目的をもって立て回してあるのだ。それが証拠には、屏風にうつっている茎や花のくっきりとした影は、どんな西洋の装飾美術家の着想よりも数段まさって美しい。」

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posted by Fukutake at 11:56| 日記

2017年11月08日

マルティニーク諸島でのラフカディオ・ハーン

「マティニーク熱帯紀行」 工藤 美代子 恒文社 1995年

ラフカディオ・ハーンの熱帯幻想をたどる

170p〜

 「不吉なハーンの夢は、現実の予兆であった。次の章は、「…きのうの朝早く、イゾールは石灰をしこたまかけられて運ばれて行った」という衝撃的な文章で始まっている。三人の子供を残したまま、亡くなったのである。
 坂道の途中で、肩を寄せあうように暮らす貧しい人びとは、悲惨な境遇にもかかわらず、どこか現実から遊離した仮面のようにも映る。だから「死」さえも、豊かに美しい大自然の中では、崇高な響きがある。
 だが、「天然痘」の最後は、突然、仮面をかなぐり捨てるような凄味のある現実が描かれている。
 イゾールの三人の子供たちを引き取ったのは、ハーンの親切な隣人であるマム・ロベールだった。
 やがてイゾールの所持品を競売に付すための太鼓が広場から響いてくる。母親が死んだことを知らない三人の子供たちは、謝肉祭の行列が始まったのだと思う。
 三人の子供は太鼓に胸をとどろかす。謝肉祭の日にみた光景が、−−あの気違いじみた踊りの大行列の愉快さが、子供ごころに生ま生まと、太鼓の音に結びついている。「見に行こうや!」口々に呼びあいながら、三人とも日のかんかん照っている往来へ駆けて行って、町の上下を見渡す。しかし、モルン・ミライル通りはひっそりかんとしている。街には人っ子ひとりいない。(平井呈一訳)
 そこへ疲れた様子のマム・ロベールが帰って来る。子供たちのために、何か競売で落としてやりたいと思ったのだが、高すぎて手がでなかった。そんなこととは知らない子供の一人が、大声で尋ねる。
 「おばちゃん、お面をかぶった人、どこへ行った?」」

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posted by Fukutake at 15:38| 日記

2017年11月02日

人間は合理的な動物か?

「かくて行動経済学は生まれけり」 マイケル・ルイス  渡会 圭子 訳 
『FACTA』主筆 阿部 重夫(解説) 文藝春秋 2017年
(その2)

期待効用理論では、人の意思決定を予測できない。

 「期待効用理論は一つの理論にすぎなかった。何かリスクのある決定を前にして人がどのような行動をするかを説明したり、すべてを予測したりできるものではない。ダニエル(カーネマン)がその重要性を何とか理解したのは、大学院生向けの教科書に書かれたエイモス(トヴェルスキー)の説明を読んだからではなかった。エイモスの話し方から察したのだ。「それはエイモスにとって神聖なものだった」とダニエルは言う。
 その理論は、心理学上の真実であると強固に主張されてはいなかったが、エイモスが共同で執筆した教科書では、心理学上の真実として受け入れられていると明確に述べられていた。このようなことに関心のあるほぼすべての人、経済学の研究者全体を含む集団が、それを一般的な人がリスクのある選択を行うときにとる行動についての公正な説明と受けとめたようだった。そうした根拠のない信頼には、経済学者が政治指導者にする助言に与えるような影響が、少なくとも一つあった。人々に選択の自由を与え、、市場には介入しないという方向に、すべてを傾けてしまうということだ。人が基本的に合理的だと考えられるなら、市場も合理的だと考えられるからだ。
 エイモスは特にこれについて、ミシガン大学の大学院生だったときから不思議に思っていた。彼は他人のアイデアの弱点を見抜くことに関しては、ほとんど野生の勘のようなものを持っていた。だから当然、人はその理論では予測できない意思決定を行うことを知っていた。エイモス自身も、理論ではそうならないはずなのに、人はなぜ“非推移的”になるのかについて調べたことがある。大学院生だったとき、ハーバード大学の大学院生とミシガンの刑務所の囚人たちを対象に実験を行い、ギャンブルCよりB、BよりAを選びながら、AよりCを選ぶという結果を、何度も引き出した。それは期待効用理論の原則に反している、しかし、エイモスは彼の疑念をそれ以上、深く追求しなかった。人は間違うときもある。不合理な意思決定を行うことはあるが、そこに決まった形があるとは思っていなかった。人間の性質についての深い見識を、どうすれば意思決定の数学的研究に持ち込めるか、彼はまだその方法を見つけていなかった。」
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行動経済学誕生のお話。
「推移的」とは、CよりBを好み、BよりAを好むなら、CよりAを好む、ということ。
posted by Fukutake at 10:58| 日記