2023年06月05日

日本の医療

「冷暖房ナシ」 山本夏彦 文春文庫 1987年

医療者たち p166〜

 「ついこの間まで手術をしてもらうとき患者は一札とられた。 生死にかかわる場合だからろくに中身も見ないで私はめくら判を捺したが、再三の手術なのであるときざっと目を通したら、万一死んでも文句は言わないというほどのことが書いてあったので、ははあこれでは訴える人がいないわけだとさとった。
 明治以来百年近くこういう一札をとっていたのか、それなら今はどうか。 この十年医者もしきりに訴えられるようになったからまさかこんなことはあるまいと思ったら、やっぱり似たものをとっていた。 「手術承諾書」という。 「頭書の疾患により貴院に手術をお任せいたします。 手術に当たっては貴院に万全の処置を希望し信頼するとともに、手術の結果につきましては本人は勿論、家族におきましても異議を申したてません」
 さて私はある雑誌の対談で次のようなことを述べた。

 たいていの病院は、病気でない人が行っても病気になるようなあんばいに出来ている。 何より待たせる。 一時間でも半日でも一ヶ月でも診察を待たせて薬で待たせる。 せめて薬くらいは事務的にしてもらいたい。 毎日待たせること何十年に及びながら待合室を広くしない。
 あれが患者が五人か十人のときの広さである。 その設計を改めない。 大病院はせまくない。 今度は広すぎて公園のベンチみたいな腰かけにかけさせる。 からっ風が吹くようなひろさである。 待合室の冷暖房はたいていききすぎている。 健康な人でも冷暖房は毒である。 タキシーの運転手は夏も股引きをはいているという。 病人の体によかろうはずがない。 治りかけたリウマチの患者が、大病院で半日待たされて再発した例がある。 病院は冷暖房について無神経にすぎはないか。 もっともこれ病院にかぎらない。 電車も汽車もそうである。

 それに食べもの、並の人なら食べられないものを出す。 半ば以上の患者が箸をつけないのを見て医師が何十年も平気なのはけげんである。 本来温かいものを温かく出てきたためしがない。その上食器のふちは必ず欠けている。 もとは白かったのが灰色になっている。 夕食を四時半に持ってくる。 なけなしの食欲を撲滅せずんばやまぬ勢いで、あれは自分たちが定時に帰るためという。 それ以後になると残業になって、その手当が莫大になるからだろうが、それならボランティアに頼ればいい。

 アメリカの病院は多くボランティアに頼っているのでこのことがないと、わが子をアメリカの大病院で手術させた友に聞いた。 看護婦の経験があって今は家庭にあったり、何不自由ない婦人が奉仕していると聞いた。 待合室で手術の終わるのを待っていると、すでに夜ふけなのにボランティアの婦人が熱いスープと夜食をワゴンで持参して、食欲がないと断ると、お子さんのためだ食べなければいけないとと励ましたという。

 わが国の婦人が薄情だと思われない。 この世の中のことは多く習慣で、大病院のボランティア活動に参加するのが習慣になっていれば、そしてそれが上流の証拠ならわが国でも参加する婦人はいるに違いない。

 私は日本の医療が一流であることを仄聞している。 それを疑うものではない。 けれども一流なのは医療機器とそれを操作する技術だけなのではないかと疑っている。」

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posted by Fukutake at 07:28| 日記