2023年01月24日

写すに手なし

「小林秀雄全集 第十巻」− ゴッホの手紙 − 新潮社版 平成十四年

「天井桟敷の人々」を見て p160〜

 「フランス映畫「天井桟敷の人々」の試瀉を見せてくれるといふので出かけたが、三時間半の長編だと言はれて恐れをなした。二日酔ひで頭も重く、大概、途中で寝て了ふであらうと思つて、坐つてゐたが、たうたう終ひまで眼を開けてゐた。何がそんなに樂しかつたのか、私にははつきり言ふ事が出来ない。從つて感想を求められても困るのであるが、出来のよい映畫といふものは、皆そんなものであらうか。

 役者は大變巧みだと思つた。科白(せりふ)なども私の語學力で推察出来た限り、見事なものだと思つた。筋も登場人物の心理や性格も、まことに陳腐なものであるが、陳腐であればこそ、監督も役者も、あれだけにまとめ上げられたに相違ない。

 或る雜誌の座談會で、梅原龍三郎さんがこんな事を言つてゐた −−
「要するに繪といふものは、物を寫してゐて決して間違ひないもので、相撲に押すに手なしと言ふ如く、繪かきも寫すに手なしと言へるのだ」

 面白い言葉だ。ピカソの仕事だつて其處から始まつてゐるに違ひないのである。役者なら物眞似に手なしと言ふべきであらうが、原作によつて、どんな人間の物眞似を強ひられるか解らぬのが辛い處であらう。コクトオやサルトルの斬新な映畫を見てゐると、役者のこの辛い處がよく感じられるやうに思ふ。サルトルの「汚れた手」の映畫が来たが、これではとても入りがあるまいといふ事で、封切は止めになるさうである。試瀉を見たが、成る程さういふものだ。大衆的魅力を缺いてゐるといふ事は、何んとしてもこの映畫の大缺點であると思つた。登場人物は、皆めいめいの複雜な奇怪な孤獨を抱いてゐて、本来ならお互いに劇など起こしたく連中なのである。それがひよんな事から劇を始める。まるで劇といふメカニズムを強ひられたやうなものだ。これでは役者が辛い。梅原さんの言ふのとは全く違つた意味で物眞似に手なしである。眞似をしようにもお手本の人間は既に壊れてゐる。」

(「讀賣新聞」、昭和二十七年二月)

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posted by Fukutake at 07:56| 日記