2019年08月05日

個は死ぬ、私は死なない。

「人間にとって寿命とはなにか」 本川達雄 角川新書 2016年

死によって死を克服
p94〜

 「…現代日本人の多くは、死んだら私はお終いで、今の私が生きてる時間と今の私の体が占めている空間のみが私だと考えています。これは西洋近代の私観であり、その代表がデカルトの「我思う、ゆえに我あり」です。我思うでは思う主体が私ですから、子はもちろん別の個人として別の思いをもっており、私とはまったく別物です。…死ねば終わりと考えるようになったのは、ヨーロッパ的新台科学思想の蒔いた種子である。生命ないし霊魂を一代かぎりで完全に消滅するものと考えた日本人は、近代以前には、まずいなかった」(益田勝実「古代人の心情」

 柳田國男は「祖父が孫に生まれてくるといふことが、或は通則であった時代もあったのでは無いか」と述べています(「先祖の話」)。
 小生の生まれる数ヶ月前に祖母が亡くなっており、「あんたはおばあちゃんの生まれ変わりだよ。そのきょろっとした目も縮れっ毛もおばあちゃんそっくりだ」と母がよく申しておりました。母は明治末年の生まれです。
 生命が続くという発想は、洋の東西を問わずありました。そもそもlifeという言葉は古代インド-ヨーロッパ語のleypが語源であり、これは続くという意味をもっています。続くことが生命の特徴だと考えられていた証拠でしょう。

 古代ギリシャには、生物をさす2つのの言葉があったそうです。
1つはビオス。もう1つはゾーエー。
 ゾーエーの方は、世代を超えて共通しずっと続いていって死なないもの、あらゆる個別的生命の源泉となっている生命活動そのものであり、生命活動の共通部分です。今の言葉で言えば、遺伝子がゾーエーの主要な部分をなすでしょう。遺伝子はずっと続いていくものですから、遺伝子は生命活動の源泉です。
 ケレーニイは生物を真珠のネックレスに例えています。(「ディオニューソス」)。個々の真珠の珠が一世代一世代の個々のビオス、それを貫いてつないでいる糸がゾーエー。全体として、そんなネックレスのようなものが生物なのだと、古代のギリシャ人は思っていたようです。彼らは死ぬが死なないで続くという生物の二面性をはっきりと捉えていました。
 かならず死ぬ、けれども死なない、こういうものが私なのです。死と不死という絶対的に矛盾するものが同居して一体化している、これぞ絶対矛盾的自己同一。西田幾太郎は生命をそういうものだとします。」


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死ぬが死なない!?
posted by Fukutake at 08:45| 日記

2019年08月02日

貧乏だけどたのしい

「百年分を一時間で」 山本夏彦 文春新書 平成十二年

貧乏
p216〜

 「…大衆は食べられる限り革命を欲しません。ひと握りの王侯貴族が贅沢と助平の限りを尽くして大衆は食うや食わずでしたから、百年に一度西洋では革命を起こしました。そして天下をとったものが同じ贅を尽くし、大衆は同じ食うや食わずでした。だからまた百年か二百年たつと革命をおこして二千三千年、こうして人間は健康を保ってきたんです。ところが今回は大衆が食いものを捨て、助平の限りを尽くすようになってこれを倒すものがありません。大衆が丸ごと倒れる番だというのが僕のこの欄で話した「社会主義」のダイジェストです。

 夏涼しく、冬あったかく、食い物と着るものは捨てるほどあって、世界中を旅して、あんたがたは古人が夢にもみなかった極楽のまっただ中にいるのですよ。貧乏は「ごっこ」になったのですよ。

 クリントン大統領が来日した時、橘曙覧(あけみ)という江戸末期の歌よみの歌を引用して話題になった…「独楽吟」という五十二首があってそのうちの一つを、日本人に教わったのでしょう。
(中では)貧しいが満ち足りた歌を詠んでいる。米櫃がこれだけ一杯だから、ひと月はもつだろう、それがうれしいという歌がある。

「たのしみは銭なくなりてわびおるに 人の来たりて銭くれしとき」「たのしみはとぼしきままにひと集め 酒飲め物を食へと言うとき」「たのしみは嫌なる人の来たりしが 長くもおらで帰りたるとき」「たのしみは妻子(め子)むつましくうちつどい 頭なべて物を食うとき」。

 小学校から英会話を教えて、百人一首も知らない子に育ててどうする。」

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posted by Fukutake at 10:09| 日記

2019年07月31日

修行の意味

「脳が先か、心が先か」 養老孟司ほか 大正大学 まんだらライブラリー
 2009年

 脳と心 p34〜

 「自然な状況で体を使うということを一番よく知っているのは仏教だと私は思っています。お坊さんがお寺の庭を掃いているの、あれは寺をきれいにしているのじゃないですよ。修行です。根本は。修行って何だ。この話をするとつい言いたくなるので言うのですけど、比叡山の千日回峰ってあるじゃないですか。お坊さんが千日、比叡山の山の中を走る。考えてください、あれって何の役に立つんでしょうか。お坊さんが千日、山の中を走り回ってGNPが上がるかって考えてみても、減るだけですからね(笑)。だから、あほかと。やる気にならないでしょう。若い人は笑っていますけど、でも、千日回峰をやると大事にされてしょうがないんです。それは何でですか。

 絶対に日本の経済には貢献したからということではない。じゃあ何に貢献しているのか。私は、今の教育、あるいは人生論の中で一つどうも抜けたのじゃないかと思うのは、「人生がその人の作品だ」という考え方です。自分の生れつきとか能力とか容貌とか財産なんか一切関係ありません。そのひとが与えられた条件の中で自分の意思で精いっぱい生きているときにある状態ができ上がるわけで、それが一つの作品になっている、それを人生と言うのでしょう。
 そう思っていないんじゃないかな。以前、大蔵省があったころ、東大法学部の学生を大蔵省の先輩が勧誘に来た。「今、大蔵省に入るとあんたの生涯賃金は結局十億円だよ」と勧誘していたそうです。そういう考え方の中には、自分の人生そのものが一つの作品だという考えはないですね。それは金を稼ぐ機械ですね。自分の人生がもしある種の作品であるとしたら、千日回峰というのはその中の大事なものであって、それをすませるとあるところに磨きがかかってくるんだという考え方。皆さん方、そういう考え方で自分の人生を生きないと意味がない。そうでしょう。何のためにこんなことをしているのかと後悔をする。作品って、絵描きさんでも彫刻家でも、我々の研究でもそうですけど、でき上がってみるまでどんなものができ上がってくるか、実はわからないのです。だからレオナルド・ダ・ヴィンチは死ぬまで「モナ・リサ」を持って歩いて、手を入れていたんですよ。完成しないから。だから「モナ・リサ」って絵描きとしてのレオナルドの人生そのものであって、皆さん方も実は自分の人生という作品をいつも抱えて歩いているわけです。その作品にしょっちゅう筆を入れたり、あっちを削ったり、こっちをつけ加えたりする。そういうふうな感覚が今は教育からも社会からもかなり消えたんじゃないかという気がする。」


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人生は自分を一生かけてよくしていく行程。結果はともかく。
posted by Fukutake at 13:39| 日記