2019年02月12日

外国語の習得

「養老孟司 特別授業 『坊つちゃん』」別冊NHK 100分で名著 
 読書の学校 2018年 NHK出版

言語の前に文化を学べ
 p79〜

 「言語にはその言葉を使う人たちの文化や考え方が含まれています。
 上智大学のイギリス人の教授から、こんなことを聞いたことがあります。
日本語がとても上手でした。日本語で四時間教授会を行なった後、ロンドンの出版社から彼のところに電話がかかってきた。しばらく話している間にカンカンに怒って、電話の相手を怒鳴りつけたといいます。電話を切って一時間ぐらい経ってから、その教授は大いに反省していました。
「日本語で考えていたからあんなに腹が立ったんだ」 
 どういうことかわかりますか。イギリスの英語の会話の中では普通だとされているやりとりでも、そのまま日本語に訳して聞いていると、日本の社会では非常に失礼なやりとりになってしまうことがあるのです。
 日本語の達者な留学生が、悪気はないのに日本人をしょっちゅう怒らせているなんていうのも、よくあることです。
 日本語を流暢に話す相手は、自分と同じ感性で同じ価値観だと思ってしまう節がある。逆もまた同じです。すると、お互いに悪気はなくてもすれ違いが起こり、喧嘩になる。言葉が拙ければそこまで腹は立ちません。
 結論を言うと、自分がその国の価値観にどの程度慣れているか、どの程度理解できているかということに比例して言葉が上手になることが望ましい。言葉だけが上手いのは、考えものなのです。
 その国の価値観は文化に作り付けになっている。日本語を流暢に話すのであれば、その場の人間関係を見ながら「気を遣う」「忖度する」「敬語を使う」ということまでできないと、トラブルの元になる。
 日本の中で日本語を話していても同じこと。相手が同じ価値観で話していると思ったら大間違いです。」

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posted by Fukutake at 09:05| 日記

2019年02月07日

イデアとは

「ソクラテスの死」 R.グアルディーニ 山村直資 訳 1968年 
 法政大学出版局
(その3)

p319〜

 「イデアは決定的に真理の条件である。そして、この哲学者に最終的な確信を与える宗教的なものも、何にもまして真理にうらづけられている。ソクラテスは真理の体験において、自己自身の存在、そして存在一般を確信する。ソクラテスの哲学は、思考と探求のかもし出す情緒のみによって生きるような、単なる概念の仕事とは全く別のものである。そしてこのような哲学を支えている人間は、豊かで、強く、あらゆる方向に向って発展し、歴史上知られているきわめて創造的な文化と関わりをもつ。だが、決定的なことは、その哲学が果たしている認識の驚くべき情熱のうちにある。
 プラトン的な人間はいかなる犠牲を払ってもーいな、もっと正確に言えば、最高の、そして生命にかかわるような犠牲を払っても、知ることを求める。その現れが、哲学者は死に関わるべく定められているという説であり、ソクラテス自身の姿と死とはその証明である。この認識への意志は、慎重かつ断乎たるものであり、良心に従ったものであるとともに、大胆である。彼はこの問いが難問であり、その限界がいかに厳しいものであるかを知っているが、また真の確信に通じ、実在に一致した純粋な認識があることについても、確固たる信念をもっている。諸問題に、目で見、頭で考えるというすばらしい手段で迫るこの若々しい強靭な真理への意志こそ、プラトンの著作を不朽にしているものである。そしてこの意志に関わりをもっているのは、意味にあふれた真理、つまり何にもまして尊厳そのものの真理であり、それ故いかなる目的にも従属するものではありえないーだが、この真理はそれが真理であるが故に求められると、たちまちにしてまたとない豊かな生命の力となる。」

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posted by Fukutake at 13:56| 日記

2019年02月04日

肉体の死と魂の不死

「ソクラテスの死」 R.グアルディーニ 山村直資 訳 1968年 
 法政大学出版局
(その2)

魂の不死について

p287〜
 「ソクラテスは、存在するものとは何か、存在するものはどうしてそのように存在するのか、その根拠は何か、という哲学の根本問題を経験したのである。彼はこの問題をもって、まず日常的な経験でことを片づける人たちのところへ赴いた。ところが、その人たちの答えたるや、あるものが美しいのは、それが丸いからだとか、赤い色をしているからだ、といった経験的なものであった。だがこれでは、まだもともと問題となっていることに全く触れていない。そこで彼は、何ごとも理性でもって、すなわち、学問的に処理すると称する自然哲学者たちの言うことを吟味してみた。ところが、彼が確認せざるをえなかったことは、この人たちが理性的に処理すると言ってることが、現象を水とか空気という元素に還元することであって、したがって一種の神秘的自然論であり、またしても失望した。なぜなら、彼が知りたかったことは、ものがいかにして合成され、また解体されるかではなく、ものの内部からとくに強烈に受容的精神にとって浮かび上がってくるもの、つまり、ものの本質、ないし意味構造が何であるか、ということだったからである。それは元素説などから導き出されるものではないー同様に、彼がいま牢獄にいることの意味も、彼の骨と腱がかくかくの性質をもち、そのためにこのような恰好をして寝台に腰を下ろしているということからは、導き出されるものではない。彼が牢獄にいるのは、彼の体がこれこれの構造をもっているからではなくー更に言葉を続ければ、鎖が彼をつなぎとめているからでも、また法廷で票決の結果こうなったからでも、更にはアテナイの政情が保守派の者たちに力を与えていたからでもなくー彼が自分にふりかかった事件の道徳的意味を理解して、五〇年前のアナクサゴラスのように国外逃亡をせず、アテナイに留まるのを自己の義務とみなしたからである。つまり、そうすべきだという道徳的要求と、彼にとって<最善>であるもの、すなわち、意味あるものの根源たる倫理的イデアが、彼の心に明瞭となったからであるーそれと同じく、彼が知りたいのは、美の印象においていかなる物理的、あるいは生理的現象が作用を及ぼすかではない。美しいものを
明瞭に、不可抗力的に、また感動的に見せ、かつ意識させる本質と意味の真相がどこにあるかということである。

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posted by Fukutake at 10:24| 日記