2017年05月01日

帝王学

「中国の古典 貞観政要」湯浅邦弘 角川ソフィア文庫 2017年

人を選ぶ

P141〜

自薦は信用しない

 「貞観十三年、太宗がおそばに仕える臣下たちに言われた。「私は聞いている。太平の後には、必ず大乱があり、大乱の後には、必ず太平があると。大乱の後[となる今]は、これこそ太平の巡り合わせである。天下の安定は、ただ賢人を得られるかどうかにかかっている。公らは、賢人を知ることができず、私もまた、もれなく知ることはできない。日一日[と過ぎていくのに]、人を得る方法がない。そこで今、人に自薦させようと考えた。ことことをどう思うか」。魏徴がお答えして語った。「他人を知ることができるのは知性、自分を知りことができるのは明察です。他人を知ることそれ自体すでに難しいことです。自分自身を知ることは、実にまた容易ではありません。さらに、暗愚の人は、みな自分の才能や善行を誇りがちです。[自薦させれば]おそらくは澆競(ぎょうそう)の風を助長することでしょう。自薦させるべきではありません。」

(書き下し文)
 「貞観十三年、太宗、侍臣に謂て曰く、「朕聞く、太平の後、必ず大乱有り。大乱の後、必ず太平有り。大乱の後は、即ち是れ太平の運なり。能く天下を安んずる者は、惟だ賢才を得るに在り。公等既に賢を知る能わず。朕又徧く識るべからず。日復た一日、人を得るの理無し。今人をして自ら挙げしめんと欲す。事に於て何如。」魏徴対えて曰く、「人を知る者は智、自らを知る者は明。人を知ること既に以て難しと為す。自らを知ること誠に亦易からず。且つ愚暗の人、皆能に矜り善に戈る。恐らくは澆競の風を長ぜん。其の自ら揚げしむべからず。」

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他人を知ることは難しいが、自分を知ることはもっと難しい。
posted by Fukutake at 06:07| 日記

2017年04月24日

社会参加儀式の必要性

「河合 隼雄  生と死の接点−心理療法コレクションV」
岩波現代文庫 2009年

境界例とリミナリティ(*) 258p〜

 「現代社会は、本来的な意味でのイニシエーション儀式を棄て去ってしまった。社会の構造は複雑になってはいるが、その構造は明確に意識的に把握され、その構造内での移動は本人の意識的努力によって可能であると一応考えられている。入学、就職、結婚、などのことや、地位が上がってゆくことなどは、特別に、人格の実存的変革などを体験せずとも、意識的努力によって成しとげられると考えられているし、ある程度、その通りである。しかし、実はその背後において、「自然発生的コムニタスの無数の瞬間」の存在が必要で利、それがうまく機能しない人が心理療法を受けに来る、と言うこともできる。
(中略)
 ターナー(*)はザンビアのンデンブ族の首長の任命式儀礼のリミナリティについて述べ、そこで首長に選ばれる者が徹底的にののしられることを示している。その儀式のときに、首長になるものは敷物の上に手荒に坐らされ、「静かにせよ!あなたはさもしい利己的な愚か者であり、気難しい人間である。あなたは自分の仲間を愛さずに、ただ怒ってばかりいる!さもしさと盗みとがあなたのすべてである!」と言う調子で頭を長々と完璧に罵倒される。このとき「首長に選ばれた者はこのあいだずっと、黙って頭を垂れて坐っていなければならない。この姿勢が“すべてを耐え忍ぶ形”であり、慎しみを表わす形であるということになる。クライアントに徹底的に罵倒されたことのある治療者は、それが自分が心理療法家として一人前になる、あるいは治療空間の首長になるための通過儀礼のひとつと思ってみることも意味があるのではなかろうか。
 治療者は境界例の人が課してくる困難な要求に、どう応えるかとか、それをどう抑えこむかとか直接的に反応するよりも、それがこれまで述べてきたような偉大なリミナリティへの希求の表現であると考え、その意味をいかにして把握し、共にリミナーズとして生きていくのかを真剣にまさぐる努力を払うべきである。」

(*)リミナリティ 【liminality】:人類学者ターナーの用語。日常生活の規範から逸脱し,境界状態にある人間の不確定な状況をさす言葉。道化・トリックスター・シャーマン・修行者などの位置・状況をさすのに用いる。(Weblioより)

(*)ターナー:V.W.Turner

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posted by Fukutake at 08:46| 日記

2017年04月17日

人間の限界

「生物学の内と外」養老孟司x池田清彦 対談 
『現代思想 2012 8月号』  vol.40-10より抜粋

59p〜

 養老「…学問をやるときに科学者が大前提にしているのは、「自分の外に客観的な世界があって、その秩序や法則を第三者として見ている」ということなんだけど。どこまでいってもやはり実際に見ているのは自分なんだよね。それは物理学に典型的に見られて、要するに観察者を消しているということなんだけど、しかしそうやって素粒子でやってきた結果がハイゼンベルグの不確定性原理だし、おそらくあそこでもう一度観測者が出てきてしまうってことでしょう。あそこまで行くと僕には、やはりああいったタイプの科学は行くところまでいってしまった感じがする。つまり、観測者側の脳の限度に来たということだから。「世界がそうなっているのだ」と考えることと、「こちらの脳の限界が来た」と考えることはある意味では同じことでしょう。そもそも人間は素粒子みたいなものを見るように進化してきていないんだもの。
 例えば『銃・病原菌・鉄』(草思社、2000年)で有名なジャレッド・ダイアモンドという生物学者はもともと極楽鳥の分類をやっていた。彼は専門知識をもってニューギニアの鳥を生物学的に分類し、現地に赴いたのだけれど、その結果何に一番驚いたかといえば、ニューギニアの原住民が、一種を除いてあとは彼と全く同じように分類して名前をつけていたことだったんだよね。ダイアモンドはこれが一体何を意味するのかについては言及していないし、ただそういった不思議で面白いことがあったとだけ書いている。でも実は、専門的な見地でもって分類した人と住民の分類が、結論として同じだったというこの事実は、自然に対する人間の目の認識能力の高さを示しているわけです。
 嘘だと思うかもしれないけれど、普通はきちんと計測したり遺伝子を調べることでやっと違いがわかると思うでしょう。でも、原住民でもわかるものはわかる。ムシの分類をするときにもよく言うことだけど、何かが一割違えば人間の目にはわかる。例えば縦横比が10:9だったりすると、これは正方形じゃないとぱっと判断できる。それで今度、正方形か長方形かよくわからない場合は丁寧に計ってみるのだけど、所詮見てわからないものは丁寧に計ったところで結局わからないのだと、僕は経験的に思っている。いくら計測の精度を上げてみてもやはりわからないんだよ。ということは、これは人間の見る目がやはり限界に来ているのだろう、と。でもそれってもう一度考えてみると、当たり前のことでもある。…」
posted by Fukutake at 08:22| 日記