2022年12月07日

民の声、神の声

「日本的革命の哲学」 山本七平 PHP 昭和五十七年

サムエルの言葉 p22〜

 「「王のならわし」を説明するサムエルの言葉と民衆の反応をみてみよう。
 「『あなたがたを治める王のならわしは次の通りである。 彼はあなたがたの息子を取って戦車隊に入れ、騎兵とし、自分の戦車の前を走らせるであろう。 彼はまたそれを千人の長、五十人の長に任じ、またその地を耕させ、その作物を刈らせ、またその武器と戦車を造らせるであろう。 また、あなた方の娘を取って、香をつくる者とし、料理をする者とし、パンを焼く者とするであろう。 また、あなたがたの畑とぶどう畑とオリーブ畑の最も良い物を取って、その家来に与え、あなたがたの穀物と、ぶどう畑の、十分の一を取ってその役人と家来に与え、またあなたがたの男女の奴隷およびあなたがたの最も良い牛とろばを取って自分のために働かせ、また、あなたがたの羊の十分の一を取り、あなたがたはその奴隷となるであろう。 そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。 しかしヤハウェはその日にあなたがたに答えられないであろう』

 ところが民はサムエルの声に聞き従う事を拒んで言った。 「いいえ、我々を治める王がなければならない。 われわれは他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いに戦うのである。』 ヤハウェはサムエルに言われた、『彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ』」

 人民の意志によって立てられても「王とはこういうものだ」と否定的に描かれており、人民の意志に従えば「仁義の君」が自動的に出現するわけではない。 だが民は王制という体制を選択しないこともできる。 これに反して、人民の意志で政治体制を採択するという発想が孟子になかったのは、いわば文化の違いであって、年代の違いではない。 中国には後代になってもこの発想はなく、一方イスラエルの方は、士師(しし:さばきつかさ)による統治、王制、祭司共和制と常に政治体制を変えている。 また皇帝が「天子」で、王朝の創立が「天命」に基づくなら、孟子のように考えれば、民の声は自動的に天の声となる。 旧約聖書の場合も、「彼ら(民)の声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」と神が言っているのだから、一応「民の声は神の声」と言えるであろう。 だが、旧約聖書ではこの二つの声は決して自動的に一体化していない。 この点、日本のマスコミなどが使う「民の声は神の声」は、聖書よりもむしろ孟子的である。

 だが、前述のように、『孟子』にもそして旧約聖書にも、「民の声」を投票というシステムに乗せるという発想はない。 殷の紂王と周の武王とのいずれを「王」とするかを投票によって決定するという発想は孟子にもないが、人民が人望のない方から人望のある方へ移動して来るという発想はあり、これはある意味では投票と似た結果にもなり得たであろう。」

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神は命ずる、でもあとは知らないよ。

posted by Fukutake at 08:02| 日記

お金の世の中

「撫で肩 ときどき怒り肩」 群ようこ 文春文庫 

「結婚 志願ショー」 p104〜

 「先日、高校時代の友だち二人と会った。 女性のほうとは年に一度くらいは会っているのだが、男性のほうは十三年ぶり。 彼とお互いに指さしつつ、
「わあ、全然顔が変わっていないじゃないか」
とひとしきり騒いでも、どうも雰囲気は暗い。実は、彼の八年間つきあっていた彼女がさっさと別の男と結婚してしまい、意気消沈しているのをきき、私たち女性軍が彼の慰安と激励の会をしようということになった。

 彼は背高く頭脳明晰、次男、性格最良、容姿は若かりし頃の石坂浩二といった具合で、唯一の難点は給料があまり良くないことらしいのだが、それを差し引いてあまりあるほどの好青年である。

 あれこれ話をしていて、
「そういえばむかし、テレビ集団見合いみたいな番組があったね」
 といいつつ同時に私たちの頭の中に浮かんだのは、東京12チャンネル、金曜日夜九時から放送されている「結婚! 志願ショー」のひどさであった。 この番組には毎週一人ずつ医者、レーサー、エリートサラリーマン、デザイナー、青年実業家などといった、俗にいう社会的に地位も金もある適齢期の男性が登場する。 そして結婚志願というふれこみの若い女性たち五人が、とりあえず未来の妻の座をめざして自分の長所をアピールするのだが、この出てくる女がみんなひどい娘ばっかりであきれかえってしまう。 番組の中に組み込まれている”水着審査”でも堂々と水着姿をさらし、「ウソー」「ヤダー」「信じられなー い」といった三語族で、
「本当に普通の家の娘さんなんだろうか」
とただおどろいてしまうばかりである。

 ところが彼女たちは女奴隷市の如く番号をつけた水着姿で五人並べられ、ゲストの芸能人に、
「そうね、彼には一番か四番の方がいいと思うわ」
といわれてもニコニコしている。 彼女たちには女のプライドというものなんかないのであろう。 ま、〇〇会社のキャンペーンギャルとやらが名門女子大卒で、「最初は水着になるのがとっても恥ずかしくてたまりませんでした」といかに彼女が普通のお嬢さんであるか書いてあるのを読んで、

「バカもん。 コンテストの間だって水着になる機会はいくらだってあっただろうに、ブリッ子するんじゃないよ。 普通のお嬢さんがそんなことするわけないじゃないか」
 と怒っていたのであるが、もしかしたら現代の普通のお嬢さんというのはそういうタイプに様変わりしてしまったのかもしれない。

 五人の中から一人を選べる男も、鼻の下を伸ばしてだらしがないったらありゃしない。 金にものをいわせている男と、プライドもなく金目あての女が出てくる番組なんて一体どこが面白いのだ。
 私たちは深夜、三十女の禁句といわれる、”今どきの若い女は”という言葉を発しつつ、
「絶対彼にはいい人をみつけてあげようね」 と心に固く誓ったのだった。」


昭和の番組
posted by Fukutake at 07:58| 日記

2022年12月06日

無意識の経験

「新訂 小林秀雄全集 第六巻 − ドストエフスキイの作品−」 新潮社 

 カラマアゾフの兄弟 より p168〜

 「彼(ドストエフスキイ)は、何も彼も體驗から得た、生活で骨までしやぶつた人のする經驗、人生が賈つてくれるものを踏み倒したり、値切ったりしなかつた人のする經驗、自己防衛術を少しも知らず、何事にものめりこめた人のする經驗、さういうものから自分は、何も彼も得たのだ、さう言ふ彼の聲が、書簡の何處からでも聞える。手紙のなかで何が語られてゐようと、彼がはつき言つてゐるのは、實はその事だ、その事だけである。そしてこれが、彼の書簡を、凡そ文學者の書簡のなかで、際立たせてゐるところのものだ。「猫の生活力」は、直かに、生ま生ましい観念の世界に通じてゐるのである。生活上の極意は、文字通り、創作上の極意でもあつたのだ。

 上手に語れる經驗なぞは、經驗でもなんでもない。はつきりと語れる自己などは、自己でもなんでもない。さういふドストエフスキイの言葉を聞く想ひをし乍ら、彼の書簡を讀んで来た者には、既に充分生活に小突き廻された五十歳の彼が、自ら「畢生の仕事」といふ「偉大なる罪人の一生」について、吃り吃り語る際、彼自身どんな想ひであつたかを感得するのは難しくはない筈だ。未来の大小説について、順序なく、くどくどと述べた後、彼は、凡庸な解説者の様に言ふ、「要するに、根本をなす問題は、僕自身が、今日までずつと意識して、又、無意識に苦しんだ来たところ、即ち神の存在といふ問題です」まさに、その通りだつたであらう。

 「カラマアゾフの兄弟」について書こうとして、彼に倣つて言ひたい気持ちがする。「根本をなす問題は、彼の作品について書き始めて以来ずつと僕が意識して、又無意識に、見極めようと苦しんて来たところ、即ち、彼の全生活と全作品とを覆ふに足りる彼の思想の絶對性とも言ふべき問題だ」と。僕は、ここで、今迄書いて来た處とは別な何か新しい事を言はうとも思つてゐない。

「カラマアゾフの兄弟」で、作者は少しも新しい問題を扱つてはゐないのだし、又扱おうとも考へなかつたからである。彼は、同じ處に執拗に立ち止つてゐる。「偉大なる罪人に一生」のノオトに描かれた主人公には、嘗て「罪と罰」のノオトでラスコオリニコフの性質について書いた處が、そのまま當て嵌る。「自負う、人間共に對する侮蔑、力への渇望」、少なくとも彼がその本質を充分に發揮するに至つた「罪と罰」以来、彼の創造力は、罪人といふ像の周圍を、飽く事を知らず廻ってゐたのである。サント・ヴィクトアールの山さえあれば、畫材には少しも困らなかつたセザンヌの様に。」

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posted by Fukutake at 07:53| 日記