2023年06月01日

気兼ね… しない

「世は〆切(しめきり)」 山本夏彦 文藝春秋 平成八年

森 銑三 p181〜

 「森銑三翁がなくなったと聞いてとるものもとりあえず「縁ある人」という小文を「文藝春秋」巻頭随筆に書いたが、私の気持ちはなかなかあれでは尽きない。
 森銑三さんといっても知らない人が多いだろうから手短にいうと、書誌学者であり江戸文芸史の研究家であり、また在野の歴史家であり伝記作家である。 愛知県刈谷のひと明治二十八年九月十一日生まれ。昭和六十年三月七日没、八十九歳だった。 昭和四十六年「森銑三著作集」全十六巻別巻一冊が中央公論社から出て、これはあくる四十七年ようやく「読売文学賞」が贈られたがすでに七十六歳である。 その業績にくらべると酬われること少ないひとだった。

 私は森さんのことはすでに「西鶴一家言」(『ダメの人』中公文庫所収)に書いた。 森さんの手紙は全部候文だった。 また森さんの著作集の月報に求められて「ペンフレンド」という小文も書いた、 二十なん年毎月判でおしたように候文の便りをもらいながら、ついに一度もお目にかかったことがないから、翁と私はペンフレンドのような仲だといったのである。

 在野の書誌学者、歴史家と私はもともと縁あるものではない。 それがなぜかくも長きペンフレンドになったかというと和木清三郎編集の「新文明」という雑誌がきっかけだった。 
 和木清三郎という名は戦前は知られていた。 「三田文学」の名編集長で石坂洋次郎そのほかを育てたひとだそうで、ただし戦後は振るわず小泉信三の応援で「新文明」という雑誌を出していた。 この雑誌はほぼ三十年続いた。

 新文明には巻頭に小泉信三が書いていたから私もその存在は知っていたが、それに森さんが私の「日常茶飯事」について三ページも書いてくれたのである。 昭和三十八年八月号である。 日常茶飯事はその前年の三十七年九月発行だから新刊ではない。
 森さんはふと学校の図書館の書庫でこの本を見つけたという。 そこに斎藤緑雨の名が出ていたのでそれが目を射た。 私(森翁)は緑雨が好きだから緑雨の好きな人もまた好きである。 私は現代人でなお緑雨の読者である人をあげることが出来る。 それは五、六人にすぎないが、この本のなかで緑雨の名を見つけてあるいは著者もまた読者の一人かと読んだら、緑雨のことは別にしてはからずも異色ある文章家を知ることができたのを喜んだ。

 この本の著者は新聞が大嫌いで、自分は気がねして言っていると称しながら、言いたいことを言ってそれが愉快である。」

(『室内』一九八五年五、六月号)

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posted by Fukutake at 05:08| 日記