2023年09月26日

帰るが如し

「いのちの文化史」 立川昭二 新潮選書 2000年

死後観 p210〜

 「『私は八十四歳です。 浄土への旅路の準備はすべて整っています。 … 思い残すこともなく、この上は浄土へのお参りを望んでいます。 現世は現世、あの世はあの世と割り切っています。 身も心も軽く旅立ちたいと思っています。』

 これは平成九年一月七日の産経新聞の投書欄に載っていた森崎よしゑさんの文章である。この「身も心も軽く旅立ちたい」という願いは今も昔も変わらない日本人の死生観をいい表しているといえよう。
 日本人は人生を旅と考えるように生から死へも旅と考え、死ぬことを「旅立ち」あるいは「死出の旅路」と言ったりする。 今でもお棺に旅装束と杖と草鞋を入れる風習が残っている。

 また死の世界を「帰るところ」と考え、死は「土に帰る」「天に帰る」と考えるのは日本人の古くからの死生観である。 一農婦の書いた名作『洟をたらした神』(昭和四十九年)の一篇「梨花」で、作者の吉野せいは昭和五年冬、生後まもなく死んだ娘梨花に向かって、「梨花、さようなら、土にかえれよな」と語りかけている。 「帰る」というのは、移って行くことであるから、それは「帰る」でもある。
 作家高見順は、昭和三十八年千葉大学附属病院で食道がんの手術をし、翌三十九年に再入院するが、その入院中に刊行された詩集『死の淵より』のなかの「帰る旅」と題した詩で、死を「帰るところ」と考え、<帰れるから/旅は楽しいのであり/旅の寂しさを楽しめるのも/わが家にいつか戻れるからである>と前置きして、<この旅は/自然に帰る旅である>と歌い、こう続けている。

   帰るところのある旅だから
   楽しくなくてはならないのだ
   もうじき土に戻れるのだ

 高見順は、<大地へ帰る死を悲しんではいけない>と続ける。 死は「土地」=「大地」=「自然」へ帰ることである。 自然にかなった死はしたがって、「悲しんではいけない、楽しくなくてはならないのだ」。

 日本人はよく生死あるいは死生と言う。 ここには生と死は別々のものではなく、もとより切り離されるものではなく、生から死へ、死から生へと連続的なつながりなあり、生と死の間にはっきりした断絶はないという日本人の心性がうかがえる。」

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死は帰ること。

posted by Fukutake at 07:30| 日記

間の悪い時

「新版 枕草子 上巻」 石田穣二 訳注 角川ソフィア文庫

 第一二三段 間の悪いもの p386〜

 「ほかの人を呼んだのに、自分かと思って顔を出した時。 何かくれる時などは、よけい。 なにげなく人の噂話をして悪口を言ったのに、まだ聞き分けのない子供がそれを覚えていて、その人の居る前で、口に出した時。

 悲しいことなど人が話し出して泣いたりするのに、ほんにかわいそうなことだと聞いて思いながら、即座に涙が出て来ないのは、ひどく間の悪いものだ。 泣き顔を作って、悲しそうな様子をよそおっても、どうにもならない。 ところが逆に、すばらしいことを見たり聞いたりすると、たちまちどっと止めどもなく出て来るのも奇妙だ。

(原文)p163〜
 異人(ことひと)を呼ぶに、我ぞとて、さし出でたる。 物など取らすをりは、いとど。 おのづから人の上など言ひそしりたるに、幼き子どもの聞き取りて、その人のあるに、言ひいでたる。

 あはれなることなど、人の言ひいで、うち泣きなどするに、げにいとあはれなりなど聞きながら、涙のつと出で来ぬ、いとはしたなし。 泣き顔作り、けしき異(こと)になせど、いと甲斐なし。 めでたきことを見聞くには、まづただ出で来(き)にぞ出で来る。」

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あるある。

posted by Fukutake at 07:27| 日記

2023年09月25日

擬態!?

「三人寄れば虫の知恵」 養老孟司 奥本大三郎 池田清彦 洋泉社 1996年

 擬態のストラテジー p170〜

 「養老  擬態というのはおもしろい例がたくさんあるので、まずナチュラルヒストリーで擬態をちゃんとやってみたらどうかなと思っているんだけど、けっこう大変なんだよね。
 擬態が非常に目立つところと、目立たないところがあることは間違いない。 オーストラリアへ行くと日本より目立つんですよ。 オーストラリアの南のほうの寒いところで木の皮をはがすと甲虫がいっぱい出てくる。 「また同じものがいる」と思いながらもいっぱい捕らえてきて、帰って来てから見てるとアッ!と思うわけ。 ぜんぜん違うやつが混ざっているんです。 ああいうところは、どうも擬態じゃないかという気がするんだ。 環境が厳しくて、住むところが限られている、生存条件が非常に限定されるような場所では、擬態が目立っていいはずだと思う。 だから、オーストラリアなんかはそういう感じがするんだけど、熱帯は逆でしょう? あんなところ、どうやったって暮らせるわけじゃない? なぜそんなに似なくてはいけないかというと、ちょっとおかしいんですよね。 つまり、環境からのプレッシャーが少ない熱帯みたいなところで、何もそんなほかの種の真似をしなくったっていいんじゃないか。

奥本  しかし、熱帯という同じ環境に住んでいると、それがプレッシャーになって似てくるというのがあるんじゃないですかね。 収斂というか。

養老  熱帯のほうが、逆にいうと非常にカタイのかしら? ギシギシと生態的地位みたいなところに全部はまっちゃってて、身動きがとれなくて、しょうがないのか…。
 日本では目立たないんだよね。日本の場合は棲み分け説があるわけで、棲み分けたほうが有利だから、そういうところでは、何も無理して擬態して、ほかの真似なんかすることないということなのか…。

池田  熱帯では、機能しているかどうかよくわからない、擬態みたいなのがありますよね。 たとえばマレーあたりで、ピカピカのグリーンのタマムシで二族にわたって、属の異なるいくつもの種が全部同じようなパターンになって見分けがつかなくなっちゃうやつが同所的にいるんですよね。 なんかわかんないけど、数量擬態とでもいうべきものがあるんだよね。
 タイ北部でトラカミキリの斑紋パターンが、属を横断して、五十種ぐらい同じになっちゃって、同じ地域の奴はみんな同じという感じになっちゃうんですよね。 僕は、その当時ー今から十五年ぐらい前ですけどー遺伝子が水平伝播して形態遺伝子が伝染するんだなんていってた(笑)。」

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posted by Fukutake at 05:30| 日記