2023年06月07日

報道機関を気兼ねする

「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年

やじ馬と化す報道機関 p213〜

 「ドイツのルフトハンザ機の乗っ取り事件について、ドイツの社民党政府がとった処置、それは多分に賭の要素をもつものであったが、その成功は全世界の称賛をあびている。 これに対して日本の保守党政府が取った処置は、いろいろな事情を考えると、やはり万やむを得なかった処置として同情されなければならないところもあるが、しかしあまりカッコいいものではなかったことはたしかである。 しかしこれは政府だけの責任ではなくて、政府をバックアップする国民の意識、あるいはいわゆる世論の方に、もっと多くの責任があると言わなければならないだろう。

 ドイツ政府は報道を統制し、勇敢な特殊部隊を送ったのであるが、わが国は急ぎ大がかりな報道部隊を出動させて、時々刻々にニュースを流し、留守宅のインタビュー場面などを放映するだけであった。 いったいニュースを追っかけるだけで、ニュースの先を行くことができない人間に何が出来るというのか。 わが国では事があると、こういう人間ばかりが前面に出て来て、後は何も見られないようなことになってしまう。 冒険小説で言うと、いわゆる危機一髪の窮地に立たされて、主人公が冷静に大胆に行動しなければならないとき、いっしょにいる女性が聞きわけもなく、だだをこねて泣いたりして、主人公を手こずらせるような場面にぶつかることがあるが、NHKをはじめとする報道機関は、いわゆる職業意識だけで行動して、少しも自制がきかなくなっているから、言わばこのわがまま女と同じような手足まといとなっているのであり、もっとはっきり言えば、ゲリラの共犯者、しかも強力な共犯者となっているのである。 「よど号」の事件しかり、安田講堂の事件しかり、また浅間山荘の事件しかりである。 国民はこれによって単なる見物人、やじ馬とならざるを得ないようなところに追いやられてしまうのである。

 わが国の政府はこのような事情に押されて、国民からも孤立した形で、兇悪犯人を釈放し、多額の身代金をわれわれの税金から支払うようなことを余儀なくされたわけである。 身代金などというものは、本来はめいめいの個人が支払うべきものであって、国が出すような筋のものではないのかも知れない。 これからは海外へ遊びに行く人は、めいめい自分自身の危険と負担とで出かけるのだということをはっきりさせ、特別の保険のようなものを考えたらいいかも知れない。 しかしこの点は大したことではないからしばらくおく。 しかし政府が自分の処置を正当化するためにもち出した命題、人命尊重を最優先させるということは、果たして万人を納得させるものであったのかどうか、世界の人びとはこの崇高(?)な道徳的命題に対して、果たして感激したり、称賛の電報をよせたりしただろうか、何か問題が残るのである。

 戦後三十年われわれは道徳のすべてを、何か戦前的なもの、軍国主義や戦争につながるものとして廃棄してしまったのである。」

(「文藝春秋」巻頭随筆 昭和五十二年十二月号)

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政府指導者の責任回避、事なかれ主義。
posted by Fukutake at 06:06| 日記