2023年09月19日

いよいよ核装備

「老人支配国家 日本の危機」 エマニュエル・トッド 文春新書 2021年

日本は核を持て p60〜

 「重要なのは、核とは何ぞや、核を持つとはどういうことなのかということです。 核の保有は、攻撃的なナショナリズムの表明でも、パワーゲームのなかでの力の誇示でもありません。 むしろパワーゲームの埒外に自らを置くことを可能にするのが核兵器です。 核とは「戦争の終わり」です。 戦争を不可能にするものなのです。

 敢えて日本の歴史にリファレンスを求めるとすれば、現代日本の核保有は、かつての大日本帝国の復活も、極右の勝利も、意味しません。 むしろ日本がある意味で非常に日本らしい生き方をしていた時代、自己充足的に世界から、距離をとって平和に存在し得た時代、つまり鎖国時代のあり方に日本を近づけけるでしょう。

 第二次大戦以降、欧州で大きな戦争が起こっていないのも、核の存在のおかげです。 ここ一〇年来、英国、フランス。ドイツ、スウェーデンといった欧州の主要国のエリート層に反ロシア、ロシア嫌い、ロシア恐怖症が拡がっています。 この根拠なき「ロシア恐怖症」は、欧州自身が、今どこにいて、これからどこへ向かっているかを見失っている証左に過ぎないのですが、あちこちで不必要な緊張をもたらしています。 例えば、欧州諸国は、クリミア問題をきっかけにロシアに経済制裁を加えましたが、実はさほど効果がなく、かえってロシアの国内産業を活性化させるだけでした。

 いずれにしても、欧州とロシアは非常に敵対的な関係になったのですが、この緊張に歯止めをかけているのが、核の存在です。 ウクライナ危機にもかかわらず、ロシアと西欧が全面戦争に至っていないのは、核により恐怖の均衡があるからです。 核兵器による相互壊滅の可能性があるがゆえに、戦争になっていないのです。

 ロシアは、数年前に、核兵器に関する新ドクトリンを打ち出しました。 それは、ロシア国家の存在が軍事的に脅かされる場合には、ロシアを脅かす側、つまり欧州や米国の側が通常兵器を用いても、それに対抗するために戦術核を使うというものです。 これは、西側メディアでは、ロシアの攻撃性や拡張主義の現われと受けとめられましたが、この新ドクトリンによって、欧米との通常兵器の戦争が抑止されていると言えます。」

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posted by Fukutake at 11:01| 日記

man is mortal

「養老先生のさかさま人間学」 養老孟司 ZOSAN BOOKS  2021年

脳のはなし p118〜

 「友だちは大切です。 中国の古典「論語」の最初には「朋有り、遠方より来る、また楽しからずや」と書かれています。 「朋」は「友」のことですが、「志を同じくする仲間」の意味もあります。

 元の文章は「有朋自遠方来、不亦楽乎」で、「朋の遠方より来る有り」とも読みます。 それだと意味が少し違う、つまり解釈も違ってきますが、それはどうでもいいでしょう。 なにしろ論語は千年以上も前の中国語です。 だから古い文章の解釈がいろいろあっても不思議はないのです。

 友だちが大切だというのは、若いうちにはあんまりピンとこないかもしれません。

 年を重ねると、同級生が亡くなっていきます。 よく「心に穴が空いた」という言い方をします。 そんな気もしました。

 友を失うと、痛いのです。 えっ? 痛いって、怪我をしたときとかの感覚じゃないの。 いや、本当に痛いんですよ。 だから心が「痛む」のです。

 もちろん、けがなら体のどこが痛いかが分かります。 それを認知する部分と、痛いから苦しいと感じる部分は、脳の中で分かれています。

 けがをして痛いけど苦しくない。 そういうこともあり得ます。 苦しいと感じる部分が、「どこが痛いか」を覚知する部分と、脳の中で違っているからです。

 親しい人をなくすと、苦しみを感じる部分が活動します。 それは脳の中では、怪我の時に苦痛を感じる部分と同じ場所なんですよ。

 仏教では「愛別離苦」と言います。 愛する人でもいずれ別れることになるからです。 だって自分が死ぬか、相手が死ぬか、どちらかは必ずあるんですからね。 「諸行無常」です。

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posted by Fukutake at 10:58| 日記

2023年09月15日

塵は塵へ、灰は灰へ

「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」 ロバート・フルガム 池 央耿 訳 河出文庫 1996年

埃と宇宙 p178〜

 「引越しは日頃わたしが思い描いている自分自身の人物像をぶち壊す事件である。 わたしはこれでも結構きれい好きで几帳面なつもりである。 ところが、家財道具をすっかり運び出して、忘れ物はないかと部屋に戻ってみると、どうだろう。 どこもかしこも埃だらけではないか。 デスクのあったところ、本棚をどけたあと、ベッドの下だったところ、戸棚のあった隅…。

 埃。 灰色でぼやぼやした、何やら得体の知れない、気味の悪いかたまり。

 わたしは埃を眺めて考える。 几帳面できれい好きとは、いったい、どこの誰のことだろう? 近所の人たちがこれを見たら何と思うだろうか? 母は何と言うだろう? こんなところを人に見られたらどうしよう。 急いで掃除しなくては。 それにしてもこの埃のひどいこと。 引越しのたびに泣かされる。 いったい、こいつは何だろう?

 どこかの研究所が埃を分析した報告を医学雑誌で読んだことがある。 人体のアレルギーを解明する目的で進められている研究の一つだが、その分析結果がここでは大いに参考になる。 埃の成分は何か。 毛、綿、紙等のけば。 微生物の死骸。 食品。 枯れ草。 木の葉。 灰。 菌類の微細な胞子。 単細胞生物。 その他もろもろの正体不明な物質。 大半は人工の手が加わっていない、自然有機物質である。

 しかし、これはただ、埃のなかにはこんなにもたくさんの雑物が混じっているという話でしかない。 重要なのは、埃のほとんどがもとをただせば二つの発生源から出ていることである。 一つは人間。 剥落した皮膚や抜け毛が埃を作る。 もう一つは隕石。 地球の大気に突入して分解した物質が誇りになる。(まさか、とお思いかもしれないが、嘘ではない。 地球には毎日何トンも隕石が降り注いでいるのだ)言い換えれば、ベッドや本棚、整理ダンス、ドレッサー等々の家具をどけた時に出てくるあのもやもやしたものは、あらかたわたしと星の屑である。

 ある植物学者に聞いた話だが、あの埃を瓶に集めてひたすらに水を注ぎ、草花の種を蒔いて日向に出しておくと、じきに発芽して面白いようににょきにょき育つそうである。 反対に、じめじめした暗いところに置くとキノコが湧いて出る。 そのキノコを食べると目から星が飛び散って病院へ担ぎ込まれることになる。

 現代の科学は、生命が宇宙からやって来たことを認めている。 人間は星のかけらである。 してみれば、デスクの後ろに溜まった埃は、わたしがひっそり宇宙の胎内へ帰る途中の姿ではなかろうか。 あれは埃などというものではない。 宇宙のはじまりである。」

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posted by Fukutake at 09:46| 日記