「新編 日本の面影」 ラフカディオ・ハーン 池田雅之=訳 角川ソフィア文庫 平成十二年
盆踊り p67〜
「突然、太くて低い、ゴーンという轟が境内に響き渡った。 どこかの寺の鐘が、朗々と夜の十二時を告げたのだ。 すると、その音で、はっと夢から目覚めたかのように、魔法が解けたのである。 歌声が止み、踊りの輪が崩れ、うれしそうな笑い声や、お喋りの声が聞こえてくるようになった。 花の名前と同じ少女たちの名前を、やさしく母音のひびきを響かせながら呼ぶ声や、「さようなら」という別の挨拶が、飛び交っている。 踊り子たちも、見物人も、下駄をコロコロと大きく打ち鳴らしながら家路につく。
私も、大勢の人の波にもまれながら、突然、眠りから揺り起こされたような戸惑いを感じて、どこか浮かない気分でいた。 銀の音のような笑い声を発している村の娘たちが、けたたましく下駄の音を立てながら、私のそばまで駆け寄ってきては、外国人の私の顔をのぞきこむ。 ほんの少し前まで、古いみやびの光景が、妖しく、心楽しい幽霊の幻影が、そこに存在したというのにー。 それが今では、こういう風にただの田舎娘に変わってしまったのだ。 私はそれに対し、言うに言われぬ憤りを覚えたのだった。
あの素朴な村娘たちの合唱によって私の胸に湧き起こった、あの感動は、いったい何だったのだろうー 床につきながら、私はそんなことを考え始めていた。 あの絶妙な間合いと、断続的に歌われた盆踊りの歌の調べを思い出すことは難しい。 それは、鳥の流れるようなさえずりを、記憶の中に留めておけないのと同じである。 しかし、その何ともいえない魅力は、いつまでも私の心から消え去らないのである。
西洋のメロディなら、それが、私たちの胸に呼び起こす感情を言葉にすることもできるであろう。 それは、自分たちの過去を遡る、すべての世代から受け継がれてきた母国語のように、われわれになじみのある感情であるからだ。 ところが、西洋の歌とはまったく異なる、原始的な歌が呼び起こす感情は、いったいどう説明すればいいのであろう。 あの音色は、われわれの音楽言語である音譜に移しかえることさえできないのではないだろうか。
そもそも、人間の感情とはいったい何であろうか。 それは私にもわからないが、それが、私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。 感情とは、どこかの場所や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽の下で、生きとし生けるものの万物の喜びや悲しみに共振するものではないだろうか。 それにしても、あの歌は、誰に教わるでもなく、自然界のもっと古い歌と無理なく調和している。 あの歌は、寂しい野辺の歌や、あの「大地の美しい叫び」を生み出す夏虫の合唱と、知らず知らずのうちに血が通いあっているのである。 そこに、あの歌の秘密があるのではないだろうか。 私はそんな風に思っている。」
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2023年06月06日
太古から響く太鼓と虫の音
posted by Fukutake at 09:27| 日記
2023年06月05日
変わらない日本人
「日本はなぜ外交で負けるのか」ー日米中露韓の国境と海境 山本七平 さくら社 2014年
憲法の教義化 p96〜
「今次の敗戦も決して「内的規範と外的規範の峻別」という考え方を生まなかった。 併行主義(パラレリズム)が逆方向に作用したにすぎないのである。 それが民主制(デモクラシー)を民主主義と受け取り、「国民全部が民主主義者にならねばならぬ」となり、新憲法はいつしか「教義」となって、まるでこれが各自の内的規範であらねばならぬような行き方になった。 「新憲法の精神」という言葉がよくこれを表している
天皇が「内外併行の絶対的規範」の授与者として現人神になったように、憲法そのものが、佐藤誠三郎氏(注:政治学者。中曽根内閣のブレーン)の指摘されるように「物神化」した。 それは「世俗法」の基本を定めたものの枠を越えており、そこで「創価学会の教義は憲法に違反する」などという、民主制の下では考えられぬ批評さえ生んだ。
これは憲法を教義としない限りあり得ない言葉だが、教義には常に「解釈権」という問題がある。 この解釈権を誰が持つかは、その宗団の基本にかかわる問題である。 では、「物神化した新憲法の精神」という教義(ドグマ)の解釈権は誰が持ってきたのか、 少なくとも現在までは、それをまるで新聞が持っているかのような状態であった。 否、少なくとも新聞人はそう信じて疑わず、国民の内的規範は新聞の「新憲法教義解釈」通りであらねばならず、それに違反したと見た者を「思想犯」として糾弾した。
このことは渡部昇一氏の「”検閲機関”としての朝日新聞」(「文藝春秋」一九八一年七月号)に如実に表れている。 比喩的に言えば一種の「新聞本仏論」であり、「新聞=正法」で「渡部=邪教」であろう。 だがこの状態への「大衆の叛逆」もまた起こっている。
それをある程度率直に口にしているの今津弘朝日新聞論説副主幹であろう(「「朝日ジャーナル」一九八一年六月五日号の座談会記事)。 次に引用させていただこう。
「国民感情についていえばいまのところ、反応は大衆運動という形ではなく、われわれもまたこの問題について、一体一般の人はどう考えているのだろうかという疑問に常につきまとわれている。 確かに、世論調査を見れば、やはり核は持つべきでないという答えが圧倒的に多い、 しかし…」
確かに「しかし」なのであり、 その「しかし」は、結局「『承認』と『黙認』の違いにすぎない」という前述の分析が示す状態であろう。
しかし一方、朝日の社説には「核の寄港を認めれば、次はこうなる、次はこうなる、次はこうなる」という、「なるなる論」の主張が出てくる。これは戦前の軍人と変わりはない。 戦前の軍人は「なるなる論者」であり、したがって「一歩も退くな、退くとずるずるだめになる。絶対に妥協するな」であった。」
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憲法の教義化 p96〜
「今次の敗戦も決して「内的規範と外的規範の峻別」という考え方を生まなかった。 併行主義(パラレリズム)が逆方向に作用したにすぎないのである。 それが民主制(デモクラシー)を民主主義と受け取り、「国民全部が民主主義者にならねばならぬ」となり、新憲法はいつしか「教義」となって、まるでこれが各自の内的規範であらねばならぬような行き方になった。 「新憲法の精神」という言葉がよくこれを表している
天皇が「内外併行の絶対的規範」の授与者として現人神になったように、憲法そのものが、佐藤誠三郎氏(注:政治学者。中曽根内閣のブレーン)の指摘されるように「物神化」した。 それは「世俗法」の基本を定めたものの枠を越えており、そこで「創価学会の教義は憲法に違反する」などという、民主制の下では考えられぬ批評さえ生んだ。
これは憲法を教義としない限りあり得ない言葉だが、教義には常に「解釈権」という問題がある。 この解釈権を誰が持つかは、その宗団の基本にかかわる問題である。 では、「物神化した新憲法の精神」という教義(ドグマ)の解釈権は誰が持ってきたのか、 少なくとも現在までは、それをまるで新聞が持っているかのような状態であった。 否、少なくとも新聞人はそう信じて疑わず、国民の内的規範は新聞の「新憲法教義解釈」通りであらねばならず、それに違反したと見た者を「思想犯」として糾弾した。
このことは渡部昇一氏の「”検閲機関”としての朝日新聞」(「文藝春秋」一九八一年七月号)に如実に表れている。 比喩的に言えば一種の「新聞本仏論」であり、「新聞=正法」で「渡部=邪教」であろう。 だがこの状態への「大衆の叛逆」もまた起こっている。
それをある程度率直に口にしているの今津弘朝日新聞論説副主幹であろう(「「朝日ジャーナル」一九八一年六月五日号の座談会記事)。 次に引用させていただこう。
「国民感情についていえばいまのところ、反応は大衆運動という形ではなく、われわれもまたこの問題について、一体一般の人はどう考えているのだろうかという疑問に常につきまとわれている。 確かに、世論調査を見れば、やはり核は持つべきでないという答えが圧倒的に多い、 しかし…」
確かに「しかし」なのであり、 その「しかし」は、結局「『承認』と『黙認』の違いにすぎない」という前述の分析が示す状態であろう。
しかし一方、朝日の社説には「核の寄港を認めれば、次はこうなる、次はこうなる、次はこうなる」という、「なるなる論」の主張が出てくる。これは戦前の軍人と変わりはない。 戦前の軍人は「なるなる論者」であり、したがって「一歩も退くな、退くとずるずるだめになる。絶対に妥協するな」であった。」
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posted by Fukutake at 07:33| 日記
変わらない日本人
「日本はなぜ外交で負けるのか」ー日米中露韓の国境と海境 山本七平 さくら社 2014年
憲法の教義化 p96〜
「今次の敗戦も決して「内的規範と外的規範の峻別」という考え方を生まなかった。 併行主義(パラレリズム)が逆方向に作用したにすぎないのである。 それが民主制(デモクラシー)を民主主義と受け取り、「国民全部が民主主義者にならねばならぬ」となり、新憲法はいつしか「教義」となって、まるでこれが各自の内的規範であらねばならぬような行き方になった。 「新憲法の精神」という言葉がよくこれを表している
天皇が「内外併行の絶対的規範」の授与者として現人神になったように、憲法そのものが、佐藤誠三郎氏(注:政治学者。中曽根内閣のブレーン)の指摘されるように「物神化」した。 それは「世俗法」の基本を定めたものの枠を越えており、そこで「創価学会の教義は憲法に違反する」などという、民主制の下では考えられぬ批評さえ生んだ。
これは憲法を教義としない限りあり得ない言葉だが、教義には常に「解釈権」という問題がある。 この解釈権を誰が持つかは、その宗団の基本にかかわる問題である。 では、「物神化した新憲法の精神」という教義(ドグマ)の解釈権は誰が持ってきたのか、 少なくとも現在までは、それをまるで新聞が持っているかのような状態であった。 否、少なくとも新聞人はそう信じて疑わず、国民の内的規範は新聞の「新憲法教義解釈」通りであらねばならず、それに違反したと見た者を「思想犯」として糾弾した。
このことは渡部昇一氏の「”検閲機関”としての朝日新聞」(「文藝春秋」一九八一年七月号)に如実に表れている。 比喩的に言えば一種の「新聞本仏論」であり、「新聞=正法」で「渡部=邪教」であろう。 だがこの状態への「大衆の叛逆」もまた起こっている。
それをある程度率直に口にしているの今津弘朝日新聞論説副主幹であろう(「「朝日ジャーナル」一九八一年六月五日号の座談会記事)。 次に引用させていただこう。
「国民感情についていえばいまのところ、反応は大衆運動という形ではなく、われわれもまたこの問題について、一体一般の人はどう考えているのだろうかという疑問に常につきまとわれている。 確かに、世論調査を見れば、やはり核は持つべきでないという答えが圧倒的に多い、 しかし…」
確かに「しかし」なのであり、 その「しかし」は、結局「『承認』と『黙認』の違いにすぎない」という前述の分析が示す状態であろう。
しかし一方、朝日の社説には「核の寄港を認めれば、次はこうなる、次はこうなる、次はこうなる」という、「なるなる論」の主張が出てくる。これは戦前の軍人と変わりはない。 戦前の軍人は「なるなる論者」であり、したがって「一歩も退くな、退くとずるずるだめになる。絶対に妥協するな」であった。」
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憲法の教義化 p96〜
「今次の敗戦も決して「内的規範と外的規範の峻別」という考え方を生まなかった。 併行主義(パラレリズム)が逆方向に作用したにすぎないのである。 それが民主制(デモクラシー)を民主主義と受け取り、「国民全部が民主主義者にならねばならぬ」となり、新憲法はいつしか「教義」となって、まるでこれが各自の内的規範であらねばならぬような行き方になった。 「新憲法の精神」という言葉がよくこれを表している
天皇が「内外併行の絶対的規範」の授与者として現人神になったように、憲法そのものが、佐藤誠三郎氏(注:政治学者。中曽根内閣のブレーン)の指摘されるように「物神化」した。 それは「世俗法」の基本を定めたものの枠を越えており、そこで「創価学会の教義は憲法に違反する」などという、民主制の下では考えられぬ批評さえ生んだ。
これは憲法を教義としない限りあり得ない言葉だが、教義には常に「解釈権」という問題がある。 この解釈権を誰が持つかは、その宗団の基本にかかわる問題である。 では、「物神化した新憲法の精神」という教義(ドグマ)の解釈権は誰が持ってきたのか、 少なくとも現在までは、それをまるで新聞が持っているかのような状態であった。 否、少なくとも新聞人はそう信じて疑わず、国民の内的規範は新聞の「新憲法教義解釈」通りであらねばならず、それに違反したと見た者を「思想犯」として糾弾した。
このことは渡部昇一氏の「”検閲機関”としての朝日新聞」(「文藝春秋」一九八一年七月号)に如実に表れている。 比喩的に言えば一種の「新聞本仏論」であり、「新聞=正法」で「渡部=邪教」であろう。 だがこの状態への「大衆の叛逆」もまた起こっている。
それをある程度率直に口にしているの今津弘朝日新聞論説副主幹であろう(「「朝日ジャーナル」一九八一年六月五日号の座談会記事)。 次に引用させていただこう。
「国民感情についていえばいまのところ、反応は大衆運動という形ではなく、われわれもまたこの問題について、一体一般の人はどう考えているのだろうかという疑問に常につきまとわれている。 確かに、世論調査を見れば、やはり核は持つべきでないという答えが圧倒的に多い、 しかし…」
確かに「しかし」なのであり、 その「しかし」は、結局「『承認』と『黙認』の違いにすぎない」という前述の分析が示す状態であろう。
しかし一方、朝日の社説には「核の寄港を認めれば、次はこうなる、次はこうなる、次はこうなる」という、「なるなる論」の主張が出てくる。これは戦前の軍人と変わりはない。 戦前の軍人は「なるなる論者」であり、したがって「一歩も退くな、退くとずるずるだめになる。絶対に妥協するな」であった。」
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posted by Fukutake at 07:31| 日記