2018年04月16日

知恵は教えられないか

「人間であること」 田中美知太郎 文藝春秋 昭和五十九年(1984)

「科学と技術」より 187P~

 「…われわれは自分の利益のためにいろんなことを日常考えています。われわれの言ったり行動したりすることは、大部分はよく考えてみると、自分の利益のためにやっているという解釈を許す面がたくさんあります。けれども、自分は自分のためだと思ってやったり計算なりが、後になって本当に自分のためになったかどうかというと、これは大へん難しいようですね。たいがいの人は、みなお金を儲けたいと思って、一生懸命日夜苦心しているかもしれないけれど、必ずしも儲からないですね。損をしたり、とんでもない結果になるわけです。非常に情熱的な愛国者があって、これはお国のためであると考えても、それが結果においてお国のためになったかどうか、非常に疑問になることがありますね。
 プラトンが書いた『国家』という書物のはじめのところに、法律とか、正義とかいうものは、その社会社会における支配的な勢力、いわゆる支配階級が、自分の利益のために作るものである、制定するものである。正義というものは要するに支配者に対する奉仕であって、自分が行ったら損なものであるという極端な議論が唱えられて、これに対するソクラテスに批判というのがあります。それは、何であるかというと、各国の支配者は、自分の利益なるものを果たして本当に知っているか、支配階級は果たして、自己の利益を本当に知っているか、その点となると、非常に誤った判断にもとづいて、自分の利益になると思い、ある法律を制定したところが、後になってみたら自分の得にはならないで損になっている、破滅になることすらも、ないとは限らない。そういう意味において、何が本当に自分のためになるかという判断は、まちがいがおおいのです。政治の歴史などというものは、ほとんど、失策の歴史であると言ってもいいくらいに、絶えずそういう失敗に満ちていると言わなければならない。利用するとか、ためになるとかいうところのその判断力において、われわれがまちがえない、少なくとも、安定した形で、そういう判断ができるような状況があれば、非常に結構なのですが、今日においては、それは保証されません。

 有名なギリシャのペリクレスとか、テミストクレスとかいう人たちは、優れた政治家でした。ペリクレスの如きは三十年にわたって、口やかましいアテナイの民衆をリードしたんですから、並大抵の人間ではないですね。そのかれが持っている、政治的才能、政治手腕といいますか、そういうものは、もしかれが自分の子孫に何か残したいものがあるとしたら、まず、第一にそれを残したかったろうと思います。ペリクレスである所以の政治的な識見というものを、残したいと思ったでしょう。しかし、かれは自分の子供に、算数とか音楽とかいろいろな教育を与えることができた。あるいはソフィストによって、高等教育を与えることができたが、自分の政治的に優越した指導者としての能力そのものは、子孫に伝えることはできなかった。」

------
知恵は教えられない。

posted by Fukutake at 12:22| 日記

2018年04月09日

中国古代史の終焉

「世界の歴史7 大唐帝国」 宮崎市定 河出文庫(河出書房新社) 
 1989年

中国中世史(唐)

本書あとがき より

 「漢末から唐初までの間には約四百年の歳月が横たわる。一部日本の学会では、この時代をそれ自身の価値によって捉えようとはせず、単なるつなぎの時代として片付けようとする。古代の漢から古代の唐へ移る中間には大した意義がないからである。我々の考えはそうではなく、古代の漢が滅びたあと、新しい時代を迎える活力を蔵した時代として評価せんとする。
 そもそも漢王朝の滅亡は単なる一王朝の滅亡ではなく、古代社会がその必然的運命を辿って崩壊したのである。すなわち古代都市国家の遺制たる郷亭制を地盤とした漢帝国がその根底から崩壊し、その跡の各地域の中心には大なる政治都市が出現し、末端には無数の荘園村落が発生し、中国社会は従来なかった新局面を迎える。農村を足場とした地方都市は連合して地域の秩序維持に当たり、この地域連合はややもすれば中央政府から離脱して、独自の政権を樹立しようとする。漢代まで中国はひたすら全国の政治的統一を理想として努力を続けてきたが、漢王朝が滅びると共に、社会に分裂的素因が作用し、中央の統制力が弛んで、地方を掌握することが出来なくなり、分裂割拠がかえって常態となり、それが中世の時代色となるに至った

 最初の分裂は漢滅亡直後の魏・呉・蜀三国鼎立であり、西晋が代わって天下を統一したが、わずか十数年の平和を保ったばかりで、永嘉の大乱となり、以後五胡十六国の大分裂を経て、南北朝の対立を生じ、これを隋が統一したがその盛時は二十余年、これに代わった唐王朝も名実ともに統一を保ったのは、安史の乱に至るまでの百四十年に過ぎぬ。地方軍閥の割拠の趨勢は次の五代十国、中国史上最後の大分裂に至って極点に達した。通観して漢滅亡から宋の統一に至る七百四十年のうち、統一の実をあげたのはわずかに三朝百七十余年、全体に比して四分の一強に過ぎない。されば中国中世は世界の各地域と共通して、分裂割拠を常態として、統一状態、とくに唐王朝の大統一はむしろ異例と見るべきである。しからばこの大統一は如何にして出現したか。従来の史家はともすれば唐を以って唐を説明するの方法を用いようとするが、実はそれは解答にならない。私は唐が成立する以前の五胡南北朝を以って唐の本質を説く筆法を用いたが、その結果は目標たる唐王朝自体を説くにははなはだ疎略結果に陥った。しかし、大唐帝国が大唐帝国たる所以を説明するためには、このような筆法があっても良いではないかと考える。」

---
戦乱の中国中世史
posted by Fukutake at 08:37| 日記

2018年04月05日

真の保守とは

「蜃気楼の中へ」−遅ればせのアメリカ体験−  西部 邁 
 中公文庫 昭和60年

 「反進歩への旅」より
 210p〜

 「伝統主義といい保守主義といい、それらを旧套墨守として侮蔑するというのが進歩と革新の時代の通弊です。自分の来し方を振り返ってみても、既成の権威に楯突くことの少なくなかったようです。お前もその悪弊に染まっていたのだといわれてみれば反論は容易ではありません。ひとまず、保守するに価するような立派な伝統に出くわすのが難しかったからだ、と逃げを打ちたくなります。こうして、一呼吸おいておけば、伝統だ保守だと叫び立てる人に限って権威をかさにきて鼻持ちならぬ、と反論することもできそうです。もっと一般的にいえば、貴族の王朝は堕落するものだ、というのも一つの経験則だといえましょう。したがって、自分のうちにある反権威的な傾きを殊勝気に反省しようとなどという気は起こりません。そしてそれ以上に、いく度か立ててみた向かっ腹の対象はといえば、進歩と革新の権威にほかならなかったのですから、自分の求めていたのは真正の保守であり真正の伝統だったと言い募りたくなるわけです。
 ともかく、革新、進歩、成長あるいは変化といった言葉に当たるたびに眉に唾する癖がついてしまいました。僕がイギリスの片田舎で殊のほか落ち着きを感じることができるのは、村人たちにもこういう癖が共通しているやに見受けられるせいなのでしょう。日常の上辺だけをみれば、毎朝ミルク・ティにベーコンエッグズとトーストを食べ、男たちは付近の町へ仕事にでかけ、女たちは家を磨き上げお茶に誘い合い、男の子はサッカーに明け暮れ、女の子は親切や意地悪に離合集散に熱中しています。日曜日ともなれば、思春期にさしかかった少女たちが馬にまたがり、大人たちは庭造りに精を出します。そしてヴァカンスには車を駆ってスペインにでかけ、家族揃って日光浴です。こんな次第ですから、いったん何が保守だというのだと問い返されれば、具体的にはどういうこともないと認めざるをえません。あるのは「フォックストンの静かな日々」と名づけたくなるような平凡の連続であり、要するに目立つことは何もないのです。
 そして僕がこの村から保守の匂いを強く感じるのは、目立つことを避けるという人々の行動特性であるような気がします。保守の精神にとって、変化や成長の源泉であるいわゆるオリジナリティなどという代物は、恥ずべきものであり、猥褻ですらあるに相違ありません。ロンドンやエディンバラで街頭を曲がったとたんパンク・ルックの若者と不意に遇ったときに、僕は喩えようもない猥褻感を感じました。保守が変化や成長とよばれる事柄に対して抱くのは、それと類似した感情ではないでしょうか。
------

実際私が生活した80年代のロンドン郊外の人々を活写しています。
posted by Fukutake at 09:23| 日記