「清朝史通論」 内藤湖南 東洋文庫 平凡社
「清朝衰亡論」より 満兵と明兵との比較 p303〜
「…日本のやうに段々戦いが酣(たけなわ)になるに随つて短兵で戦ふ、今日の詞でいへば白兵戦をするといふことが良いか悪いか、是は別問題として、兎に角其の陣立ての仕方から見ると、日本の方よりか臆病な陣立ての仕方であるといふことは明らかである。詰(つま)り矢などを射られても少しも恐ろしくない者を真先に立てて其の蔭から戦いをする遣り方である。是で先ず日本の兵に比べた所の強さの程度といふものは大分明瞭に分かる。日本兵のやうに初めから敵に打たれるといふことを覚悟して遣るのと少し訳が違ふやうに見える。
それから之を蒙古の盛んな頃の兵に比較すると、是は一寸時代も違ふので、さういふ陣立ての上から比較も出来ぬが、兎に角戦争をした成績から見ると、矢張り蒙古の盛んであつた時、即ち元の興る時の戦の仕方は非常なものであつて、其の相手になつた国、金でも南宋でも、それに対抗することの出来るやうな仕方ではなかつたのであるが、満洲の興る時には、満洲と対抗した明朝の戰の仕方でも相応に対抗が出来たのである。それは明兵が強いからと云ふと決してさうではない。満洲軍があまり強くなかつたのである。それは明の兵の強さは是は日本の朝鮮征伐の時に日本兵との比較が取れて居るが、それが戦に慣れた所爲でもあるか、明が末年になつてから段々却つて満洲の兵に対抗し得るやうになつて来た。尤も明の方でも最初は満洲の兵が大分強いといふので、野戦をするのは不利であるといふことになつて居つて、明の弱い兵をどういふ風にして満洲に対抗させようかといふことに就いては、明末に遼東を経略した袁崇煥などが余程考へて苦心した点であつて、それに就ては野戦をしては損であるから、堅固な城壁を作つて、さうして其の時分初めて西洋から輸入された火器で以て打払ふといふことになつて、それで先づ明の兵が満洲に対抗するといふ素地を作つた。
所がそれが果して当つて、今までは太祖は殆ど百戦勝たざることのなかつたのが、寧遠といふ処の城を攻めた時には、今言ふ流儀で城壁を固めて西洋の火器で以て防ぐといふ手段の為に、詰り清の太祖が敗北した。今まで一回も敗けたことがないのに酷く敗北して、それを苦に病んで死んだといふことであるから、此の方法は明軍に於いて大いに当つたのである。当つて勝つて見ると、満洲の兵もさほど恐ろしくないといふ自信が出来て、段々明の兵からも強いものが出た。祖大寿、祖大弼といふ兄弟の名将があつて、(尤も後には満洲に降参したが)殊に其の兄弟の中で弟の祖大弼は非常に強いので、或る時は清の太宗の陣営に迫つて、さうして短兵で接戦して、殆ど太宗の馬腹を切り付けるまでに切込んだといふことがある。又或る時には太宗の陣営に夜襲を企て、火薬を陣営で爆発させて大いに決戦したことがあつて、明の兵もなかなか後には強くなつたのである。それであるから、明は滅びた結果として満洲に土地を横領されたけれども、其の実、明の兵は満洲兵の為に亡ぼされたのではなく、内乱に亡びた処へ、満洲兵が北から之を襲ひ取つたので、非常な僥倖もあるのである。尤も是だから満洲兵が弱いとも言へぬが、蒙古のやうに当たる所敵無く支那人を切り平げて国を取つたのと大変に違ふ。先づ強さの程度は最初からそれ位のものであつたのである。」
----
支那人の強さ!?