「田中美知太郎全集 26」 筑摩書房 平成二年
国家と国民 p22〜
「国家を構成する部分はつねに国民なのであって単なる個人ではないのである。 市民が市民であるのは、市民国家を共有し、その国政を分有する限りにおいてであって、絶対的な個人としてではないのである。 いわゆる契約説などでは最初にまずあらゆる自由と権利をもつ絶対的個人というようなものがあり、その個人がある日突然集まって話し合いをし、約束ごとを決めて国家をつくったというようなことになっているけれども、絶対的な個人がなぜ他の同じような絶対的個人と話し合いをはじめ、窮屈な約束ごとをし、国家社会などというものをつくらなければならなかったのか、さっぱりわからないし、そのような約束ごとが実際に行われることの保証がどこから得ているのかも、さっぱりわからない。
これは、人間というものが個人で何でもやって行けるような存在ではなく、むしろ不足が多くて互いに助け合わなければならぬ存在であるからであり、アリストテレスの有名な根本命題、
「人間はポリスなしには生きられないように自然に定められている動物なのである … 国家をもたぬ者がありとすれば、それは人間より劣ったものであるか、あるいは人間よりすぐれたものである。」(『政治学』)
共同体に入りこめない者…それは野獣か神かであるということになる。
生まれながらにして自由と権利を持つ個人というようなものは全くのつくり話であって、このようなものを出発点にしては何も充分には考えられないことになるだろう。
このようにして国家をもつことは人間の必然なのである。 権利も正義もこの国家とともに、また国家の枠のなかで考えなければならない。 とはいえ、われわれの国家がそのまま絶対者となるわけでもなければ、イデアと同じような永遠性をもつというわけでもない。 それは生成したものであり、われわれとともに生成変化するものなのである。 また実定法の中に正義のすべてが完全に実現されているわけでもない。 従って国家もまた個人と同じように絶対性なしに、相対的に考えて行かねばならぬ。
個人は個人のままで国家に対抗することはできないが、個人もまた国家と同じようにイデアを分有する限りにおいて、時には永遠の正義のために、より高度の法的秩序の下に自己の正義と権利を主張することができるかも知れないのである。
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2023年09月22日
生まれながらの自由?
posted by Fukutake at 07:45| 日記
2023年09月20日
先祖とのつながり
「柳田國男全集 21」ー故郷七十年ー 筑摩書房 1997年
生まれ更り p312〜
「生きている間にいろいろな仕事をした人間というものは、もう一度生まれ直そうという感じはないようである。 しかし若くして死んだり、二十歳ぐらいで腹を切ったりした者は、どうしてもそのままでは満足できず、必ず生まれかわって来ると信じられていたらしい。
老人自らが大いに積極的に話をしなければ、この来世というものに対して日本人がどういう考えをもっていたかということが、じつは判らなくなってしまうのである。 しかし多くの人は生まれる話はいいが、死ぬ方の話はどうもということになって、この問題は今迄等閑にされてきた感じがある。
私どもがいちばん不愉快に思うのは、「地下の霊」などという考え方である。 年寄りにきいて見ればすぐ分かるが、日本では霊は地下に行くとは思っていないのに、本居先生などまで根の国というのがあるから、霊は地下へ行くのだといっておられる。 それには流石の平田篤胤も賛成することができなくて、根の国というのは月の中にあるんだなどといい出している。
しかしながら今では神道がじつに寂しい状態におかれている。 日本の信仰はどの点において仏教と対立するのか、それもだんだんとわかりにくくなっている。 年寄りにきいても判らず、学問のある者はみな漢籍を引き、また国学をやっているものは本居先生の説など引く。 じつをいうと書物ばかりで研究している者は本当には判っていないのである。 日本人の信仰のいちばん主な点は、私は生まれ更りということではないかと考えている。 魂というものは若くして死んだら、それっきり消えてしまうものではなく、何かよほどのことがない限りは生まれ更ってくるものと信じていたのではないか。 昔の日本人はこれを認めていたのである。 かえって仏教を少しかじった人たちや、シナの書物を読む階級が、はっきりしなくなったので、文字のない人たちは認めていたのである。
私は死後の生命、来世観を考えない宗教というものはないと思っている。 宗教という以上、現世だけでなく、後の世の生というものがなければならない。 それを、どう日本人は考えているかということ、現在の状態では明確に答えることのできないもは残念であるが、これはぜひ民俗学に志す人々にやってもらわなければならぬ大きな問題である。
仏教や他の宗教では説明がつかないものに、昔からよくいう「似ている」ということがある。 性質が似ているとか、顔が似ているとかいうことに、大変日本人は重きをおいてきた。 例えばこんな話がある。 私の祖母の弟で、松岡弁吉という、たしか六つぐらいで死んだ人があった。 大変幼い時から字を覚えたりして、利発な子供であったらしい。 あるいは眼がくりくりしていたのか、私の父が生まれた時、「ああ弁吉の生まれ更りだ」と誰からもよくいわれたというのである。 そのため父は一生その叔父さんの生まれ更りということをいつも考えて、二人前働いている気持ちでおったものらしい。」
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生まれ更り p312〜
「生きている間にいろいろな仕事をした人間というものは、もう一度生まれ直そうという感じはないようである。 しかし若くして死んだり、二十歳ぐらいで腹を切ったりした者は、どうしてもそのままでは満足できず、必ず生まれかわって来ると信じられていたらしい。
老人自らが大いに積極的に話をしなければ、この来世というものに対して日本人がどういう考えをもっていたかということが、じつは判らなくなってしまうのである。 しかし多くの人は生まれる話はいいが、死ぬ方の話はどうもということになって、この問題は今迄等閑にされてきた感じがある。
私どもがいちばん不愉快に思うのは、「地下の霊」などという考え方である。 年寄りにきいて見ればすぐ分かるが、日本では霊は地下に行くとは思っていないのに、本居先生などまで根の国というのがあるから、霊は地下へ行くのだといっておられる。 それには流石の平田篤胤も賛成することができなくて、根の国というのは月の中にあるんだなどといい出している。
しかしながら今では神道がじつに寂しい状態におかれている。 日本の信仰はどの点において仏教と対立するのか、それもだんだんとわかりにくくなっている。 年寄りにきいても判らず、学問のある者はみな漢籍を引き、また国学をやっているものは本居先生の説など引く。 じつをいうと書物ばかりで研究している者は本当には判っていないのである。 日本人の信仰のいちばん主な点は、私は生まれ更りということではないかと考えている。 魂というものは若くして死んだら、それっきり消えてしまうものではなく、何かよほどのことがない限りは生まれ更ってくるものと信じていたのではないか。 昔の日本人はこれを認めていたのである。 かえって仏教を少しかじった人たちや、シナの書物を読む階級が、はっきりしなくなったので、文字のない人たちは認めていたのである。
私は死後の生命、来世観を考えない宗教というものはないと思っている。 宗教という以上、現世だけでなく、後の世の生というものがなければならない。 それを、どう日本人は考えているかということ、現在の状態では明確に答えることのできないもは残念であるが、これはぜひ民俗学に志す人々にやってもらわなければならぬ大きな問題である。
仏教や他の宗教では説明がつかないものに、昔からよくいう「似ている」ということがある。 性質が似ているとか、顔が似ているとかいうことに、大変日本人は重きをおいてきた。 例えばこんな話がある。 私の祖母の弟で、松岡弁吉という、たしか六つぐらいで死んだ人があった。 大変幼い時から字を覚えたりして、利発な子供であったらしい。 あるいは眼がくりくりしていたのか、私の父が生まれた時、「ああ弁吉の生まれ更りだ」と誰からもよくいわれたというのである。 そのため父は一生その叔父さんの生まれ更りということをいつも考えて、二人前働いている気持ちでおったものらしい。」
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posted by Fukutake at 10:57| 日記
純粋な実存を求めて
「読書と思索」 田中美知太郎 第三文明社 レグルス文庫 初版1972年
考えることのよろこび p15〜
「考えることからの解放ではなくて、考えることそのことが解放され、自由になるところに、考えることのよろこびがあると言わなければならない。 それは考えないことの、いわゆる動物の幸福、あるいはひろく無為の幸福と呼ばれているものとは正反対に、むしろ活動することのよろこ美、はたらくことのよろこびと呼ばれてよいであろう。 わたしたちは世人のいう東洋的な考え方なるものを否定しなければならない。 無と無為と死と動物的存在と木石に化することとの讃美を越えなければならない。 わたしたちは有と活動と人間とを肯定すべきである。 わたしたちはまず生き、よく食べ、食後の散歩を楽しむように、生存の充実から、更に考えることの遊びを楽しむべきである。
ひとはこのようなぜいたくに顔をしかめるかも知れない。 しかしひとはいつもパンのために真剣な顔をしていなければならないと考えることは、まことに愚かなことであって、そのような愚昧が世の中を暗くし、人々を不幸にしているのである。 すべて善美なるものは単なる生存に比すればつねにぜいたくと見えるものなのである。
しかし人生のよろこびは、ただ善美なるものにのみある。 およそよろこびのない生存というものは、生くるに値しないのであって、人生の一大事は単に生きることにあるのではなくて、よく生きることにあるのである。 無論よく生きることもまた生きることであって、その限り生活の苦労を離れることはできない。 それは不可欠な要件であって、ひとはパンなしには生きられない。 その限りにおいてわたしたちの知性は生存の手段となり、考えごとは生活の苦労とともにある。 しかしその限りにおいては、考えることのよろこびはないのである。 考えごとは、そのような実務を離れて、一種の遊びとならなければならない。 学問の独立には、つねにこのような解放が先行し、悠々たる遊びが学問の一面となる。
しかしわたしたちは、純粋な学問的思考、あるいは考えることそのことが、単なる遊びであるというのでは、恐らく不満であり、不安心であると言わなければならないだろう。 もし生きるための思考以外には、何らの実質もなく、何らの現実性も実在も、これに対応しないというのが本当ならば、そういう実務から解放された、自由な知性の自由な思考は、全く空虚な遊びに過ぎないことになる。 純粋数学などについては、そのようなことが言われたりする。 しかし自由に考えるということは、でたらめに考えることではなく、根本の約束をきめて、その約束に従って、合法的に考えていくのが、知性の本来なのであるから、そこに考えられる秩序は、その根本の約束にさかのぼって、それに矛盾がないこと、それの存在可能、もしくは構成可能が証明されなければならないともされている。 ギリシアの昔においても、数学が純粋な学問として、商人の手を離れて独立した時には、遊びの一面が強く出たのであるが、ピュタゴラスの有名な発見によって、自然物のうちにも数学的秩序の実在することが知られると共に、数学の研究はまた同時に自然的実在の研究ともなることができたのである。 実用から解放された知性が純粋な自己自身となって、自由に考えていく時に、かえって実在の純粋なすがたが見つけられるというのが、古来の純粋な学問に共通する確信であったということができるであろう。」
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考えることのよろこび p15〜
「考えることからの解放ではなくて、考えることそのことが解放され、自由になるところに、考えることのよろこびがあると言わなければならない。 それは考えないことの、いわゆる動物の幸福、あるいはひろく無為の幸福と呼ばれているものとは正反対に、むしろ活動することのよろこ美、はたらくことのよろこびと呼ばれてよいであろう。 わたしたちは世人のいう東洋的な考え方なるものを否定しなければならない。 無と無為と死と動物的存在と木石に化することとの讃美を越えなければならない。 わたしたちは有と活動と人間とを肯定すべきである。 わたしたちはまず生き、よく食べ、食後の散歩を楽しむように、生存の充実から、更に考えることの遊びを楽しむべきである。
ひとはこのようなぜいたくに顔をしかめるかも知れない。 しかしひとはいつもパンのために真剣な顔をしていなければならないと考えることは、まことに愚かなことであって、そのような愚昧が世の中を暗くし、人々を不幸にしているのである。 すべて善美なるものは単なる生存に比すればつねにぜいたくと見えるものなのである。
しかし人生のよろこびは、ただ善美なるものにのみある。 およそよろこびのない生存というものは、生くるに値しないのであって、人生の一大事は単に生きることにあるのではなくて、よく生きることにあるのである。 無論よく生きることもまた生きることであって、その限り生活の苦労を離れることはできない。 それは不可欠な要件であって、ひとはパンなしには生きられない。 その限りにおいてわたしたちの知性は生存の手段となり、考えごとは生活の苦労とともにある。 しかしその限りにおいては、考えることのよろこびはないのである。 考えごとは、そのような実務を離れて、一種の遊びとならなければならない。 学問の独立には、つねにこのような解放が先行し、悠々たる遊びが学問の一面となる。
しかしわたしたちは、純粋な学問的思考、あるいは考えることそのことが、単なる遊びであるというのでは、恐らく不満であり、不安心であると言わなければならないだろう。 もし生きるための思考以外には、何らの実質もなく、何らの現実性も実在も、これに対応しないというのが本当ならば、そういう実務から解放された、自由な知性の自由な思考は、全く空虚な遊びに過ぎないことになる。 純粋数学などについては、そのようなことが言われたりする。 しかし自由に考えるということは、でたらめに考えることではなく、根本の約束をきめて、その約束に従って、合法的に考えていくのが、知性の本来なのであるから、そこに考えられる秩序は、その根本の約束にさかのぼって、それに矛盾がないこと、それの存在可能、もしくは構成可能が証明されなければならないともされている。 ギリシアの昔においても、数学が純粋な学問として、商人の手を離れて独立した時には、遊びの一面が強く出たのであるが、ピュタゴラスの有名な発見によって、自然物のうちにも数学的秩序の実在することが知られると共に、数学の研究はまた同時に自然的実在の研究ともなることができたのである。 実用から解放された知性が純粋な自己自身となって、自由に考えていく時に、かえって実在の純粋なすがたが見つけられるというのが、古来の純粋な学問に共通する確信であったということができるであろう。」
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posted by Fukutake at 10:54| 日記