2017年07月18日

天皇機関説事件(1)

「なぜ日本は変われないのか」日本型民主主義の構造 山本七平 (その1)
さくら舎 2011年

 昭和10年に、貴族院で美濃部達吉の天皇機関説が攻撃され、結局美濃部達吉の著作が発禁処分となり、また貴族院議員を辞任することとなった事件を天皇機関説排撃運動という。これは単なる言論弾圧事件ではなかった。

 山本七平氏により、明快にその問題のありかが明らかとなった。

まず、美濃部達吉の主張とその反論を紹介する。山本七平氏は、美濃部氏がいったい相手が本当に何を問題にしているのか、理解していなかった悲劇を述べる。

 美濃部氏の主張(貴族院における答弁より)
 「…菊池男(爵)は私の著書を以って国体を否認し、君主主権を否定するものの如く論じているが、それは私の著書を読まれておらぬか、または理解していない証拠である。
 … 憲法第一条には『万世一系の天皇これを統治す』とあり、第四条には『天皇は国の元首にして統治権を総覧し憲法の条規に依り之を行う』と仰せられ、に日月の如く明白である。
 …ただそれについて、憲法上の法理論として問題になる点は、およそ二点をあげることができるのである。
 第一点は、天皇の統治の大権は、天皇の御一身に属する権利として観念せらるべきものであるか、または、天皇が国の元首たる御地位に於て総覧し給う権能であるかという問題である。ひと言でいえば、天皇の統治の大権は法律上の観念に於て権利と見るべきであるか、権能と見るべきであるか、ということに帰するのである。
 第二点は、天皇の統治の大権は絶対無制限な万能の権力であるか。または、憲法の条規によって行なわせらるる制限の権能であるか、この二点である。
 私(美濃部達吉)の著書に於て述べている見解は、第一点には、天皇の統治の大権は、法律上の観念としては、権利と見るべきものではなく、権能であるとなすものであるし、また第二に、これは万能無制限な権力ではなく、憲法の条規によって行なわせらるる権能であるとなすものである。」

 以上の主張が、当時なぜ、かくも大問題になったのか?

この事件の根本には、明治維新以降の自国の伝統を無視して西欧の「法」を輸入し、短兵急に施行しようとし、一方で伝統的道徳を強調維持しようとする
政府、体制側の持つ矛盾への人々の憤懣にあったのである。

(以下、次回に続く。)

posted by Fukutake at 08:36| 日記

2017年07月13日

不便の便益!?

「(ごめんなさい)もしあなたがちょっとでも行き詰まりを感じているのなら、不便をとり入れてみてはどうですか?〜不便益という発想」−しごとのわー
川上浩司 インプレス 2017

不便は手間だが役に立つ

 「携帯電話のように、現代社会には便利なモノ、便利なコトが溢れています。
 でも、便利なことと豊かなことは、イコールなのでしょうか?
 そういった疑問から、私は「不便であるからこそ得られる益」のことを、「不便益と呼び、こうした「不便益」をもたらしてくれるシステム(モノでも、コトでもどちらでも)をデザインする方法を、学問として研究しているのです。

 「どう便利にできるか」を研究する分野で

 「私(川上浩司)は、もともと、工学を学んでいました。工学というのは、便利の追求を是(ぜ)としている学問です。
 一方、不便益とは、「不便であるからこそ得られる効用」です。それを、そんな「どう便利にできるか」を追求している工学系の学会で発表するのは、場違いも甚だしいと思いますよね。
 しかし、あながちそうでもありませんでした。それは、「人工システム側単体での高機能化や効率化が、必ずしも人を含めた系(システム)をよくするとは限らない」からです。
 このことは、人間機械系という分野では従来知られていたことでした。
 しかし、高機能化や効率化に代わる方針を問われても、決定打はありません。そこに、「不便の効用を活用する」という方針を提案したのです。

 「不便益」は、先に述べた人間機械系やデザインだけでなく、ありとあらゆる分野に(もちろん、あらゆる仕事においても)応用できる考え方です。
 たとえば、安全工学。
 自然界が恒常性を保とうとする傾向を「ホメオスタシス」と言い、これが人の心理にも当てはまるとする「リスクホメオスタシス」という考え方があります。
 これに関心がある安全工学の研究者は、機械側に安全装置という「便利」を安易につけることが、人間側を安心させて危険行動を誘発するのでは、と憂いていました。
 ぶつかりそうになったら自動で停まってくれる車に乗っていれば、居眠りしたくなりそうですよね。これは、便利の害であり、不便益の逆ですね。」

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自転車通学の生徒にヘルメットをつけさせたら、かえって事故が増えたという話がありました。
posted by Fukutake at 09:12| 日記

2017年07月10日

人間の能力では、把握不能の世界

「不可能、不確定、不完全」 (できない)を証明する数学の力 
ジェイムス・D・スタイン  ハヤカワ文庫 ノンフィクション

答えがない?いや、不可知

113p〜

 「一九二七年、ハイゼンベルグは、自分にノーベル賞をもたらすにとどまらず、哲学の展望を永遠に変えてしまうような発見をすることになる。前にも見たように、フランスの数学者ピエール・ラプラスは、宇宙に存在するあらゆる物体の位置と運動量がわかれば、未来のいかなる時点におけるあらゆる物体の位置も厳密に計算できると主張して、決定論的科学の真髄を説いた。しかし、ハイゼンベルグがこの年に提唱した不確実性原理によると、あらゆるものの位置と与えられた未来の時点におけるその行き先とを両方、厳密に知ることはできない。」
(中略)
 「ハイゼンベルグの不確定性原理は、ミスがつきものの人間が現象を十分精確に測定できないという能力不足のことだとときおり誤解されている。そうではなく、これは知り得ることの限界にかんする主張であり、量子力学的な世界観から直接導かれた帰着だ。量子力学の根幹である不確定性原理は、レーザーやコンピュータといった日常的な製品を作る際に現実的な影響を与えてきたし、またギリシャの哲学者が初めて説いて以来疑われたことがなかった、因果律にもとづく単純な宇宙観を掃いて捨てもした。ハイゼンベルグは不確定性原理の帰結のひとつにかんして次のように述べている。

 『原子の中で起こってる物事をわれわれの言語で説明できないことは驚くに値しない。なぜなら、すでに述べたように、われわれの言語は日常生活での経験を記述するために作り出されたものであり、日常経験はきわめて多数の原子が絡むプロセスでのみ成り立っているからだ。さらに、われわれの言語を修正して、あのような原子の振る舞いを記述できるようにするのは大変難しい。というのも、言語で説明できるのはわれわれが頭の中で想像できる物事だけであり、想像する能力も日常経験の結果だからである…原子が絡む事象にかんする実験において、われわれは物体や事実を取り扱う必要があり、日常生活で起こるいかなる現象とも勝るとも劣らず現実のものである現象を取り扱う必要がある。だが、原子や基本粒子そのものがそれと同じように現実のものかというと、そうではない。これらが形作っているのは物体や事実の世界ではなく、潜在性や可能性の世界なのである…原子は物体ではない。』

 原子は物体でないならいったい何なのだ? ハイゼンベルグのお告げから何十年も経った今でも、物理学者−そして哲学者−はこの問題に頭を悩ませている。観測されるまでは確率波で観測後は物体、という私たちが見つけた答えは、すっかり満足できるものではないが、現時点で私たちが手にしている最善の答えである。

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人間が世界を記述する言語では、表現できないということですね。
posted by Fukutake at 08:43| 日記