2023年01月17日

現憲法=武力不行使

「戦争論ー暴力と道徳のあいだー」 西部邁 ハルキ文庫 2002年

テロルの世紀 p43〜

 「「平成十三年九月十一日の米国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国連憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して…」という文句ではじまる百十三文字に及ぶ長文の「テロ対策特別措置法」が、子どもじみて拙(つたな)い国会議論の果てに可決された。

 この拙劣さの淵源は、日本国憲法第九条二項の「非武装・非交戦」はすでに死文である、それゆえそれについての憲法解釈もすべて反故とみなす、と宣言する気力と能力を持った為政者がいないことにある。 「憲法」は、これまで、ギリシャ演劇におけるデウス・エクス・マキーナ(機械仕掛けの神)であった。 つまり、人間たちの心理的・社会的な葛藤が頂点に達すると舞台の奥からカタカタと機械音を上げながらのぼってきて「神託」を示し、それによって場面の進行を促す、それがデウス・エクス・マキーナである。 「憲法」は戦後日本人の葛藤を救済してくれる神、ただしアメリカ製の機械、なのであった。

 小泉首相の「憲法に従って武力行使はしない、したがって武器弾薬の海上輸送は武力行使には当たらない」という手前勝手な論法は、実は、現憲法の精神つまり国民主権の思想に則(のっと)っているのである。 つまり、「憲法にしたがって国民を主権者とする、したがってたとえ国家を解体に導くものであっても国民の世論に従わねばならない」とみなされる、それが戦後という時代の、とりわけ「改革」という名の「失われた十年」の進められ方なのであった。 国民とは、「歴史の良識」は何であるかを探り、それが多少とも確認できたらそれをみずからの拠って立つ精神の地盤とする人々のことである、とはみなされていないのだ。

 今の日本では、アメリカのやり方に似て、ポリティカル・コレクトネス(PC つまり政治的正しさ)が社会正義の最後の拠り所とされている。 そしてPCとは何かといえば、結局のところ「多数派の意見」のことなのである。 そうあるべきだと「憲法」が規定してもいる。 これは(トックヴィルがいうところの)「知性に適用された平等主義」にほかならない。

 知性の多寡はそれに賛同する人間の頭数による、という野蛮な思想が環太平洋に広がっている。 このウルトラモダンな野蛮さは、PCによって排除される少数派のアンチモダンな野蛮を、つまり「自爆」によるテロルを繰り返し呼び込むことになるのであろう。

 活力・公正・節度を大事とするものが暴力という選択肢のことも配慮しなければならないというのは、いうまでもなく、矛盾である。 しかし活力・公正・節度という「平衡」の感覚は、軽はずみな「熱狂」を避けるためのものであるが、同時に熱狂がなければ保つことのできないものでもある。 私のような老境にさしかかったものには加わるのが難しいのだが、平衡維持のためのいわば「静かな熱狂」にもとづくヴァイオレンス、というものがありうるのではないか。 それを必要とするほどに時代は腐り切っているということである。」

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日本を解体に導くもの…
posted by Fukutake at 09:31| 日記