「漢詩名句 はなしの話」 駒田信二 文春文庫
長安一片の月 p271〜
「李白(七〇一〜七六二)の詩句のなかで最も広く人口に膾炙しているのは「白髪三千丈、愁いに縁って箇(かく)の似(ごと)く長し」とともに「長安一片の月、万戸衣を擣(う)つ声」であろう。「子夜呉歌」四首のうちの「其三」の秋の歌の冒頭の句である。
長安一片月 長安一片の月
萬戸擣衣聲 万戸衣を擣つ声
秋風吹不盡 秋風吹いて尽きず
總是玉關情 総て是れ玉関の情
何日平胡虜 何れの日か胡虜を平(たいら)げて
良人罷遠征 良人遠征を罷(や)めん
第二句の「衣を擣つ」は、絹を石の台の上に置き、棒や槌で打ってやわらげたり艶を出したりすること。砧(きぬた)。第四句の「玉関」は玉門関。 今の甘粛省敦煌県の西にあった関所で、当時は西北の戦場への出口であった。「玉関の情」とは、玉門関の彼方へ出征している夫を思う情。第五句の「胡虜」は西北の異民族。
長安の空に月が冴えわたっている。
どの家々からも砧をうつ音がきこえてくる
秋風が吹きつづけていてやまない
その秋風にかきたてられる私の思いは、玉門関のかなたにいる夫のことばかりである。ああ、いったいいつになったら北のえびすを平げて、あなたは遠征をやめて帰ってくるのだろう。
当時、長安は人口百万を越える大都会たったという。「長安一片月」という広大な叙景からはじめて、次第に焦点を長安の一軒の家の、遠征している夫の帰りを待ちわびている一人の妻の嘆きにしぼっていく手法が、まことにすばらしい。
佐藤春夫に次のような訳詩がある。
砧
都の空に月冴えて
巷巷(ちまたちまた)に打つ砧
野分にまさるすさまじさ
みな前線を慕う音
醜(しこ)の胡(えびす)をことむけて
君かえります日はいつぞ
土岐善麿にも訳詩がある。
妻のなげき
都の空に月冴えて
きぬたぞひびく家ごとに
ただふきしきる秋風の
関路にかよふ うきおもひ
いつかあだをうちはてて
帰るわが夫(せ)を迎えまし
「長安一片月」という広大な叙景は、訳詩ではとても出し得ないのであろう。」
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