2017年12月11日

みやこ人のやさしや

「徒然草」 橋下 武  イラスト古典全訳 日栄社  平成1年(1989)

第百四十一段 

 「悲田院の堯蓮上人は在俗時代の姓を三浦の何がしとか言い、並ぶ者がない武者である。故郷の人が訪ねて来て物語りの際に、「東国の人間はなんといってもいったん口に出したことは絶対に信頼できる。都の人間は安請け合いはするけれども真実味がない。」と言ったが、上人は「あなたにはそのように思われるだろうが、わたしは長年都に住みなれて、人々と親しくつき合って見ておりますと、都の人の心情が劣っているとは思われません。一般に心がやさしく人情に篤いために、人の言うことをきっぱりと断ることができず、どのようなことも突き放せず、気弱に承諾の返事をしてしまう。嘘をついてやろうとは思わないが、貧しく不如意な人ばかりなので、自然と思いどおりにことの運ばぬことが多いのであろう。東国人は私の同郷人ではあるが、実のところ、心のやさしさがなく情もこわく、ひたすら剛直なものであるから、できないことははじめからダメだと言って突っぱねてしまう。生計が豊かだから人から頼りにされるのだよ。」と理路整然と説明されましたのには、…」

(原文)第百四十一段
 「悲田院堯蓮(げうれん)上人は俗姓は三浦の某とかや、双なき武者なり。故郷の人来たりて、物語すとて、「吾妻人(あつまうど)こそ、言いつる事は頼まるれ、都の人は、ことうけのみよくて、実(まこと)なし」と言ひしを、聖(ひじり)、「それはさこそおぼすらめども、己れは都に久しく住みて、馴れて見侍流に、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて、心柔かに、情ある故に、人の言ふほどの事、けやけく(*)否(いな)び難くて、万(よろず)え言ひ放たず、心弱くことうけしつ。偽りせんとは思はねど、乏しく、叶わぬ人のみあれば、自ら、本意通らぬ事多かるべし。吾妻人は、我が方なれど、げには、心の色なく、情おくれ、偏(ひとへ)にすぐよかなるものなれば、始めより否(いな)と言ひて止みぬ。賑はひ、豊かなれば、人には頼まるるそかし」とことわられ侍りしこそ、…」
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(*)けやけく:きっぱりと
優しさとは。
posted by Fukutake at 12:08| 日記

2017年12月05日

役に立つ不便

「不便から生まれるデザイン」−工学に活かす常識を超えた発想− 
 川上 浩司 著 DOJIN SENSHO(化学同人)2011年

不便益について

68p〜
 「見えない可視性
 可視性という言葉のつながりで少し横道にそれるが、もしかすると「手間を想像できるか(可視的であるか)否かが価値を決める」のではないだろうか。
 ご馳走とは、本来はゲストをもてなすためにホストが走り回って食材などを調達することだと、なにかのマンガを読んで知った。すなわち、時間を伴う手間がかかっている。時間をかけずお金をかけたのでは、ご馳走ではなくなる単なる“豪勢な食事”でしかない。」
 
 「気付きの機会拡大
 自転車に対する徒歩通学などの、「連続で時間のかかる」事例や、安宿のロビーだけに設置された共用テレビなどの多くの事例に共通するのは、思いがけないものに遭遇する機会の増加と、投機的な行動が許されることである。セレンビリティーの用語を借りれば、なにかに遭遇し(accident)それを「思いがけないもの」として気付く(sagacity)チャンスの増加である。今日の情報氾濫という事態が示すように、accidentは多すぎてもいけない。能動的にsagacityを発揮できる、ある種の適度な(中庸な)量があると考えられている。

 「マイクロスリップ
 品揃えの便利(一ヶ所で買い物が済む便利さ)は、買い回る楽しさを喪失させる。買い物は、目的の物を入手するという事務的な作業ではなく、そこでのちょっとした無駄な動き(マイクロスリップ)が必要である。マイクロスリップは発達心理学における用語であり、人の学習や成長に不可欠であることが知られている。日頃の何気ない行動を観察していると、動物は必ずしも最適な動きを繰り返すのではなく、エラーやスリップとも呼べないがちょっとした無駄な動きが動作系列に入り込んでいるそうだ。それが新たな動きの獲得という発達の種になっていると言われる。その理由と同じく、買い物マイクロスリップは思いがけぬ新たな発見を通して買い物を楽しい作業にする。ホテルが一等地にあることを便利というときは移動時間と目的地を探し当てるスキルの低減を意味するが、これも町歩きの楽しみ、思いがけない物事と遭遇する機会を喪失させている。電子辞書は所望の単語を見つけるというタスクにおいては時間を節約するが、従前の辞書は探索の過程で思いがけず別の単語を目にする機会を与えてくれる。」

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不便でも結局は役に立つんですね。

posted by Fukutake at 08:42| 日記

2017年11月27日

曖昧さとコンピュータ

「逆説の法則」 西成 活裕  新潮新書 2017年

第一章 世界は逆説に満ちている より

フレーム問題

 「将来社会で人工知能が汎用的に使われるためには、実はまだ解決しなければならない大きな課題がいくつか残っている。その一つに「フレーム問題」といわれるものがあり、実はこれが30年前の人工頭脳ブームが失敗した原因の一つであった。これは簡単にいえば、現実をどのような枠組み(フレーム)で見るか、を決めることであり、関係があるものと無いものを切り分ける、というタスクである。これはまさに物事の目的や意味を定めることに他ならない。コンピューターは、枠組みが決まった問題を解くのは得意だが、設計仕様から外れた問題を解けるほどまだ柔軟にできていない。

 例えば、部屋を掃除しておいて、と言われたら、我々ならば普通はさっと床を掃いたり、ゴミを捨てたり、あるいは時間があれば窓をふいたり、と臨機応変に対応できるだろう。特に何をすべきで何をすべきでないか、大抵の場合はいちいち相手に伝える必要もない。しかしコンピューターはこれらをすべて指定しないとまともに動かず、下手をすると、そのまま家全体に水を撒き散らすこともありうるのだ。

 実はすべきことは通常有限であるが、してはいけないことは無限にある。例えば窓を拭くときは傷がつかないように、とか、燃えないゴミは一緒に捨てない、とか、リストを書き出すときりがない。これは、法律の中に社会でしてはいけないことをすべて記述することはできないのと同じである。そして我々は無限の可能性の中から通常すぐに目的にあった行為をすることができるが、計算機にはそれが苦手である。仮に無限の可能性をもし入力できたとしても、それを検索するのは無限の時間がかかり、行動が停止してしまうだろう。もちろん人間もクレーム問題で停止してしまうことがあるが、我々は大抵の場合、不思議とこれをクリアしているように見える。そしてその根本にあるのが、かけがえのない、有限の命である人間の、自らの身体を守る、という大きな目的であろう。

 コンピューターにはこうした身体性は存在せず、ここが機械と生物の根本的な違いであると考えられる。…」

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人間的時間の不思議。
posted by Fukutake at 14:50| 日記