2023年01月21日

学問の大切さ

「哲学談義とその逸脱」 田中美知太郎 新潮新書 昭和六十一年

知育偏重ということ p62〜

 「知育偏重が言われるのは何も今に始まったことではない。 戦前にもよく聞かされたことである。 お隣りの国でも、かの四人組と言われる極左派が権力の重要な地位を占めていた頃、大学の入試に学力検査を排撃して、農村へ何度手伝いに行ったとか、毛語録をどう実践したかとかいうことで、入学希望者の銓衡*をしたというようなことを聞かされたように思う。 戦時中の日本でも、これに似たようなことが行われたのではないか。 試験場のどこかにつくられた神棚に、どういう対応をするかというようなことが、試験の大事なポイントになっていたりするわけである。 無論このようなことにも、それなりの意味があって、これを全く無意味と言い切ってしまうことではできないかも知れない。 しかしこれが学力を無視したり、知育を排斥したりする考えといっしょになって行われたりすると、どうも意味がちがってくるようである。 かの文化大革命とか称するもののために学問研究が阻害され、そのレベルの低下がいちじるしいことにもなったと言われている。

 わたしの考えでは、教えたり学んだりすることのできるのは知識だけであるという、プラトンのソクラテス対話篇に立てられているテーゼみたいなものが、教育論の前提として一応認められていいのではないかと思う。 といっても、その教育というのがいったい何なのか、既に問題であるという批判が、すぐに出てくるだろう。 これに対しては、教えたり学んだりすること、あるいは教えられ学び知ること、もしくは教えて学び知るようにすることが教育だということを、一応の答えとしたい。 これもわたしが自分で考えた定義というようなものではなくて、ソクラテスの問答から学んだだけのものである。 要するに教えたり、学んだりすることが教育のすべてだということである。 そして学問というのは、教えたり学んだりすることができるように順序よく組織された知識にほかならないと言うことができるだろう。 そうすれば、学問知識と教育は表裏の密接な関係にあるということがすぐにわかる。 要するに、われわれが教育を受けるということはわれわれが学問をするというだけのことなのである。 無論こんな風に言ってしまえば、いっせいに反対の声があげられることは明らかである。 これこそまさに知育偏重の教育観であると言われるだろう。

 どうも教育を学問知識だけに限ろうとするのは、あまりにも狭い範囲に限ろうとするものだと言わなければならないようである。 これはソクラテスやプラトンの主知主義的な思想傾向にわざわいされた結果であろうという批評も出るかも知れない。 あるいはむしろこれは大学で教えたことしかない人間の、きわめて偏狭な判断にすぎないとやっつけられることになりそうである。 教育にはまた幼稚園や小中学校の教育があり、さらに幼稚園教育以前の幼児や胎児の教育までがあって、これこそが教育の本来の領域なのだとも言われるだろう。 そこでは学問をするなどということよりも、しつけをすること、社会的訓練をすることが教育の主たる仕事になるのではないかとも考えられる。

 しかしこの種の拡大解釈は、そのうちにはっきりした区別の認識がないと、漠然たる一般論になってしまって、実効はあまりないことになる。 否、むしろわが国の一般論の例にもれず、概念の拡大によって意味をあいまいにし、これに乗じて逆にきわめて偏狭な見解を、一般論の看板の下に無理にも押し通そうとする試みとなったりする危険があると言わなければならない。」

銓衡(せんこう)* 人物の適不適・能力などを調べて、選び出すこと。

教育=教えられ、学び知ること。 









posted by Fukutake at 09:50| 日記