「柳田國男全集 21」ー故郷七十年ー 筑摩書房 1997年
藤村の詩「椰子の実」 p341〜
「僕が二十一歳の頃だったか、まだ親が生きてゐるうちぢやなかつたかと思ふ。 少し身体を悪くして三河に行つて、渥美半島の突つ端の伊良湖岬に一ヶ月静養してゐたことがある。
海岸を散歩すると、椰子の実が流れ来るのを見付けることがある。 暴風のあつた翌朝など殊にそれが多い。 椰子の実と、それから藻玉といつて、長さ一尺五寸も二尺もある大きな豆が一つの鞘に繋がつて漂着して居る。 シナ人がよく人間は指から老人になるものだといつて、指先きでいぢり廻して、老衰を防ぐ方法にするが、あれが藻玉の一つなわけだ。 それが伊良湖岬へ、南の果てから流れて来る。 殊に椰子の流れて来るのは実に嬉しかつた。 一つは壊れて流れて来たが、一つはそのまま完全な姿で流れついて来た。
東京へ帰つてから、そのころ島崎藤村が近所に住んでいたものだから、帰つて来るなり直ぐ私はその話をした。 そしたら「君、その話を僕に呉れ給へよ。誰にも云わずに呉れ給へ」といふことになつた。 明治二十八年か九年か、一寸と、はつきりしないがまだ大学に居るころだつた。 するとそれが、非常に吟じ易い歌になつて、島崎君の新体詩といふと、必ずそれが人の口の端に上がるといふようなことになつてしまつた。
この間も若山牧水の一番好いお弟子さんの大悟法君といふのがやつて来て、「あんたが藤村に話てやつたつて本当ですか」と聞くものだから、初めてこの昔話を発表したわけであつた。
牧水も椰子の実の歌を二つ作つて居る。 日向の都井岬といつて日向の一番突端の海岸で、牧水が椰子の歌を作つたことがあるから、その記念のため、碑を立てさせてくれといふことを、門人達が宮アの近所の人たちに頼んださうである。 ところがそこの新聞記者の中に反対するものがあつて、「あんな所に椰子の実なんか流れて来やしませんよ、そんな歌の碑を立てたら却つて歌の価値が下りますよ」といつたといふ。 大悟法君が悔しがつて自分で都井岬へ行つて見たところ、何とそこの茶店に椰子の実がズーッと並んでゐたので、「こんなに流れつくのかい」と聞いたら、「ええ、いつでも」なんて云つたといふわけ。
それで大悟法君、宮アの新聞記者に欺されたといつて悔しがつて居た。 藤村の伝記を見ても判るやうに、三河の伊良湖岬に行つた気遣ひはないのに、どうして彼は「そをとりて胸にあつれば」などといふ椰子の実の歌ができたのかと、不思議に思ふ人も多かろう。 全くのフィクションのよるもので、今だから云ふが真相はこんな風なものだつた。 もう島崎君も死んで何年にもなるから話ておいてもよからう。 この間も発表して放送の席を賑わしたことである。 何にしてもこれは古い話である。」
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