「小林秀雄全集 第七巻」− 歴史と文学・無常といふ事− 新潮社版 平成十三年
梅原龍三郎 p451〜
「僕は、梅原氏の畫からよく音樂を聯想する。これは必ずしも僕が音楽好きだからではない様で、氏の畫には、音感を刺激する或る運動感覺がいつも現れてゐる様に思はれる。この畫集に見返しに、「古赤繪美人圖」といふのがあるが、繪模様といふ實體を缺いたモデルの御蔭で、畫才は殆ど樂才に變じてゐるとさへ感ずる。まるでキイでも叩く様に、赤や膽礬*(たんぱん)が塗られてゐる。尤も、効果は、肉聲の和聲であるが。この前の「梅原龍三郎近畫集」といふのの見返しの繪も好きな畫である。モデルは空だが、色感の赴くがままに繪筆のバランスをとつてゐる様な繪は、まるで空が鳴つてゐる様だ。この繪は、友人のところにあるので、よく見るのだが、見る毎に管樂器のかなり限定された旋律さえ聯想し、若しかしたら、かういふものが、この畫家の極樂といふものかも知れぬなどと思ふ。無論かういふ種類の畫は、梅原氏の餘技であらうが、餘技のうちに、氏のどの繪にも僕が感じる音樂性の極限が現れてゐるのを面白い事だと思つてゐる。めいめい感じ方といふものは違ふであらうが、僕はさう感ずる。そんな風に言ふより仕方がない、殊に梅原氏の様な畫家の純血種に就いて言ふ時には。だが、畫家の唯一の方法は、色だといふ單純な眞實の深さに、いつも立還り自問自答してゐるこの純血種にあつては、色調といふ言葉は、どうも尋常な意味を拔いてゐる様に思はれてならないのである。
梅原氏の繪は、文句なく極く普通な意味でも美しい。それが梅原氏の一般の人氣の出どころでもあるし、又、思はせぶりな繪の好きな人が、何か物足らなぬ様な口を聞き度がる所以である。幼稚かも知れぬが、人氣の方が恐らく正しい見方をしてゐる、というのが僕の考へ方だ。…
風景畫をとつてみても、江の浦でも櫻島でも、この畫集の北京風景でも、また最近の富士山でも、皆畫家を待たずとも名勝繪葉書として成功するものだ。こんなに名勝ばかりを、倦まず弛まず扱つてゐる人はない。自然は、この畫家から狙はれてゐる、さういふ風に狙はれるより他はない様な自然が、いつもこの畫家に現前してゐる。…」
膽礬* (たんばん) 銅の硫酸塩鉱物でる青い半透明の結晶体で、深く渋い青緑色のこと。
----