2019年01月31日

ソクラテスにとっての死

「ソクラテスの死」 R.グアルディーニ 山村直資 訳 1968年 
 法政大学出版局


「ソクラテスの弁明」から
 p135〜

 「語られていることは、死が最大の不幸であるという一般の考えの背景と極めて対照的である。ソクラテスは死を単純なものとはとらないが、さればといって怖れてもいない。彼は無条件に妥当する価値を知っており、絶対的な義務の力の要求に従う。それに較べれば、死は本質的なものではない。とくにその一つに数えられるのは、神から与えられた使命であるが、それは神託におい述べられている通りである。しかしまた、自己自身に対し誠実であり、自己の名誉にかけても義務に忠実であれ、という戒めもある。こういったものが、裁判官たちの権勢欲に譲歩することを彼に禁じるのである。
 しかし既に、第一弁論はただ自己の立場を守る以上のことをしている。そこでは、死が本当に悪いものであるのか、あるいはことによると善いものではないのか、誰も知らないと述べられている。
 だが、第三弁論にあるように、ソクラテスが法廷の広間に入るとき、ダイモンが警告を与えなかったこと、また彼が弁論にあたって、彼の状況を不利にするようなことを言おうとしたとき、彼の発言を阻まなかったことは、死が善いことに違いない、という徴である。なぜなら、ダイモンが語るところからのみ、究極的な意味で、善は出てくるのだからである。
 ソクラテスの弁明の仕方のなかに、死にたいという動機が働いていることは、既に気づかれたところである。かくも強い生命力と、はっきりした精神的積極性を具えた人の場合、どこか病的な死への憧れがあっても、問題にならない。ソクラテスは死そのものを求めているのではなく、彼の使命と存在の究極が死によってのみ、完成されるものであることを知っているのである。だから、身体の死は本来のものへ踏み入る扉と映る。このことは第三弁論で、彼に無罪の判定をした裁判官たちに、今しがた目の前で起こったことを説明して聞かせたところに非常にはっきりと現れている。そこでは、死は本来の生活へ歩を進めるもの、と考えられている。

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死は本当に悪いことか。
posted by Fukutake at 10:15| 日記

2019年01月28日

顔真卿

顔真卿「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」

【口語訳】
「乾元元年(758)、戊戌の年の九月庚午朔、3日壬申、第13番目の叔父で、銀青光緑大夫、使持節蒲州諸軍事、蒲州刺史、上軽車都尉・丹楊縣開国侯の眞卿が、酒食をお供えし、亡き姪で、朝廷から賛善大夫の官職を追贈された李明の霊魂をお祭りいたします。
お前は、ぬきん出た資質をもってこの世に生まれ、幼い頃から才徳をあらわし、我が顔氏一族の俊英として、朝廷で活躍するであろうと、常に人々の心を喜ばせており、究極の出世が約束されていました。
なのに、逆賊・安禄山が隙をうかがい、兵を挙げて反乱を起こすなどとはどうして予想できたでしょう。
お前の父、杲卿(こうけい)は、皇帝陛下に忠誠を尽くしていたため、常山群の太守(知事のこと)を拝命しており、私もその時、陛下の命を受けて、平原の太守として任地におりました。
杲卿仁兄は私を大切に思って下さっていたので、お前に伝言を持たせて私のもとによこし、お前が戻ると、力をあわせて要衝の土門閑を敵から奪回し、この土門閑が解放されたことにより、逆賊どもの勢いは大いに弱まったのです。
ところが、不忠の臣・王承業が援軍を出さなかったばかりに、杲卿が守っていた常山の城は孤立し、包囲され、父は捕慮となり、子は死に、あたかも巣が傾き、中の卵がくつがえるかのようになってしまいました。
この禍が天のあずかり知らぬところのものであったなら、いったい誰がこの苦痛を与えたのでしょうか。
お前が、こんな残酷な目にあったことを思うと、百度身代わりになったとしてもどうしても償えましょう。ああ、悲しいことです。
私は皇帝陛下の御沢を受け、転任して同州、次いで捕州の刺史となりました。お前の兄の泉明が近ごろ常山に訪き、お前の首を納めた棺を携えて戻ってきました。
お前があまりにも可哀想で胸がはりさけ、心も顔もふるわせつつ嘆きいたんでいます。しかるべき日を待ち、しかるべき所にお前の墓を設けましょう。霊魂となったお前がこのことを知ったなら、よるべない身を嘆くこともなくなるでしょう。
ああ、悲しいことです。どうかお供え物を受け取って下さい。 」

(意味は芸術新聞社「墨」第127号(1997年)の記事より)


posted by Fukutake at 09:00| 日記

2019年01月22日

自らに頼れ

「徒然草 第二一一段」

(現代語訳:「イラスト古典全訳 徒然草」 橋本 武  日栄社)p201〜

 「世の中のことはどんなことでも当てにしてはいけない。愚かな人はどんなことでも当てにしすぎるから、他人を恨んだり怒ったりするようになる。権勢があるからといって当てにはできない。強力な者から先に滅びやすいからである。財産が多いからといってあてにはできない。そんなものはあッという間になくなってしまうものだからである。学才があるからといって当てにはできない。聖人たる孔子でさえ時に遇わず、世に用いられることがなかったからである。徳行があるからといって当てにはできない。あの孔子に賞賛された顔回でも、不幸な生涯だったからである。
主君から寵愛を受けても当てにはできない。掌を返すように主君の怒りにふれて殺されることになりかねないからである。召使の者が忠実に従っているからといって当てにはできない。いつこちらを背を向けて逃げ出すかもしれないからである。他人の好意も当てにはできない。絶対に長続きはしないからである。約束事も当てにはできない。誠意をもって実行されることはほとんどないからである。
 我が身に関することも他人に関することも当てにしないでおれば、ことがうまく運んだ時には喜び、その反対に、思いどおりに運ばなかったからといって恨みに思うこともない。自分の身の回りが広ければ障害は起こらないし、前後が遠くはなれておれば行きづまりも生じない。その反対に、身の回りが狭く余裕がなければつぶれたりくだけたりするものである。自分の心配が至らなくて、しかもつきつめて考えている時は、どんな場合にも他人と衝突し争いを起こし自分が傷つく結果となる。この反対に、十分な余裕をもって柔軟に対応する時は、一毛といえども損することはない。
 人はこの宇宙において最も霊妙な働きをもったものである。そうして、この人間を容れている宇宙は無限なるものである。従って、人間の本性も、どうして宇宙の本性たる無限性と異なるところがあろうか。人間の本性が、かくのごとく寛(ひろ)やかで大らかで極まるところがないならば、たとい喜怒の情が生じても、この本性の障害にはならず。他人のために煩わされることはないのである。」

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結局頼るのは自分ひとり。
posted by Fukutake at 11:36| 日記