2023年03月24日

死の効用

「ココロとカラダを超えてーえろす 心 死 神秘」 頼藤和寛 ちくま文庫 1999年

死の功徳 p170〜

 「死というものにも功徳がないわけではない。
 それは世俗の一切をー学問、芸術、名誉、職業、地位、業績、子孫、文化、歴史、人類その他、我々が日頃大層に思いなして振りまわされているあらゆる観念と存在の混合体を一挙に無意味化する。 ほとんどのものは死の前で無力である。
 真理は、愛は、至高の善は、永遠だといわれるが、そもそもそれらはなんのための真善美か? その「何」の方が無化するのである。ルイ十何世だかの言葉として、apres moi, le deluge が知られている。「我れ亡きあとには、大洪水であれ何であれ」。

 我々が父祖の代々にわたって営々と築きあげてきたあらゆる区別、貴賎貧富・正邪善悪・美醜巧拙その他の価値的二分法がすべて百円均一に売り払われてしまう。 これは絶対の公平さがある。 これほど徹底した公平はない。 人間が寄ってたかって勝手に決めた申し合わせの総体が、死という巨大なマカダムローラーによって一様均一に均(なら)される。
 それは恐るべき無道徳であり不条理であるが、そもそも道徳や条理というのが世俗間内部でのみ意味をもつ約束事にすぎなかったのである。 人間が何をとりきめようと何を夢想しようと、全くお構いなしに死のローラーが転がっていく。
 これほど小気味のよく無慈悲に、かつ公平に地均しする契機を世界は他にもたない。

 死の功徳は、これにとどまらない。それは、もし死がなければどうなるか、をちょっと考えるだけで分明となる。
 生物には「死の戦略」なるものがあって、各発達段階の死亡率はそれなりの適応的意味を有している。 限られた生息領域と生活資源、および分布密度が生殖可能期間と組み合わされて厳密に数学的な解析を許す合理性でその種(スピーシーズ)の死をデザインしている。多くの個体には死んでもらわねばならないのである。 そして全ての個体が最後に死なねばならない。 さもなければ種全体が亡びる。この本体が亡びないためには、たくさんの幼生が間引きされ、かつ生殖期を越えた成体にも増大していく死亡率を課さねばならない。

 老年の意義とは、人間社会内部でこそあれこれのメリットを考え得るにせよ、生物学的には用済みの娑婆塞ぎ以上のものではない。 それどころか食物と酸素を一人前に費消する危険な存在である。
 人間は社会と文化とヒューマニズム、そして余剰の生産力のおかげで姥捨山を復活させずにすんでいる。 しかし、これも多くの老人が七、八十歳でポロポロ死んでいくからこそ今日なんとか保てている制度なのだ。実際、不老長生が実現するなら、まさに人類の危機であろう。

 畢竟、我々は死によって脅かされ、かつ救われているのだ。」

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posted by Fukutake at 07:40| 日記