「宮ア市定全集 24」 ー随筆(下)ー 岩波書店 1994年
同時代史 p43〜
「人間は現代に生活していながら、現代について知らない部分が非常に多い。 それは故意に隠蔽された部分が多いことからくる。
同時代史は自分が体験した雰囲気をそのまま伝えるとともに、それがはたして理由のあるものであったかどうかについて、たえず反省を加えねばならぬことは言うまでもない。 たとえば日露戦争後の講和談判の条件を不満として、焼打ち騒動が起こったときなどは後世から見て、それがどうももっともな理由のある雰囲気だったとは考えにくい。 これと同じことは外国でも起こっているに違いない。 アメリカにおけるいわれなき排日運動などは、正にその例だ。 単に大ぜいが騒ぎさえすれば、それは正しい民衆の怒りだ、などといえるものではない。
私は上海事変のさい、陸軍少尉として第十四師団に加わって占領地の警備に当たった経験がある。 現地について驚いたのは、軍部には何ひとつ戦争の準備ができていなかったことである。 上海附近の地図には一番大事な呉淞(ウースン)から上海までの新築軍工路が書きこんでなかった。 江蘇省の概要を記した小冊子には、南京に「督軍」がいると書いてあった。 いやしくも人を戦場に送りこもうというのにこの怠慢さは何たることか。 だからこそ、空閑(くが)少佐が捕虜になるような事件も起こったのだ。 軍部のだらしなさは十分責められてよい。 当時の外国駐在武官という人には文部省留学生の何倍かの高給を貪っていながら、よくない方面に遊びほうけているのが多かった。 それがそのまま太平洋戦争まで、だらだらと続いて来たのだった。 だから精鋭無比の筈の潜水艦は少しも役に立たず、巨大戦艦はぶくぶく沈没してしまった。
当時の国民は内では腐敗した政党・官僚・軍部に半ば愛想をつかしながらも、ただ外国からの圧力のきびしさの前に、不満を伏せて滅私奉公に努めていたのであった。 おそらく大部分を占める国民のこの気持ちは是非書き残しておかねばならぬ。 ところが戦後になると、こういうことをいうための国民的足場がいつのまにか敗戦ムードの波に洗い流されて、あとかたもなく消え失せてしまった。 そして戦時中の外国に対して犯した罪悪と、少数指導者に対する弾圧だけが問題にされるようになった。 それはもちろん忘れてはならないことだが、苟(いやしく)も国籍ある言論なら、絶対多数を占める平凡で善良な我々市民の気持ちこそ第一に取り上げられるべきではないか。 敗戦ムードは一時的に日本人から国籍を取り上げてしまった。 もうそろそろ国籍を取りかえしてよいころだが、 うっかりすると又もや神がかり思想が復活して、みそぎをした人にだけ国籍を再交付しようなどと言い出さぬとも限らぬ。 これがまた日本人の皮膚感覚にぴたりとしそうなので、その危険度はかえって高いのを警戒せねばならぬ。
同時代史を書くには、過ぎ去った時期のムードを批判すると同時に、現時のムードに対しても厳正な批判が必要だ。 歴史家は何ものにも溺れてはならない。」
(『東洋の歴史』第十一巻「中国のめざめ」 月報十一、人物往来社、一九六七年八月)
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怒り心頭