「小林秀雄全集 第七巻」− 歴史と文學− 新潮社版 平成十三年
傳統 p247〜
「志賀直哉氏が、昭和三年の創作集の序言に次の様な文句を書いてゐます。
「夢殿の救世觀音を見てゐると、その作者といふやうな事は全く浮かんで来ない。それは作者といふものからそれが完全に遊離した存在となつてゐるからで、これは又格別な事である。文藝の上で若し私にそんな仕事でも出来ることがあつたら、私は勿論それに自分の名などを冠せようとは思はないだらう」
これは、言ふまでもなく、志賀氏が、夢殿の救世觀音を見て感じた、恐らく強いある單一な感じを、極めて率直に語つた言葉なのでして、これを讀む僕等の心には、この單一な感じは、はつきりと傳はります。これが傳統といふものの感じなのであります。傳統が見付かつたといふ感じなのであります。傳統についてお話ししようとして、何故、傳統の感じなどといふ事を言ふかといふと、傳統といふものは、結局僕等が感得する他はないものだと信じてゐるからです。傳統といふ概念は、まことに曖昧なものであり、これを正確に合點しようとしていろいろ論じてみたりしても、それはさういふ事であつて、決して伝統に推参する道ではない、さういふ風に考へてゐるからであります。(中略)
救世觀音をみてゐると、その作者といふ様な事は全く浮んで来ない、と志賀氏が言ひます。何故だらうか。そんな疑問も全く志賀氏の心には浮んで来ない、そして苦もなくかう言ひ切るのです。それは、この作品が作者といふ様なものから全く遊離した存在となつてゐるからである、と。いかにも單純な考へ方である、といふのは易しい、併し、或る立派な藝術家が、ある過去の立派な藝術品を鑑賞するに際して、たしかにこれだけの言葉しか必要としてゐないのだといふ事を、ほんたうに合點しようとすると、なかなかこれは易しくないのであります。
勿論、救世觀音の作者はあつたし、作者が生活してゐた時代といふものもあつた。そしてさういふものを調査して、さういふものに關する知識を豐富にし、どういふ風にしてかういふ作が出来上つたかを知る事が、救世観音といふ作品を一層はつきりと理解する所以である、さういふ考へは、現代人の常識となつてをります。藝術作品が時代や環境の産物である以上、藝術作品の意味も美しさも、要するに、これらのものの作用した結果なのであるから、さういふ考へ方に、何も間違つた處があるわけではないが、さういふ考へ方から、志賀氏の言葉をいかにも子供らしい氣まぐれな言葉と解するのは、非常な間違ひであります。立つてゐる場所が全く違ふのだ、前者は、飽くまで藝術品を觀察し研究する立場から考へるのだが、後者は、藝術品を愛し創り出す立場から考へてゐるのです。」
(初出)「新文學論全集」、昭和十六年六月
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