2019年08月13日

不幸は救済されるべき権利か

「悪と魔の心理分析」 満たされない心の深層を探る  頼藤和寛 
 大和出版 1998年(その1)

被害者の内なる悪
p155〜

 「われわれは、なんらかの意味で加害者的存在である。それゆえ「悪」である。
 しかし、このことは、被害者的存在でありさえすれば「悪くない」ということ意味しない。ところが、どういうわけか、われわれには、被害をこうむるとなにか免罪されたように感じる傾向がある。洋の東西を問わず、被害者免責的心理が認められるように思われる。
 精神分析では、被害をこうむることで無意識の内なる罪悪感が解消されたり、贖罪欲求が満たされたりするためではないか、と解釈されている。一種の自己処罰的欲求が無意識に潜んでいるような場合には、安楽な日々が続くのも落ち着かないようなのだ。ひどい目にあうと、それは天罰のようなものだから、日頃の原罪意識が軽減されるわけである。
 確かに、毎週教会で自分たちが罪深い存在だと教え込まれた人々なら、そういうこともあろう。また罰をこうむっていないような罪人は、いつも落ち着かない思いで生きているわけだから、なにかの拍子に災難にあえば「これで罪滅ぼしをすませた」と感じて、日頃の呵責から一時的に解放されるのかもしれない。
 ということになると、ひどい目にあった人は、まだひどい目にあってない周囲の人々より「正しい」わけである。被害者たちは贖罪をすませた人間で、幸福な者たちはまだ負債を残した人間ということになる。
 このように、被害者たちの態度はでかくなる。
 ふだん罪悪感などなしに生きてる日本人の場合でも、被害者は負債を先払いした人間で、周囲の者は払いの悪い人間という感じなるかもしれない。いずれにしても、人生において十分な災厄をこうむると、周囲や世界に対してアドバンテージや補償請求権が生じたかのごとき感覚をもつ場合が多い。
 かつては障害者の多くが物乞い(日本人は一応布施者に感謝するが、中近東では当然のように受け取る)をしたし、当節では福祉制度による援助を受ける「権利」を確保している。周囲の者も、「気の毒」という感情を自然にか、半ば強制的にか感じてしますし、見下した同情を感じるのか、自分の幸運をうしろめたく思うのか、不運な人々に有利な風潮や制度を受け入れる。

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posted by Fukutake at 11:30| 日記

2019年08月09日

長老とは

「庶民の発見」 宮本常一 講談社学術文庫 1987年

 p112〜 村の本当の相談相手

 「…村の女たちの品定めは実に日常たえずおこなわれている。男同士の世界とはまったく別で、大半は人のうわさであり、村のトピックである。しかしきいていて、ただ興味本位ではなしにちゃんと批判があることに感心する。このようにして、女は村のすみずみまで知っている。それを知らない人には村は住みにくいし、どこまでいっても感情のとけあうことはない。
 かつて秋田の山村で体験したことだが、三里ばかりの谷に百八十戸の農家が散在しているところで、ある家の主婦がその一軒一軒のドブロクの味の特徴を知っているのに驚いた。自らのんでためしたことはないはずである。いったいどうしてそれを知ったのであろうかと、いまも不思議に思っている。
 しかもそこまで知っていなと、村の円満なつきあいはできないものだという。そして、他人を非難したり批判するような場合には、通常相手の名を露骨にいわない。シコナ(醜名)というか、独得なよび方をする。そして会話の中にも多くの隠語がはいり、また比喩がはいる。これは全国共通といっていい。そのことゆえに他人を非難できたので、面と向かって相手をせめることも少なかったが、かげで物いう場合にも悪意にみちたものではなかった。そうしたところに、ささやかながら村の散文的な文学が存在した。家々のシコナは各地とも盛んに用いられている。
 こうした女たちのはなしはたいてい村の長老たちに通じている。自分の亭主には話さなくてもそういう人には話す。なぜなら、そういう人が真に困った時の相談相手になってくれるからである。
 そういうことによって村の統制はとれていたのである。土佐の山中で逢った老人が「人間の悪いところばかりあばいていたのでは村はよくならん。何もかも知っておって、しかも人を傷つけぬように気をつけねば村のくらしはうまくゆかぬものだ…」とはなしてくれたことがあったが、味わうべき言葉である。しかも、こうした長老と目される人は決して大家の旦那ではない。百姓女たちの相手になる程度の家の老人で、ともに働き、ともに苦しんできた仲間である。
それは村の政治の外に立っている。井戸端会議はたいていそういうところへ直結している。」

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女が村の要
posted by Fukutake at 09:02| 日記

2019年08月07日

面白くなるまで仕事をしろ

「世界平和はナマコとともに」 本川達雄 
 阪急コミュニケーションズ 2009年

進路を決めかねている高校生へ

p230〜

 「「自分の好きなこと、おもしろいと思うこと、やりたいことをまず見つけよう。そして、それがやれるところに進学しよう」というアドバイスは、まじめに聞かない方がよい。
 おもしろいこと?バンドをやっていればおもしろい。漫画家や小説家もじつにおもしろそうだ。だから音楽学校や文学部へ行こう。ペットと遊んでいるとおもしろいから、動物学を勉強しよう。などと思っても、そういう職業で食べていける人は、ほとんどいない。
 世の中の仕事の大半は、おもしろいものではない。少なくとも、高校生が見ておもしろそうだと感じられるものではない。お金を自分でかせいで生きていくことは、おもしろいなどとは次元が違う話である。
 自分が高校の時におもしろいと感じたことを追求して、それを職業にするのが理想の人生なのだというアドバイスは、君たちをほとんど不幸に陥れる悪いアドバイスである。「好きなことをはっきりともっており、それを一生追求するのがよい人生なのだ」と言われてしまったら、私たち普通の人間はみな、自分は本当の人生を送っていないなあと、後ろめたい感情をもたされて生きていくことになる。これはたまらない。
 人生というものは、やっているうちに好きにならざるを得なくなるものだ。君たちはまだまだ人生のスタート地点。進路を選ぶ際に、かならずしもそれが好きである必要はない。
 一つだけ選択に関するアドバイス。「それを選んだら、自分は世の中に対してどんないいことがあるのか」と考えるだけでなく、「それを選んだら、自分は世の中に対してどんないいことができるのか」と考えて円卓してほしい。世のために働いていれば、人生は充実するし。のたれ死にはしないと私は信じている。」

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世の中の付託に応えることが人生
posted by Fukutake at 08:46| 日記