「辞書はジョイスフル」 柳瀬尚紀 著 新潮文庫 平成八年
漱石の英語 p185〜
「吉田健一という、とてつもなく英語のできた人は、夏目漱石の英語力を認めていない。
吉田健一に『東西文学論』という名著がある。 もっともこの人には名著しかない。 それにおさめられている「夏目漱石の英國留学」のなかで、吉田健一は、漱石がロバート・ヘリック(十七世紀のイギリス詩人)の詩を読むには「完全な音感に缺けて」いると断じている。 漱石先生も形無しだ。
あるいはさらに、マシュー・アーノルド(十九世紀のイギリス詩人の「ドヴァー海岸」というかなり有名な詩も、吉田健一によれば、漱石先生はてんでわかっていないという。 その詩に出てくる「grating roar(軋るような轟音)」という言葉について、漱石は「騒がしき字面(じづら)なり」と述べ、「周圍の狀況に調和なき此(この)二字は其(その)調和なき點に於いて大いに効力を有する」と、さすがに文豪らしい解釈を示す。 ところが吉田健一は、それをこう批判する。 吉田健一の文章を初めて読む読者は、文章の呼吸にいきなりなじめないかもしれないが、あえて旧字・旧かなづかいで引く。
『これは全くこの言葉を眼だけで讀み、その意味に氣を取られるてゐから騒がしいと感じるのであつて、實際はこの言葉の頭韻*を踏んだ音がそれまでの詩句と一體をなし、後に出て来る「哀痛の音」への轉機となるのに丁度いい程度に、字引でこの言葉に與へられてゐる意味を和げてゐるのである。 そしてここで強調して置かねばならないのは、かういうことが英國の文學をよく知ってゐるものでなければ解らないことなのではなくて、その知識の初歩、或は基礎をなすものであるといふことであつて、獨創や獨断を試みるのはそれから先のことなのである。』
本書は辞書についての本であり、文学についての本ではないのに、これを引用したのは、とくに「… 丁度いい程度に、字引でこの言葉に與へられてゐる意味を和げてゐる」というところに、それこそ注意を払ってほしいからだ。 注意を喚起したい、というより換気したいわけである。
本書を書き進めながらずっと思っていて、しかしまだ語っていないことがある。
筆者は、とにかく辞書を読んでもらいたいからこそ、こうして書いている。 辞書の面白さを伝えたいからこそ、こうして書いている。 誤解しないでいただきたいが、筆者はけっして、狂信的な、あるいは狭心的な辞書信者になりましょうなどとは、いっていないのだ。
言葉は辞書のなかにあるかぎり、言葉を聞いたり読んだりするということは、言葉を辞書のなかへ連れ戻す、あるいは言葉を辞書に従属させるというようなことではないのである。
字統(平凡社)の白川静も『漢字百話』(中公新書)のなかで述べている。
「漢字は機械的に教えられるものではない。 覚えるものであり、悟るものである。 ことばは文章になかに、作品のなかにある。」」
頭韻*(法)密接に関連した音節が同じ音の子音または文字で始まるものを指す
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