「宇宙の言の葉を尋ねて」ー中秋の名月ー 渡部潤一(自然科学研究機構国立天文台教授) 學士會会報 Sept. No.962 2023-X より抜粋転載
月を愛でてきた日本人 p82〜
「日本人にはお月見はとても性に合っていたようで、中秋の名月以外でも盛んに月を愛でてきた。 最も有名なのは中秋の名月から約一ヶ月後の満月の少し前、旧暦九月十三日に行っていた「十三夜」のお月見であろう。 こちらも古くから行われており、本居宣長などの江戸時代の国学者らも好んで十三夜の月見をしていた。 最盛期には十五夜で招いたお客人を、翌月の十三夜にも招く習わしになっていて、十五夜だけの観月を「片見月」と言って忌み嫌っていたらしい。 少なくとも筆者の知る限り、この十三夜のお月見は日本以外で行われている例はない。
ただ、この十三夜の起源は実は諸説あって、あまりよくわかっていない。 朱雀天皇が崩御し、その忌中が十五夜を含んでおり、お月見ができなかったため、十三夜にお月見をしたことから始まったという説や、十三夜の月に対応する神様が虚空菩薩であったため真言密教や修験道の方面から広まったという説もある。 もともと十五夜のお月見は収穫祭的な要素が強く、お団子に使うための新米が間に合わない場合もあるのだが、十三夜の時期、つまり一ヶ月遅くなるとかなりの地域で稲刈りが間に合うため、米の収穫祭としてのお月見という目的は達成できただろう。 お供えする収穫物の差もあることから、十三夜の方を栗名月あるいは後の月、中秋の名月の方を芋名月と呼ぶ。 最近、スーパーで十三夜のお月見のためのお団子を売っているのを見かけて嬉しくなったことがある。
ところで、なぜ十三夜のお月見は旧暦九月十三日で、九月十五日の十五夜にしなかったのか、という疑問も浮かぶ。 徒然草には「八月十五日、九月十三日は、婁宿*(ろうしゅく)なり。 この宿、晴朗なる故に、月を翫(もてあそ)ぶに良夜とす。」(二三九段)とある。 これからすれば、どちらの夜も月が同じ星座(宿)にくるのが主な理由だろう。 ひと月遅れれば、それだけ気温も低くなるし、十五夜の月の出まで待っていられなかったという理由もあるかもしれない。
日本独自のお月見はこれだけではない。 それは月の別名からも推察される。 十五夜への期待をふくらませる、前後の月を「小望月」、悪天候で十五夜そのものが見えないときでさえ、「雨月」とか「無月」と呼ぶ。 見えなくても名前を付けるところはユニークだ。 また、十五夜の翌日の十六夜は「いざよい」と呼ぶ。 いざよう、というのは古語でためらうという意味である。 月齢が進めば進むほど月の出は遅くなるので、十六夜は月は十五夜に比べて、小一時間ほど遅く上ってくる。 月の出を待っている貴族たちには、まるでためらいながら上ってくるように思えたに違いない。 さらに十七夜の月を立待月、十八夜は居待月、十九夜は寝待月、あるいは臥待月とも言う。 またちなみに二十夜を更待月と呼ぶ。 夜が更けるのを待って上がる月という意味である。 これだけ月齢ごとに月に別名を持っているのは日本独自の文化といってよい。」
婁宿* 中国の二十八星座(宿)のうちのひとつ。 西洋星座では、おひつじ座のあたり。
----
狐
「遠野物語」 柳田国男 新潮文庫 初版 昭和四十八年
遠野物語拾遺より狐のこと p156〜
「(二〇三) 遠野の元町の和田という家に、勇吉という下男が上郷村から来て居た。 或日生家に還ろうとして、町はずれの鶯崎にさしかかると、土橋の上に一疋の狐が居て、夢中になって川を覗き込んで居る。 忍び足をして静かに其傍へ近づき、不意にわっと言って驚かしたら、狐は高く跳ね上がり、川の中に飛びこんで遁げて行った。 勇吉は独笑(ひとりわら)いをしながらあるいて居ると、俄かに日が暮れて路が真暗になる。 是は不思議だ、まだ日の暮れるには早過ぎる。 是は気を附けなくては飛んだ目に遭うものだと思って、路傍の草の上に腰をおろして休んで居た。 そうすると其処へ人が通りかかって、お前は何をして居る。 狐に誑かされて居るのでは無いか。 さあ俺とあべと言う。 ほんとにと思って其人に附いてあるいて居ると、何だか体中が妙につめたい。 と思って見るといつの間にか、自分は川の中に入ってびしょ濡れに濡れて居りおまけに懐には馬の糞が入れてあって、同行の人はもう居なかったという。
(二〇五) 遠野町上通しの菊池伊勢蔵という大工が土淵村の似田貝へ土蔵を建てに来て居て、棟上げの祝の日町へ帰って行く途中、八幡山を通る時に、酔って居たものだから斯んなことを言った。 昔から爰(ここ)には、りこうな狐が居るということだが、本当に居るなら鳴いて聴かせろざい。 若し居るなら此魚を遣るにと言って、祝いの肴を振りまわした。 すると直ぐ路傍の林の中でじゃぐえん、じゃぐえんと狐が三声鳴いた。 伊勢蔵はああ居た居た。 だが此魚は遣らぬから、お前たちの腕で俺から取って見ろと言い棄てて通り過ぎた。 其折同行して居た政吉爺などは、そんな事をいうものじゃ無いと制したけれども、何、狐如きに騙されて遣ってたまるものか。 是でも持って帰れば家内中で一かたき食べられるなどと、大言して止まなかった。 それが今の八幡宮の鳥居近くまで来た時、ちょっと小用を足すから手を放してくれというので、朋輩たちももう里になったらよかろうと思って、今まで控えて居た手を放すと、よろよろと路傍の畠に入って行ったまま、いつ迄経っても出て来ない。 何だか少しおかしいぞと其跡から行って見ると、祝いに着て来た袴羽織りのままで、溜池の中に突落されて半死半生になって居たという。 是は同行者の政吉爺の直話である。
(二〇七) 橋野村の某という者が、二人づれで初神(はじかみ)の山に入って、炭焼をして居たことがある。 其一人は村に女を持って居て、炭𥧄(すみがま)でも始終其話をして自慢して居た。 ところが或晩其女が、縞の四幅の風呂敷に豆腐を包んで、訪ねて来て炭焼小屋に泊まった。 二人の男に真中に女は寝た。 夜中に馴染の男が眠ってしまってから、傍の男はそっと女の身に手を触れて見ると、びっくりする程の毛もそであった。 暫く様子をさげしんで(心を留めて)居たが、思い切って起き出し、鉈を持って来て其女を斬り殺した。 女は殺されながら某あんこ、何しやんすと言って息絶えた。 何の意趣あっておれの女を殺したと、勿論非常に一方の若者は憤って、直ぐにも山を下って訴えて出るように言ったが、いや先ず明日の昼まで待って見よ。 此女は決して人間で無いからと言ったものの、いつ迄経っても女の姿で居る故に、漸く不安になって気を揉んで居るうちに、夜があけて朝日の光がさして来た。 それでもまだ人間の女で居るので、愈々是から訴えに行くというのを、もう少し少しと言って引留めて居たが、果たして段々と死んだ者の面相が変わって来て、しまいに古狐の姿を現わしたそうである。」
----
遠野物語拾遺より狐のこと p156〜
「(二〇三) 遠野の元町の和田という家に、勇吉という下男が上郷村から来て居た。 或日生家に還ろうとして、町はずれの鶯崎にさしかかると、土橋の上に一疋の狐が居て、夢中になって川を覗き込んで居る。 忍び足をして静かに其傍へ近づき、不意にわっと言って驚かしたら、狐は高く跳ね上がり、川の中に飛びこんで遁げて行った。 勇吉は独笑(ひとりわら)いをしながらあるいて居ると、俄かに日が暮れて路が真暗になる。 是は不思議だ、まだ日の暮れるには早過ぎる。 是は気を附けなくては飛んだ目に遭うものだと思って、路傍の草の上に腰をおろして休んで居た。 そうすると其処へ人が通りかかって、お前は何をして居る。 狐に誑かされて居るのでは無いか。 さあ俺とあべと言う。 ほんとにと思って其人に附いてあるいて居ると、何だか体中が妙につめたい。 と思って見るといつの間にか、自分は川の中に入ってびしょ濡れに濡れて居りおまけに懐には馬の糞が入れてあって、同行の人はもう居なかったという。
(二〇五) 遠野町上通しの菊池伊勢蔵という大工が土淵村の似田貝へ土蔵を建てに来て居て、棟上げの祝の日町へ帰って行く途中、八幡山を通る時に、酔って居たものだから斯んなことを言った。 昔から爰(ここ)には、りこうな狐が居るということだが、本当に居るなら鳴いて聴かせろざい。 若し居るなら此魚を遣るにと言って、祝いの肴を振りまわした。 すると直ぐ路傍の林の中でじゃぐえん、じゃぐえんと狐が三声鳴いた。 伊勢蔵はああ居た居た。 だが此魚は遣らぬから、お前たちの腕で俺から取って見ろと言い棄てて通り過ぎた。 其折同行して居た政吉爺などは、そんな事をいうものじゃ無いと制したけれども、何、狐如きに騙されて遣ってたまるものか。 是でも持って帰れば家内中で一かたき食べられるなどと、大言して止まなかった。 それが今の八幡宮の鳥居近くまで来た時、ちょっと小用を足すから手を放してくれというので、朋輩たちももう里になったらよかろうと思って、今まで控えて居た手を放すと、よろよろと路傍の畠に入って行ったまま、いつ迄経っても出て来ない。 何だか少しおかしいぞと其跡から行って見ると、祝いに着て来た袴羽織りのままで、溜池の中に突落されて半死半生になって居たという。 是は同行者の政吉爺の直話である。
(二〇七) 橋野村の某という者が、二人づれで初神(はじかみ)の山に入って、炭焼をして居たことがある。 其一人は村に女を持って居て、炭𥧄(すみがま)でも始終其話をして自慢して居た。 ところが或晩其女が、縞の四幅の風呂敷に豆腐を包んで、訪ねて来て炭焼小屋に泊まった。 二人の男に真中に女は寝た。 夜中に馴染の男が眠ってしまってから、傍の男はそっと女の身に手を触れて見ると、びっくりする程の毛もそであった。 暫く様子をさげしんで(心を留めて)居たが、思い切って起き出し、鉈を持って来て其女を斬り殺した。 女は殺されながら某あんこ、何しやんすと言って息絶えた。 何の意趣あっておれの女を殺したと、勿論非常に一方の若者は憤って、直ぐにも山を下って訴えて出るように言ったが、いや先ず明日の昼まで待って見よ。 此女は決して人間で無いからと言ったものの、いつ迄経っても女の姿で居る故に、漸く不安になって気を揉んで居るうちに、夜があけて朝日の光がさして来た。 それでもまだ人間の女で居るので、愈々是から訴えに行くというのを、もう少し少しと言って引留めて居たが、果たして段々と死んだ者の面相が変わって来て、しまいに古狐の姿を現わしたそうである。」
----
posted by Fukutake at 04:42| 日記
2023年09月28日
無実の証明
「ソフィスト」 田中美知太郎 講談社学術文庫 初版昭和51年
問答競技 p137〜
「パラメデスというのは、トロイア戦争の時に、トロイア方に内通したという裏切りの罪を問われて死刑になる人物なのであるが、それは無実の罪で、オデュッセウスが佯狂*(ようきょう)をよそおっていたのを、パラメデスが看破して、参加を余儀なくさせたためであると言われている。 ゴルギアスの作は、裏切りの罪を問われたパラメデスのために弁ずるものであって、くわしくは『パラメデスのための弁明』と呼ばれ、『ヘレネ論』と同じ架空の論説である。 相当の長篇であるが、大体の論旨は次のようなものである。
まず序論があって、死はすでに自然によってすべての人間に対して宣告されているのであるから、その点に関しては問題はない。 問題は死が正当であるか、あるいは恥辱であるかという点にあり、売国奴として殺されるようなことはまことに心外であるから、思いもよらぬ非難はしばしば言葉を失わせるものではなるが、ただ真実を頼み、さし迫っての必要によって、オデュッセウスの申し立てがまったくの事実無根であることを証明するとして、裏切り内通が事実不可能であるということ、およびたとい可能であったとしても、かくのごときことを企てる動機が存在しないということを詳細にわたって論証する。 そしてこのことを論証した後で、原告オデュッセウスに向かい、いったいそもそも何を根拠にこのような告訴をしたのであるかと問い、それは事実を知っていてか、あるいは主観的な判断によってでなければならぬと断ずる。 しかし事実を知るということは、いかにして可能であろうか。 それは事実を目撃したか、その仲間に加わったか、あるいはだれか仲間に加わった者から聞いたかでなければならぬ。 しかしもし目撃したというのなら、いつ、どこで、いかにしてということをここで明らかにすべきである。 また仲間に加わったというなら、まさに同罪である。 まただれか仲間に加わった者から聞いたのなら、その者こそ有力な証人であるから、ここへ出さねばならぬ。 しかしだれも証人となって出るものはないではないか。
証拠というものは事実無根だという主張よりも、事実であったという主張に必要なのである。 けだし事実はなかったことの証拠というものは不可能であるが、事実のあったということなら、その証拠を見出すことは可能、否、容易であり、さらに必然であるからである。 すなわちオデュッセウスは何も事実を知らずに、この訴えをしていることは明らかである。 事実を知らないで、主観的な判断だけでひとを死罪に陥れようとするのは、あまりにも無法である。 このような判断は何についても誰にもあるもので、特にオデュッセウスの思いなしのみが真であるということはない。 ひとはかかる思いなしの言を信じて、真実を忘れてはならない。
パラメデスはオデュッセウスに向かってかくのごとく言った後に、再び裁判官たちに向かい、わたしはギリシア人中第一流の人である諸君を説得するのに、哀願や愁訴をもってしようとは思わぬ、 わたしはただ最も正しい手段、真実を伝えることによってわたし自身を釈明するのである。 そしてそれはすでに以上述べたところで明らかであるから、判断もまた容易なはずである、と結んだ。」
佯狂* いつわって狂気をよそおうこと。
----
問答競技 p137〜
「パラメデスというのは、トロイア戦争の時に、トロイア方に内通したという裏切りの罪を問われて死刑になる人物なのであるが、それは無実の罪で、オデュッセウスが佯狂*(ようきょう)をよそおっていたのを、パラメデスが看破して、参加を余儀なくさせたためであると言われている。 ゴルギアスの作は、裏切りの罪を問われたパラメデスのために弁ずるものであって、くわしくは『パラメデスのための弁明』と呼ばれ、『ヘレネ論』と同じ架空の論説である。 相当の長篇であるが、大体の論旨は次のようなものである。
まず序論があって、死はすでに自然によってすべての人間に対して宣告されているのであるから、その点に関しては問題はない。 問題は死が正当であるか、あるいは恥辱であるかという点にあり、売国奴として殺されるようなことはまことに心外であるから、思いもよらぬ非難はしばしば言葉を失わせるものではなるが、ただ真実を頼み、さし迫っての必要によって、オデュッセウスの申し立てがまったくの事実無根であることを証明するとして、裏切り内通が事実不可能であるということ、およびたとい可能であったとしても、かくのごときことを企てる動機が存在しないということを詳細にわたって論証する。 そしてこのことを論証した後で、原告オデュッセウスに向かい、いったいそもそも何を根拠にこのような告訴をしたのであるかと問い、それは事実を知っていてか、あるいは主観的な判断によってでなければならぬと断ずる。 しかし事実を知るということは、いかにして可能であろうか。 それは事実を目撃したか、その仲間に加わったか、あるいはだれか仲間に加わった者から聞いたかでなければならぬ。 しかしもし目撃したというのなら、いつ、どこで、いかにしてということをここで明らかにすべきである。 また仲間に加わったというなら、まさに同罪である。 まただれか仲間に加わった者から聞いたのなら、その者こそ有力な証人であるから、ここへ出さねばならぬ。 しかしだれも証人となって出るものはないではないか。
証拠というものは事実無根だという主張よりも、事実であったという主張に必要なのである。 けだし事実はなかったことの証拠というものは不可能であるが、事実のあったということなら、その証拠を見出すことは可能、否、容易であり、さらに必然であるからである。 すなわちオデュッセウスは何も事実を知らずに、この訴えをしていることは明らかである。 事実を知らないで、主観的な判断だけでひとを死罪に陥れようとするのは、あまりにも無法である。 このような判断は何についても誰にもあるもので、特にオデュッセウスの思いなしのみが真であるということはない。 ひとはかかる思いなしの言を信じて、真実を忘れてはならない。
パラメデスはオデュッセウスに向かってかくのごとく言った後に、再び裁判官たちに向かい、わたしはギリシア人中第一流の人である諸君を説得するのに、哀願や愁訴をもってしようとは思わぬ、 わたしはただ最も正しい手段、真実を伝えることによってわたし自身を釈明するのである。 そしてそれはすでに以上述べたところで明らかであるから、判断もまた容易なはずである、と結んだ。」
佯狂* いつわって狂気をよそおうこと。
----
posted by Fukutake at 07:08| 日記