2020年01月21日

一人ではなく、全体の最適を!

「シゴトの渋滞学 − ラクに効率を上げる時間術」 西成活裕 
 新潮文庫 2013年

組織の力は100%ではなく90%で
p195〜

 「私は東京ボブスレー・リュージュ連盟の技術顧問をしていたことがありました。ソリを数人で懸命に押して、スピードをつけて飛び乗る、そんなボブスレーという運動競技において「個人が全力でソリを押してしまう」ことはタイムを相当におそくすることを見つけました。
 実際にゴールタイムで最大二.〇秒ぐらいはおそくなるのです。ボブスレーは
一〇〇分の一秒を争うスポーツなのでこのタイム差は決定的です。そして、そこでは「〇.九」チカラで充分なことがわかりました。
「一」 のチカラを出すと、なぜタイムが遅くなるのでしょうか?
 それは、最後にサッとソリに飛び乗る際、選手がグッとソリをつかんで後方に引くこととなり、スピードが落ちてしまうというわけなのです。
 つまり、この場合には「〇.九」のチカラで押して、最後に余力を使って地面を蹴りながら飛び乗る「蹴り乗り」という動作で、ソリにかかるチカラを使うべきなのです。
 自分のスピードよりもソリのスピードが第一なのですから、会社組織における「個人の全力」にも、そういうところがあるのではないでしょうか。
 「ボブスレーにおいては、自分よりもソリのスピードを見なければならない」のと同じで。「会社の集団作業においては、自分の業績より組織全体の『流れ』を見なければならない」わけです。つまり、個人の全力は「組織全体にとっては迷惑」とさえ言えるのかもしれません。「個人のすばらしいスピードが、なぜか、全体のスピードにブレーキをかけている」なんてことだって起きることがあります。
 そういう「天才肌」の人物が、組織の「流れ」をストップさせている状況… どこかで、見たことはありませんか?
 つまり、能力の発露が同時に「最大限の自己主張」にもなっている。そうなると「社会に参加するためのコストを個人が払っていない」ことになるのです。」


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個々人の全力の善意がチグハグだとかえって打ち消しあう。

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posted by Fukutake at 08:52| 日記

2020年01月20日

もっともらしさの落とし穴

「シゴトの渋滞学 − ラクに効率を上げる時間術」 西成活裕 
 新潮文庫 2013年

合理的予想の矛盾
p110〜

 「人間はどんなに精密な計算の網目もスルリと抜けてしまう……そうしたとんでもない矛盾とムダのなかに生きています。
 交通政策の失敗もそのようなことから生まれているわけです。例えば「自転車に乗るときはヘルメットを着用しましょう」なんて安全のための政策を否定する人はなかなかいません。
 実際問題、警察も道路関係の学会も、この政策に対しては否定する人がいなかったのです。
 しかしフタを開けたら、「自転車に乗るときヘルメット着用を義務づけることで、死亡事故が増えた」例も出てきました。
 そうなった原因が何なのか、わかるでしょうか?
 よくよく調査をしてみたら、「運転手は、ヘルメットをつけている自転車を見かけたら、安全だと思いこんでしまって、より自転車の近くを抜けて走っていくようになったから」とわかりました。
 ヘルメットを着用していないならば「あぶない」と感じて避ける。しかし、相手はヘルメットをつけているのだからという過信からフラッと近づいたときの接触事故によって、結果的には死亡事故が増えることもある…。それこそが人間のやることなのです。
 人間の集団というのは、いとも簡単に、個々の人間の予想や意図をすり抜けた行動を取る怪物のようなものなのです。
 ですから、論理や数字で正しく見えるのだからと、ほとんどの人にとっては「いい」と思える政策こそ非常に危険なのです。人間はかならず逆に動くところがありますから。」

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もっともらしい理屈が現実から仕返しを食らう

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posted by Fukutake at 08:45| 日記

2020年01月17日

MMT?

「成熟社会の経済学」−長期不況をどう克服するかも− 小野善郎 
 岩波新書 2012年

おわりに より
p207〜
 「私たちはいつから金の亡者になってしまったのでしょうか?…
 考えてみれば、お金ばかりの傾向は、二十数年前のバブルの頃からはじまっています。あの頃の関心は倹約ではなく、いくらもうかるかでした。テレビでは素人向けの投資番組が視聴率を稼ぎ、バブル成金が札束をばらまいて見せていました。その名残は、二〇〇〇年代半ばのホリエモンや村上ファンドの事件にも現れています。何かお金を払うことがあれば、すべて無駄(な支出)だと言われる。未曾有の大震災後の復興資金ですら、何とかお金を払わない方法はないかと、日本中が四苦八苦しています。
 これらを見ると、私は、一九世紀イギリスの文豪チャールズ・ディケンズ(一八一二− 一八七〇)が書いた『クリスマス・キャロル』の主人公、スクルージを思い浮かべます。クリスマスの夜、使用人や甥にプレゼントや小遣いを渡すことなど言うに及ばず、自分自身が生活を楽しむことすらできずに、暗く粗末な事務所の片隅で、一人、金勘定をしている。これこそ、今の日本で言われている無駄(な支出)の排除の究極の姿、理想型でしょう。当時のイギリス産業革命によって急速な製剤成長を遂げ、植民地も拡大して巨万の富を手に入れた一方で、大量の貧困労働者と失業を生み出していました。そうした社会背景でのスクルージの姿は、現在の日本と重なります。
 そのそも、無駄っていったい何でしょうか。お金を握りしめ、欲しいものを買わずに我慢し、その結果、仕事が減って若者も就職に困り、働き盛りの人たちも肩をたたきあい、働きたい人が働けないでいる。これこそが無駄ではないでしょうか。経済の本来の目的とはお金をためることではなく、日本がこれまで積み上げてきた巨大な生産能力と富を生かして、私たちの生活を楽しく快適にすることです。いまの日本はその本来の目的を見失っているのです。
 したがって、長期不況を克服するためには、お金の束縛から解放され、私たちが生活を楽しむことに知恵を絞ればいいのです。それによって、働く場も増え、企業の収益も拡大して株価も上がり、結果的にお金がついてきます。これだけの生産力を備え、優秀で勤勉で働くことの好きな国民がそろった日本ならば、国民に気持ちよく働いてもらうだけで、世界でもトップ・クラスの楽しく安全で豊かな国ができます。それなのに、お金の亡者になっていて、それができない。
 これほどもったいないことはありません。」

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まったくその通り。社会的有用制のある大規模財政投資を数年間進めること。
posted by Fukutake at 08:57| 日記