「虫目とアニ目」 養老孟司 x 宮崎駿 新潮文庫 平成二十二年
日本という文化 p180〜
「宮崎作品は、宮崎駿という人柄の表現でもあるが、それはアニメという方法を通して、結局は日本の伝統を語ることになる。方法自体が日本的であり、語られる内容が日本的であるからである。『千と千尋』の魔女は、姿かたちが西洋の魔女だが、そういうものを取り込んでしまうのも日本文化だと、だれでも知っている。しかもあの婆さんの部屋に行くまでの廊下の調度品といえば、どう見ても中国の花瓶なのである。このゴタ混ぜが日本文化でなくて、何が日本文化か。
伝統文化といえば、能だ歌舞伎だ茶の湯だという。それはそれでいい。しかしゴタ混ぜもまた、日本文化そのものである。能衣装を子細に見れば、どう見ても中近東由来じゃないかという、派手な唐草模様のパッチだったりする。茶の湯の袱紗のさばきは、カトリックの聖体拝受と同じだという説が以前からある。知的所有権などというものは、特殊な時代の、特殊な世界の産物である。独創性とか、個性とかいうが、真の独創なら、他人はそれを理解できない。他人に理解できるなら、それはべつに独創ではない。いずれだれかが考えるはずのこと、それをたかだか最初に思いついたというだけのことだからである。個性もまた同じ。まったく個性的ということは、他人の理解を超越することである。その意味で「個性的」な人に出会いたいなら、精神病院に行った方が早い。
普遍性というのは、深さを備えた共通性である。アニメがそういう普遍性を帯びていることを、そろそろわれわれは自信を持って認めるべきであろう。「あんなものは」「所詮マンガ」。その種の感覚は根強く残っている。西欧文明にはとくにその傾向が強い。イスラムもそうかもしれない。なぜならかれらは、聖書やコーランを持っている。それはまさしく言葉で書かれているのである。
『方丈記』は日本風の哲学書である。しかしたいていの人はあれを哲学とはいわない。情感に満ちているからであろう。哲学は理屈だから、情緒が欠けているし、欠けて当然だと思っているらしい。それなら宮崎作品を思想だと思わないのも当然であろう。マルクス・エンゲルス全集のように、文字がいっぱい詰まって退屈でなければ、思想ではないと思っている。それならデカルトに情感はないか。逆であろう。たとえば『方法序説』は情感に満ちてる。さすがに哲学者はそれがわかっているから、人によってはあれを浪花節と評するのである。」
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