「日本はなぜ外交で負けるのか」ー日米中露韓の国境と海境 山本七平 さくら社 2014年
憲法の教義化 p96〜
「今次の敗戦も決して「内的規範と外的規範の峻別」という考え方を生まなかった。 併行主義(パラレリズム)が逆方向に作用したにすぎないのである。 それが民主制(デモクラシー)を民主主義と受け取り、「国民全部が民主主義者にならねばならぬ」となり、新憲法はいつしか「教義」となって、まるでこれが各自の内的規範であらねばならぬような行き方になった。 「新憲法の精神」という言葉がよくこれを表している
天皇が「内外併行の絶対的規範」の授与者として現人神になったように、憲法そのものが、佐藤誠三郎氏(注:政治学者。中曽根内閣のブレーン)の指摘されるように「物神化」した。 それは「世俗法」の基本を定めたものの枠を越えており、そこで「創価学会の教義は憲法に違反する」などという、民主制の下では考えられぬ批評さえ生んだ。
これは憲法を教義としない限りあり得ない言葉だが、教義には常に「解釈権」という問題がある。 この解釈権を誰が持つかは、その宗団の基本にかかわる問題である。 では、「物神化した新憲法の精神」という教義(ドグマ)の解釈権は誰が持ってきたのか、 少なくとも現在までは、それをまるで新聞が持っているかのような状態であった。 否、少なくとも新聞人はそう信じて疑わず、国民の内的規範は新聞の「新憲法教義解釈」通りであらねばならず、それに違反したと見た者を「思想犯」として糾弾した。
このことは渡部昇一氏の「”検閲機関”としての朝日新聞」(「文藝春秋」一九八一年七月号)に如実に表れている。 比喩的に言えば一種の「新聞本仏論」であり、「新聞=正法」で「渡部=邪教」であろう。 だがこの状態への「大衆の叛逆」もまた起こっている。
それをある程度率直に口にしているの今津弘朝日新聞論説副主幹であろう(「「朝日ジャーナル」一九八一年六月五日号の座談会記事)。 次に引用させていただこう。
「国民感情についていえばいまのところ、反応は大衆運動という形ではなく、われわれもまたこの問題について、一体一般の人はどう考えているのだろうかという疑問に常につきまとわれている。 確かに、世論調査を見れば、やはり核は持つべきでないという答えが圧倒的に多い、 しかし…」
確かに「しかし」なのであり、 その「しかし」は、結局「『承認』と『黙認』の違いにすぎない」という前述の分析が示す状態であろう。
しかし一方、朝日の社説には「核の寄港を認めれば、次はこうなる、次はこうなる、次はこうなる」という、「なるなる論」の主張が出てくる。これは戦前の軍人と変わりはない。 戦前の軍人は「なるなる論者」であり、したがって「一歩も退くな、退くとずるずるだめになる。絶対に妥協するな」であった。」
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