2022年08月17日

この母にしてこの子あり

「学年ビリのギャルが一年で偏差値40上げて 慶應大学に現役合格した話(文庫特別版)」 坪田信貴 角川文庫

 p102〜

 「彼女(ビリギャル)が高校3年生に上がろうとする頃のことでした。
僕は、無制限コースという、日曜を除けば塾へ毎日来られる学習コースを、さやかちゃんに勧めます。 ただ、それには当時の塾に、百数十万円というまとまったお金を前払いしてもらう必要がありました。

 ですが、その頃さやかちゃんの家には、お金がありませんでした。
お母さんは、自分の服を買うどころか、カード類も携帯もすべて止められていた時期だったのです。 なので、塾に払うまとまったお金を、お母さんがどう工面したのか、さやかちゃんは今に至るまでずっと知りませんでした。(実際お母さんは、子どもたちのために小さい時から積も立てていた郵便局の定期預金をすべて解約し、自分で積み立てていた生命保険もすべて解約して、それでも足りない分は、アクセサリー類をすべて売り、へそくりをかき集めて、お金を用意したのです。 それでも、塾への納入期限を一週間ほど過ぎて、ようやくお金が集まったのでした)。

 その時、お母さんは、さやかちゃんが慶應に受からなくても、何も惜しくないと思っていました。 ただ、ただ、この塾で学ぶことがさやかちゃんのためになると思って、お金を用意したのだそうです。 今は、さやかちゃんが、勉強することにワクワクしている。 だったら、思い切りやらせてあげたい、と考えたんです。

 僕は、過去に千組以上の親御さんと面談してきましたが、こういった際に必ず聞かれることがあります。それは、
「志望校に受かる確率は、何%でしょうか」
といった質問です。これには、本人のがんばり次第、親御さんのサポート次第、としか言えない面もありますが、この時お母さんは、そういったことは何ひとつ、僕に聞いてはきませんでした。
「合格不合格は関係ないと思っています。 あの子が坪田先生を信頼してがんばっている。 その坪田先生がこうしたほうがいいとおっしゃるなら、お任せします」

 お母さんは、塾の前に停めた車の中で、さやかちゃんに札束が入った封筒を渡しました。
 さやかちゃんはお母さんの車から降りて、「こんな分厚い札束、持ったことがないな」と思いながら、塾にかけ込んできました。
 お母さんがこう回想しています。
「その時、帰宅したさやかから、札束を受け取った坪田先生が、”このお金の重み、わかる?”っておっしゃったと聞きました。 それで、さやかは ”お母さん、私、絶対受かってみせるから。 絶対、いつか倍にして返すから” と言ったんです。 それを今でも忘れません。」

 いっぽうのさやかちゃんは、お母さんの、
「慶應に受かっても、受からなくても、いいんだよ。 さやかちゃんの学ぶことの素晴らしさに気づいてくれただけで、お母さんはうれしいんだから、お金のことは、何も気にしなくていいんだよ」とい言葉を聞きたといいます。」



posted by Fukutake at 07:41| 日記

ポピュリズムから独裁制へ

「田中美知太郎全集 26」 筑摩書房 平成二年 

五種の国家体制 p247〜

 「プラトンは『国家』において五つの国家体制を取り扱っているのであるが、そのうちのひとつを彼の理想国家とするものであって、かれはこの国家体制だけを正しいとし、他の四つを誤れるものと見なしている。ただしこの理想国は、かれが言論の上につくり上げた国制であって、地上には存在せず、せいぜいこれを天上に手本として仰ぐだけのものと言わねばならないのであるが、他のものはクレテやラケダイモン(スパルタ)で実際に行われているものであったり、もっとひろくギリシャでもギリシャ以外のところでも認めることのできるもの、既にはっきりとした名称をもっているものばかりなのである。その一つはクレテやスパルタの国制であって、今日の言葉で言えば軍国主義的国制というところであるが、プラトンのあたえる名前はティーマルキアーである。意味は名誉、名声が力であり、支配の条件となる国制というようなところであろうか。人々が名誉と名声を愛し、常に勝利を求める国柄ということになるかも知れない。ただしその勝利や名誉は戦争や体育のそれに傾くところが多いわけだ。

 次に来る国家体制は、寡頭制(オルガルキアー)と呼ばれているが、この命名は不正確であり、多分外からつけられた悪名の如きものであろうと考えられる。なぜなら、支配は常に少数者のものであり、多数者の支配というようなものは単に名目上のことであって実際には存在しないからである。ここの寡頭制と呼ばれているものの実態は選挙権あるいは被選挙権が財産の有無あるいはむしろ財産の多少によって制限されている制度にほかならないのである。
 第三の国制はいわゆる民主制であるが、これは支配の地位あるいは役職が財産上の制限なしに解放されている国制にほかならない。その意味において前記の寡頭制の正反対であり、原理的にこれときびしく対立すると言わねばならないだろう。

 そして最後に来るのは、この民主制の正反対ではあるが、しかし民主制そのもののなかから生まれ、これと共通性をもつこと、寡頭制と民主制がやはり共通性をもつのと同じであると言えるかも知れない。これにあたえられる名前テュランニスは、暴君(tyrant)、専制君主というようなイメージと結びつくが、それは民主制から生まれで来る独裁制であって、王制や君主制とは結びつかないのである。それは他の国制とも異なるものなのである。

 …民主制はアテナイにおいてはソロン以来二百年の歴史をもち、プラトンはこれを熟知していたのであり、寡頭制についてはペロポネソス戦争中アテナイにおいても起った革命騒ぎにおいてこれを直接経験することができたものであり、独裁制については、シュラクサイ旅行においてもディオニュシオス一世や二世との直接の接触を含めて、プラトンはかなり深刻な経験をしたはずである。そして今日のわれわれも民主制のなかの貧富の対立とか、独裁者の出現とその支配の実際について多くのことを教えられているのである。スパルタやクレテの国制は、プラトンが『法律』においてまず批判の対象としなければならなかったものであって、この国政を代表するスパルタとアテナイとの対立と死闘は、アテナイ人たるプラトンにいろいろのことを考えさせないではおかなかったろう。従ってこれらの国制の生成と崩壊は、プラトンにとっても、またわれわれにとても、今日的あるいは同時代的な関心事となるところがあると言わなければならないだろう。」

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寡頭制(幕藩体制〜明治憲法体制)そして民主制、そして独裁制(僭主制)へ。

posted by Fukutake at 07:38| 日記

2022年08月16日

おふくろの心遣い

「井伏鱒二全集 第十一巻」(随筆) 筑摩書房 1965年

おふくろ p56〜(旧仮名遣いを直しました)

 「私の母は八十六歳だが、まだ割合と達者である。 達者というよりも、去年の秋から今年の春にかけては、例年と違って寝込みもしなかった。 毎年、冬になると蟄居するが、この冬は割合に元気なところを見せていた。

 先月、そういう手紙を田舎の義姉から私の家内によこしてきた。 暖冬であったせいだろうか。
 私は二年に一度か三年に一度ぐらい、ついでがあったら田舎の生家に寄るように努めている。 と云っては語感がよくないが、私はお袋の愚痴を聞くのが嫌だから、わざわざ出かけて行こうという気持は滅多に起こさない。 私が帰って行くたびに、お袋は憂鬱な気持を誘い出すような口をきく。 それが型にはまったようにきまっている。

「ますじ」と、十二年前か十三年前、私が久しぶりに帰ったとき、義姉や甥の一緒にいる夕飯の席でお袋が云った。 「お前、東京で小説を書いているそうななが、何を見て書いとるんか。」
「何を見て書いとるか云っても」と私は、大してまごつかないで返答した。 「いろんな景色や川や山を見て、それから歴史の本で見た話や、人に聞いた話や、自分の思いついたことや、自分が世間で見たことや、そんなの書いとるんですがな。」
「それでも、何とかお手本を置いて書いとるんぢやなかろうか。」
「それは本を読めば読むほど、よい智慧が出るかもしれんが。」
「字引も引かねばならんの。 字を間違わんように書かんといけんが。 字を間違ったら、さっぱりじゃの。」

 お袋はしばらく黙っていたが、説教はこれだけでは止そうと思ったのだろう。
「よし子」と、義姉に云った。 「ますじに、酒を飲ませてやってくれ。 あんまり飲むと毒じゃから、徳利に一つだけ酒をわかしてやってくれ。」
 義姉は竈の下を燃やしつけて、戦争前に近所の人が除隊記念にくれた銚子を鍋のなかに立てて燗をした。 盃も同じく除隊記念にもらった土産品で、連隊旗と海軍旗を交叉させた図が書いてある。 ぎらぎら光る水金で第四十一連隊という文字など書いてある。 この家では古い徳利や猪口などはどこかに蔵っていて、法事のときにも来客のときにも決して使おうとしないのだ。

 私は三本や四本の酒では酔えないが、お袋は私が銚子の酒を半分ぐらいまで飲むと意見するような口をきいた。
「ますじ。 そうそう酒を飲むと毒じゃががな。 人が見ても、みっともないし、酒飲みは酒で身を誤るというての。」
 それで私は一本だけで止そうとしたが、母はそれで満足するものではない。
「お前は酒が飲めるというのに、一つだけで止めることはあるまいが。 飲めるのに、無理せんでもよかろうに。 飲めるんぢゃもの、もう一つだけなら飲んでもよかろうが。 もう一つ酒をわかしてやってくれ。」

お袋は酒飲みの倅に酒を飲ませたいが、酒なんか見るのも嫌な義姉に遠慮して余計なことを云ったのだろう。」

初出 昭和三十五年七月、『中央公論別冊』に発表。
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目に見えるよう。

posted by Fukutake at 08:40| 日記