「運のつき」 養老孟司 新潮文庫 平成十九年
自己チューの社会的意味 p146〜
「純粋行為というのは、悪い意味では自己中心です。 とりあえず他人のことなんかかまわないということですから。 子どもというのは、しばしばそういた自己チューですよね。 そうした行為をあえて大人がやる。 過去の社会は、そこにある意味を置いていたはずなんです。 それが大学であり、修道院だった。 それが根本から変わってきたわけです。 そうした自己チューの社会的意味が不明になってきたんでしょう。
現在の日本は少子化です。 子どもが少ないのと、こうした大人の自己チューが許されなくなってきていることは、無関係ではないと思います。 「子どもも人間のうち」ですが、現代人はおそらくそう思っていない。 おそらく「まだ子どもだからダメだ」と思っているのです。
以前なら「大学の人間は子どもっぽい」で済んだのですが、そうはいかなくなった。 大学人も大人にならなければならない。 それなら純粋行為をしている暇などない。 私のように、学問を純粋行為だと思っている人間は、近未来的な大学像にいちばん合わなくなってきているわけです。 なにしろ「開かれた大学」なんですから、そこで行われていることは、世間の人々が「理解できる」ことじゃなきゃいけない。 いいたかないが、世間はおもに利害で動いています。
個人のすべての行為が、社会的な意味合いにおいてのみ、把握される。 これは世界全体の政治化とも呼べる現象です。 お金になるかどうか、そういう配慮もここには含まれています。 それは政治化というより経済化ですが、「社会的な意味合い」という点では、政治だろうが経済だろうが、同じことです。
私はそうした傾向を世界の北朝鮮化と、勝手に自分で呼んでいます。 ジョージ・オーウェルの世界だと思う人もあるでしょう。 北朝鮮なら、すべての金正日化ですから、わかりやすい。 ところがIT化、情報化だと、それがわかりにくいんですよ。 そのなかでは、さまざまな選択肢があるように見えるから、「自由だ」と思い込んじゃう。 でも「それ以外」という選択肢が、いつの間にかなくなってくるんです。 現在のイスラムのテロは、深いところでは、そこからの主張でしょうね。」
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金儲けしか頭にない