「宮ア市定全集 別巻」 ー政治論集ー 岩波書店 1993年
李忠王自伝(太平天国) p438〜
「太平天国の根拠地である南京の天京(てんけい)が湘軍の包囲攻撃をうけて陥落したさい、忠王の李秀成は幼主、洪福瑱(こうふくてん)を助けて脱出した。 山中に逃げこんで匿れていたところ、密告者があって湘軍の捕虜となった。
攻囲軍の両江総督、曾国藩はことのほか忠王を優遇した。 優遇したといっても、捕虜となった重大犯人であるから厳重な木製の檻(おり)、囚籠を造って監禁しておいた。 曾国藩は李秀成に紙と筆墨を与えて、供状(くちがき)を作らせたが、李は要求に応じて、せっせと筆を運び数万字に及ぶ長文を作成した。 その自筆の原稿がそのまま、曾氏の家に蔵されていることが最近になって分かった。 これが「李秀成供」または「李忠王自伝」などと称せされるもので、数種の刊本が発行されている。
「自伝」の大部分は李秀成自身の経歴を述べており、史料としての価値はもちろん重要であるが、興味深いのは末尾の部分である。 そこで彼は、太平天国の歴史を回顧してその犯した過失を反省すると共に、今度は清朝の立場から考えられる当面の大問題についての対策を述べている。 その一は太平天国の首都は滅亡したが、なお地方には多く残っている太平軍に対する措置、その二は内乱中にいよいよ重みを加えてきた西洋勢力の侵入に対する防衛策である。 そしてもし朝廷が李秀成の罪過を赦免するならば、この問題に関して応分の協力を惜しまない、という態度を示している。 これは李秀成の転向、乃至は投降に外ならない。
「李秀成自伝」に関し、最近の中国本土の学界で問題となったのは、この投降が中心とされている。 果たして本心から投降したのなら革命の勇将であった筈の者が見下げはてた根性だとするもの、或いは彼は偽って降参する体をとって再起を計ろうとしたと弁護するものなど、賑やかな論議を巻きおこした。 しかしわれわれ第三者の立場から見ると、これらの論議はあまりに観念的で少し頭がおかしいのではないかと思う。
南京陥落で大勢はすでに決定したが、地方にはなお数十万の太平軍が残されて各地で転戦している。 李秀成が普通の人情をそなえた人間ならば、何よりも先ず彼等の生命のことを考えずにはおられない筈である。 そこで曾国藩に勧めて彼等を招降させ、生命だけを助けてやりたいと運動するのは極めて自然の成り行きである。 盗賊、もしくは叛乱軍を招降するのは中国に昔からある慣行で、そのために招安という特殊な言葉さえできている。 招降した上は安堵させるという意味である。
これに協力することは、李秀成にとってはもちろん転向を意味する。 しかしこれについて彼自身ははっきりと、既に天王洪秀全が死んで国も滅びた以上は自分は単なる一個人だ、という意味のことを言っている。 すなわち彼は洪秀全との間に君臣にも似た関係をもち、これに忠を尽くすつもりであったが、それ以上のものではなかった。 彼にはそれは革命運動だというような自覚はなかった。 現代の人がそこへ近代的な革命思想を吹きこんで膨らました上で議論しても始まらない。 太平天国はそんなに価値ある革命運動とは思えない。 一般民衆としてはどちらが勝ってもよい。 早く済んでくれることだけを望んでいたであろう。」
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中共は頭がおかしい