2023年03月25日

報道されていると思っている報道機関

「日本人的発想と政治文化」 山本七平  日本書籍  昭和五八年

報道の放棄 p76〜

 「戦後のある時期まで、「戦前は神話を事実として教えた」という批判があったが、戦後の一時期は「新聞が『神話を事実として教えた』一時期」といえるであろう。 「報道とは何か」を検討しなおすべきだと記してから、すでに一年近い。 以上につき短い結論を出すならば、「神話を事実として報道すれば、それは報道ではない」ということであろう。

 神話の伝達とはいずれの時代であれ「権威のお取りつぎ」であり、それをしていれば最終的には、みずからが事実を報道しているという意識さえ失ってしまうはずである。 最近あるミニ・コミ紙におもしろい批判が出ていた。 それは、新聞が中国について「いままで報道されていなかった」と記したことについて、その表現はおかしい「今まで新聞が報道しなかった」」と記すべきだという批判である。 確かに新聞は「報道するもの」であっても「報道されるもの」ではないはずである。

 だが同じような表現は終戦直後にも出てくる。 「国民は何も知らされず…」と新聞は平然と記したが、これには「新聞は国民に何も知らせず…」のはずである。 新聞がみずからを「報道機関」と考えず「報道される機関」と考えるなら、それはみずからを神話伝達者すなわち「何らかの権威の発表を読者に取次ぐ機関」を規定し、読者を代表して自分もまた「報道されている」と考えても不思議はない。

 だが、そうなればそれは本章の最初に記した編集権の放棄となり、みずからの生命を絶つことになってしまう。 そしてそれが読者にとっては「どうなっているんですか、さっぱりわかりませんなあ」となるわけである。 「報道とは何かの問題」は結局は、冒頭で記したことに戻るであろう。 
 だがここに問題がある。 それは思想性なき者が編集権を行使しうるかという問題である。 というのは、報道機関とは一種の思想の表現であり、この場合がそれがまず毛沢東主義であり、次がそれが崩壊した後の状態なのである。 しかし記者は、前者を毛沢東主義に基づく見方とは意識せず、そのため「意識された図式化」という自覚がない。 と同時に後者にもその自覚がないから、常に「報道される機関」となっているからである。」

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posted by Fukutake at 08:15| 日記