「葉隠入門」 三島由紀夫 新潮社文庫 昭和五十八年
名言抄 p142〜
細心の注意
「武士は万事に心を付け、少しにても後れになる事を嫌うべきなり。 就中物言ひに不吟味なれば「我は臆病なり、その時は逃げ申すべし、痛い。」などといふことあり。 ざれにも、たわぶれにも、寝言にも、はた言にも、いふまじき詞なり。 心ある者の聞いては、心の奥おしはからるるものなり。 兼て吟味して置くべき事なり。
(訳)武士はどんなことにでも気をくばり、すこしでも失敗しそうなことはきらうべきである。 なかでも、ものの言いように注意をはらわず、「私は臆病者である。 そのときは逃げましょう、おそろしい、痛い。」などと言うことがある。 こうしたことばは、冗談ごとにも、遊び半分にも、寝言、たわごとにも、つまりどんな片言でも、言ってはならないことばである。 心ある者が聞いたら、真意を推測されてしまうものである。 いつでも注意して置くべきことである。」
七呼吸の間に判断せよ
「古人の詞に、七息思案とい言うことあり。 隆信公は、「分別も久しくすればねまる。」と仰せられ候。 直茂公は、「万事しだること十に七つ悪し。 武士は物毎手取早にするものぞ。」と仰せられ候。 心気うろうろとしたるときは、分別も埒明かず。 なづみなく、さはやかに、凛としたる気にては、七息に分別すむものなり。 胸すわりて、突つ切れたる気の位なり。
(訳)古人のことばに、「七呼吸のあいだに思案せよ。」というのがある。 竜造寺隆信公は、「思案も時間がながくてたば、なまくらになってしまう。」と仰った。 直茂公は、「万事だらだらしたものは、十に七つはわるいことだ。 武士は物事すべて手っ取りばやくやる必要がある。」と仰った由。 心持ちがうろたえているときは、思案もなかなかきまりがつかないものだ。 こだわりなく、さわやかに、凛とした気持ちになっていれば、七呼吸のあいだに判断がつくものだ。 落ちついて、ふっきれた気持ちになって思案するのである。」
若いうちに出世しすぎてはいけない
「若き内に立身して御用に立つのは、のうぢ*なきものなり。 発明の生まれつきにても、器量熟せず、人も請け取らぬなり。 五十ばかりより、そろそろ仕上げたるがよきなり。 その内は諸人の目に立身遅きと思ふ程なるが、のうぢあるなり。 又身上崩しても、志ある者は私曲の事にてこれなき故、早う直るなり。
若いうちに出世してお役に立つのは、効果のないものである。 たとえ、どのように利口な生まれつきだとしても、才器が熟していないうえ、人も十分には納得しないからである。 五十歳ぐらいになってから、徐々に仕上げるのがよいのである。 そうこうして、多くの人には出世が遅いと思われるぐらいのほうが、本当のものの役に立つというものである。 また、たとえ身代をもち崩しても、志のある者は、わが身の不正な利得を計ろうとしたことではないので、早く立ち直るものなのである。」」
のうぢ* 能事:なすべき事柄
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出世は遅い方がいい