2023年03月25日

自分の死を死ね

「文学的人生論」 三島由紀夫 知恵の森文庫 2004年

死の分量 p36〜

 「刀剣や槍や弓矢は人間を個別的に殺すにすぎない。 ホメロスの叙事詩には、煩をいとわず、戦場や私闘における人間の個別的な死が列挙されている。 神話時代のギリシャ人は馬さえ知らなかった。 異国人の戦士が馬に乗って来るのに怖れおののいて、ケンタウロスという怪物のイメージを創造したくらいである。

 ポリス的結合が生ずると、ギリシャ人の世界はポリスがその全部だった。 さらに植民地が開拓され、植民地がかれらの世界に加わった。 しかしポリスが滅びることは、かれらの世界が滅亡することだった。
 ローマ時代にいたって、世界は大いに拡大され、イギリスからスペイン、アフリカから小アジア以東にまで、大羅馬帝国の版図がひろがる。 これはヨーロッパ人が発見した最大の世界であったと思われる。 なぜなら奴隷をのぞいてローマ人たちは皆個別的な死を死ぬことができたが、かれらの死は毫もローマの永生を疑わず、ローマを滅ぼすに足るほどの破壊力は、まだ発明されていなかったからである。

 中世における世界像の縮小とコロンブスのアメリカ発見による再拡大、近世における植民地の争奪による終局的拡大、…こういうものを通じて、前大戦後の失敗に終わった国際連盟あたりから、世界国家の理想が登場してくる。 第二次大戦後にもこの理想は、国際連合の形で生き延びている。

 そこで問題は、原子爆弾と国際連合との宿命的なつながりに帰着する。

 われわれはもう個人の死というものを信じていないし、われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、個性的なところはひとつもない。 しかし死は厳密に個人的な事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることはできないのだ。 死がこんな風に個性を失ったのには、近代生活の画一化された生活様式の世界的普及による世界像の単一化が原因している。

 ところで原子爆弾は数十万人の人間を一瞬のうちに屠るが、この事実から来る終末感、世界滅亡の感覚は、おそらく大砲が発明された時代に、大砲によって数百の人間が滅ぼされたという新鮮な事実のもたらした感覚と同等のものなのだ。 小さな封建国家の滅亡は、世界の滅亡と同様の感覚的事実であった。 われわれの原子爆弾に対する恐怖には、われわれの世界像の拡大と単一化が、あずかって力あるのだ。 原爆の国連管理がやかましくいわれているが、国連を生んだ思想は、同時に原子爆弾を生まざるを得ず、世界国家の理想と原爆に対する恐怖とは、互いに力を貸し合っているのである。

 決してわれわれは他人の死を死ぬのではない。原爆で死んでも、脳溢血で死んでも、個々人の死の分量は同じなのである。 原爆から新たなケンタウロスの神話を創造するような錯覚に狂奔せずに、自分の死の分量を明確に見極めた人が、これからの世界で本当に勇気を持った人間になるだろう。 まず個人が復活しなければならないのだ。」

(一九五三年九月二五日)
----

posted by Fukutake at 08:11| 日記