2023年06月01日

日本へ

「柳田國男全集 21」ー故郷七十年ー 筑摩書房 1997年

日本の舟  p292〜

 「日本にどこからか米を食う人間が渡って来たのは事実で、またその人たちが米作りの先祖であるということも疑わない。 しかし周囲が海の日本のことだから、どうしても舟というものを考えてみなければならない。 舟が最初どうして作られ、どんな利用、もしくは利用制限があったかということを、一度は調べてみる必要がある。
 例えば、北海のヴァイキングみたいな民族は、随分遠くまで航海したが、あれは要するに岸に沿って歩いただけで、海を横切ることはほとんどなかった。いよいよ大洋を乗切るのに、磁石で決めて行ったなどというのは、まだ大分後のことである。 それで私は、舟というものがどこで作られたか、どうして作られたか、どうして舟が発達したかということをしらべると、人間の文化がいかに形作られてきたか、よくわかるのではないかと考えている。 そしてこれは日本人がやらねばならぬ問題の一つだと思っている。

 昔、日本人が黒潮にのって南方から九州とか、その南の島などに来たとする。 どうして来たか、漂流も無論あったが、漂流では女房子供がいっしょに漂流することは考えられないから、一度はもとの故国に帰ってもう一度出直して来るということを考えてみなければならない。 ところが、宮古とか八重山とかの、沖縄の島々で南に向いている方面だけに、渡来者の帰って行く話がたくさんある。 これはどこから来たかということを考える時の、一つの手がかりになるのではないかと思う。

 刃物のない時代にどうして舟を作ったのか。 刃物のない土人も舟を作っているが、それは刳(くり)舟で、焼切りにして作ったものであったらしい。 それに少しずつ板で縁をつけて幅をひろくしたり、二艘舟といって二つ合わせて重いものを運ぶようにしたものであろう。 そして舟を作るには、樹木の豊かな所が造船所になったわけであろう。 しかし、いずれの舟もほんのわずかの航海しかできない脆弱なものだったに相違ない。

 だから古代に人馬の大部隊が朝鮮から日本へ渡来したなどということは、事実と合わない議論である。 熱心とか、真理を愛好する心持とか、これを人間の幸福に役立てようとかする態度に対しては、私といえども一言もないが、事実は事実として究明しなければならないのである。 ただ外国の書物を拝借して、「過去においては」とか、「前代日本では」とか、概念論で簡単に片づけてしまおうとする人たちがあるが、そんなことなら、われわれはこんな苦しみはしないのである。 前代というならば、せめて「六国史」が京都の周囲に払ったのに劣らない注意力を、全国に払ってからにしてもらいたい。 同じ江戸期の三百年だって、初めと後とでは地方人の気持ち一つでも違っているし、その地方地方がまたそれぞれの特徴をもっていたのである。

 さて小さな丸木舟で、どうしてきたか。 浦づたいに棹で来ることもあったろうし、潮流を利用して島に近くとか、風を利用したということも考えられる。 もっとも、それには帆布ということも考えなければならない。 こう考えて来ると、どうしても入江の多い地形、すなわち太平洋岸より、日本海側の方が利用しやすく、こして南から北へと行ったのではないかと想像できる。」




posted by Fukutake at 05:03| 日記