2023年06月02日

想像と現実のスケールの違い

「ヒトの見方」 養老孟司 ちくま文庫 1991年

人体のイメージ p82〜

 「おそらくは臨床家になるだろうと考えられる学生に対する解剖学教育の目的ですが、私はそれを、人体についてのその学生なりのある形態的な像(イメージ)を創ってもらうことだ、と考えています。
 こうした像は、もちろん完成した定型ではなく、一生の間に必要に応じて変化し、また不必要なら消えていくものです。 私どもはそうした像をはじめから完成したものとして学生に与えることはできません。 当然のことですが、この像は、常に現実という詳細(デテール)を通じて与えられ、自然に育ってゆきます。

 頭の良い人は、教官、学生を問わず、右で述べたような像を、逆にできるだけ早く最終的な定型としてとらえ、固定しようとします。 しかし、現実という詳細を通じてでなければ、決して有効な像はできません。 現代人は、たいへん忙しいため、しばしばこの面からも解剖学を非難することがあるようです。

 人体の像を構成するという場合、現代の解剖学教育で大きな問題となるのは、化学的な世界像と形態学で与える世界像の落差だと思います。 私には、まだここに大きな断層があるように見えます。
 現代医学が、基礎的にも臨床的にも、化学に大いに依存していることは明瞭です。 しかし化学の与える世界像と形態学の与えるそれは、十分な一致を見ておりません。 たとえば水の分子を一ミリの大きさで描いたとします。 その時に細胞の大きさはどの位になるでしょうか。

 概算ですが、その場合、細胞の大きさは約五キロになります。 これはいわば都会の大きさであり、その際人体の大きさは、ほぼ十万キロの単位になります。 化学的な世界を視覚化することはこうした意味ではたいへん難しいことだという事実は、ふつう避けて通られているように思います。 真理は一つ、したがって科学は一つ、と思われているからです。

 形態学では、目に見えるものを扱います。 たとえ論理に則(のっと)らなくても、形態の世界では先に存在がありますから、それを何とか頭に入れなければなりません。 これが原始的である所以であります。 人体の構造を何とか頭に入れるために、先人が苦労して創ってきたソフトウェアが実は解剖学用語であり、系統解剖学です。 そうしたソフトが現在でも十分に有効かどうかについては、たしかに問題がありましょうが、その点を論じている余裕はありません。

 それは解剖学の与えたのは、素朴ではありますが、現実を精緻に観察して考え整理するという、解剖学が示した方法が臨床医学にもたいへん有効だったからではないでしょうか。 その意味で、解剖学は現代医学の歴史でいわば認識論の役割を演じてきたのだと思います。 解剖学教育の有用性は、、結局その辺りにあろうか、と常々考えている次第です。」

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posted by Fukutake at 07:37| 日記

2023年06月01日

気兼ね… しない

「世は〆切(しめきり)」 山本夏彦 文藝春秋 平成八年

森 銑三 p181〜

 「森銑三翁がなくなったと聞いてとるものもとりあえず「縁ある人」という小文を「文藝春秋」巻頭随筆に書いたが、私の気持ちはなかなかあれでは尽きない。
 森銑三さんといっても知らない人が多いだろうから手短にいうと、書誌学者であり江戸文芸史の研究家であり、また在野の歴史家であり伝記作家である。 愛知県刈谷のひと明治二十八年九月十一日生まれ。昭和六十年三月七日没、八十九歳だった。 昭和四十六年「森銑三著作集」全十六巻別巻一冊が中央公論社から出て、これはあくる四十七年ようやく「読売文学賞」が贈られたがすでに七十六歳である。 その業績にくらべると酬われること少ないひとだった。

 私は森さんのことはすでに「西鶴一家言」(『ダメの人』中公文庫所収)に書いた。 森さんの手紙は全部候文だった。 また森さんの著作集の月報に求められて「ペンフレンド」という小文も書いた、 二十なん年毎月判でおしたように候文の便りをもらいながら、ついに一度もお目にかかったことがないから、翁と私はペンフレンドのような仲だといったのである。

 在野の書誌学者、歴史家と私はもともと縁あるものではない。 それがなぜかくも長きペンフレンドになったかというと和木清三郎編集の「新文明」という雑誌がきっかけだった。 
 和木清三郎という名は戦前は知られていた。 「三田文学」の名編集長で石坂洋次郎そのほかを育てたひとだそうで、ただし戦後は振るわず小泉信三の応援で「新文明」という雑誌を出していた。 この雑誌はほぼ三十年続いた。

 新文明には巻頭に小泉信三が書いていたから私もその存在は知っていたが、それに森さんが私の「日常茶飯事」について三ページも書いてくれたのである。 昭和三十八年八月号である。 日常茶飯事はその前年の三十七年九月発行だから新刊ではない。
 森さんはふと学校の図書館の書庫でこの本を見つけたという。 そこに斎藤緑雨の名が出ていたのでそれが目を射た。 私(森翁)は緑雨が好きだから緑雨の好きな人もまた好きである。 私は現代人でなお緑雨の読者である人をあげることが出来る。 それは五、六人にすぎないが、この本のなかで緑雨の名を見つけてあるいは著者もまた読者の一人かと読んだら、緑雨のことは別にしてはからずも異色ある文章家を知ることができたのを喜んだ。

 この本の著者は新聞が大嫌いで、自分は気がねして言っていると称しながら、言いたいことを言ってそれが愉快である。」

(『室内』一九八五年五、六月号)

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posted by Fukutake at 05:08| 日記

日本へ

「柳田國男全集 21」ー故郷七十年ー 筑摩書房 1997年

日本の舟  p292〜

 「日本にどこからか米を食う人間が渡って来たのは事実で、またその人たちが米作りの先祖であるということも疑わない。 しかし周囲が海の日本のことだから、どうしても舟というものを考えてみなければならない。 舟が最初どうして作られ、どんな利用、もしくは利用制限があったかということを、一度は調べてみる必要がある。
 例えば、北海のヴァイキングみたいな民族は、随分遠くまで航海したが、あれは要するに岸に沿って歩いただけで、海を横切ることはほとんどなかった。いよいよ大洋を乗切るのに、磁石で決めて行ったなどというのは、まだ大分後のことである。 それで私は、舟というものがどこで作られたか、どうして作られたか、どうして舟が発達したかということをしらべると、人間の文化がいかに形作られてきたか、よくわかるのではないかと考えている。 そしてこれは日本人がやらねばならぬ問題の一つだと思っている。

 昔、日本人が黒潮にのって南方から九州とか、その南の島などに来たとする。 どうして来たか、漂流も無論あったが、漂流では女房子供がいっしょに漂流することは考えられないから、一度はもとの故国に帰ってもう一度出直して来るということを考えてみなければならない。 ところが、宮古とか八重山とかの、沖縄の島々で南に向いている方面だけに、渡来者の帰って行く話がたくさんある。 これはどこから来たかということを考える時の、一つの手がかりになるのではないかと思う。

 刃物のない時代にどうして舟を作ったのか。 刃物のない土人も舟を作っているが、それは刳(くり)舟で、焼切りにして作ったものであったらしい。 それに少しずつ板で縁をつけて幅をひろくしたり、二艘舟といって二つ合わせて重いものを運ぶようにしたものであろう。 そして舟を作るには、樹木の豊かな所が造船所になったわけであろう。 しかし、いずれの舟もほんのわずかの航海しかできない脆弱なものだったに相違ない。

 だから古代に人馬の大部隊が朝鮮から日本へ渡来したなどということは、事実と合わない議論である。 熱心とか、真理を愛好する心持とか、これを人間の幸福に役立てようとかする態度に対しては、私といえども一言もないが、事実は事実として究明しなければならないのである。 ただ外国の書物を拝借して、「過去においては」とか、「前代日本では」とか、概念論で簡単に片づけてしまおうとする人たちがあるが、そんなことなら、われわれはこんな苦しみはしないのである。 前代というならば、せめて「六国史」が京都の周囲に払ったのに劣らない注意力を、全国に払ってからにしてもらいたい。 同じ江戸期の三百年だって、初めと後とでは地方人の気持ち一つでも違っているし、その地方地方がまたそれぞれの特徴をもっていたのである。

 さて小さな丸木舟で、どうしてきたか。 浦づたいに棹で来ることもあったろうし、潮流を利用して島に近くとか、風を利用したということも考えられる。 もっとも、それには帆布ということも考えなければならない。 こう考えて来ると、どうしても入江の多い地形、すなわち太平洋岸より、日本海側の方が利用しやすく、こして南から北へと行ったのではないかと想像できる。」




posted by Fukutake at 05:03| 日記