2023年06月06日

文字は必ず御家流

「風俗 江戸東京物語」 岡本綺堂 河出文庫 2001年

手習師匠 p144〜

 「上方では手習を教えるところを寺子屋と唱えていましたが、江戸では寺子屋とは言いません。 単に手習師匠といってました。
 この時代には、手習師匠のところで教える文字は、仮名・草書・行書の三種類だけで、決して楷書は教えなかったのです。 その当時は楷書というものを現今の隷書のように見なしていたので、普通一般には使用されなかったのです。

 むしろ楷書を実用的の字として認めないくらいであったのです。 現今の人達が隷書を知らぬといっても少しも恥にならないのと同じように、昔の人達は楷書が書けないといっても、決して恥にはならなかったのです。
 公文書、その他の布達なども、必ず草書、即ち御家流が用いられ、出版物は多く行書が使用されていました。 従って楷書というものは一種の趣味として習うくらいのもので、別に書家について習わなければなりませんでした。

 手習師匠にも、武家の師匠と町師匠との二通りありました。 武家の師匠は旗本・御家人などのうちで、文字の上手な者がなっていましたが、文武の師匠には如何なる身分の者がなろうとも、なんら制限も干渉も受けなかったのです。 幕府ではむしろそれを奨励するという意味で、文武の師匠になっている者は上の覚えも目出度かったということです。

 手習弟子の数は多くて三百人、すくなくとも七、八十人くらいはありました。稽古場の設備なども、弟子の多寡によってそれぞれ相違もありましたが、大抵どこの稽古場でも、四方は板羽目になって、縁無しの畳が敷いてありました。 正面には教え机を置き、その前に師匠が控えて稽古場を一目に見渡せるようにしてありました。 
 弟子達は天神机(手習机。江戸時代、手習のとき子供たちが使った引出し付きの粗末な机)を三側(さんそく)に並べ、年頃の大中小によって三組に区別されていましたが、師匠一人ではとても大勢の世話が行届かないので、その助手として番頭というものがありました。

 番頭は弟子の中から選ばれていましたが、これは相当に年も取って、よくできる者でなければ勤まりませんでした。 ただ世話をするといっても、これが師匠に代わって代稽古もしていたのです。 そして、番頭一人の受持は大抵三、四十人くらいと決まっていました。
 手習師匠に弟子入りする時期というものは、(現今の四月一日というように)きちんと八歳の三月頃から弟子入りをしていました。

 弟子入りの時には必ず女親が連れて行くことになっていましたが、その時に持って行くものには、天神机・硯・草子十冊がお決まりで、弟子達に分配する煎餅、師匠の方へは束脩(そくしゅう。入門する時に納める金銭。二朱くらい)、奥へ砂糖袋(一斤)というのが普通の例になっていました。 これらの模様は「寺子屋」の芝居を観ればすぐに判ります。
 文字の流儀はいろいろありましたが、御家流・大橋流・溝口流・持明院流などが多かったようです。」

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posted by Fukutake at 09:31| 日記