2023年01月30日

ソフィスト

「田中美知太郎全集 26」 筑摩書房 平成二年 

政治とソフィスト p109〜

 「…プラトンはソフィストの実用的な政治技術について、この智慧の教師をもって任じている者(ソフィスト)は、

 「この巨大な動物(国民大衆)が思いこんでいることや欲求しているものうち、そもそも何が美であり醜であるのか、何が善であり悪であるのか、何が正であり邪であるのかについては、本当は何も知らない者なのだ。そしてただこれらすべての名前をかれら国民大衆の思いなすところに依拠して使用しているだけなのである。すなわち、この動物の悦ぶところのものを善と呼び、それの反発を買うようなものを悪と呼び、ほかにはそれらについて根拠となる理由をあげることはできないのである。」

 と批評しているのである。ここで「本当は何も知らない」と言われている「無智」こそは、かの『ソクラテスの弁明』において、「善美のことは何ひとつ知らないのに」それを知っているかのように思っているとされた「無智」にほかならないのである。そこに欠けているとされるのは専門技術の知識のことではないのである。ソクラテスはそういう知識が専門家たる職人にあることを認めなければならなかった。しかしそういう人たちは、専門外のことについても専門のことと同じように知っていると思いこんで勝手な発言をしているのを発見したのである。そして当然知っているに違いないと思った政治指導者のうちにこの無智を発見して驚き、更に他の作家たちのうちにもそれを発見しなければならなかったのである。そしてその無智に気づかせることを神命による自分の務めと信じて、その仕事に一身を捧げて死なねばならなかったのである。

 つまり実用政治学とでも呼ぶべきものについては、まさにその実用性がそれの使用され利用されるという手段的召使的な位置を示しているから、むしろすべてを利用し使用する立場にあると考えられる政治の究極性に対応すべき真の政治学ではないことが知られるのであり、また美醜善悪正邪の判断においては、ただ世人の感情や欲望に合わせてそれらを美名として利用するだけで、それらについて何も考えることをせず、その無智と無関心に気づき自覚するところもないから、政治に求められている指導性をもつことができないと見なければならないのである。そこに求められている指導性こそ、政治の智慧に期待されるものであり、またこれこそ求智としての哲学によって探求されているものとも見られるのである。」

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果たして、真の哲学は思惟の中にだけあるものか。

posted by Fukutake at 11:47| 日記