2023年01月15日

時の勢い

「宮ア市定全集 24」 ー随筆(下)ー 岩波書店 1994年

『京大東洋史』あとがき p480〜

 「『京大西洋史』の姉妹編として、『京大東洋史』編纂の相談を受けたのは昭和二十六年初夏のころであった。 出版書肆創元社に招かれ、われわれには不似合いな先斗町のどこかで、最初の執筆者打合せ会を開いた。 『京大東洋史』というのはおかしな名前だが、すでに『京大西洋史』が出てしまった後なので、それをそのままうのみにするほかなかった。

 この本が書かれたのはちょうど、北京に人民政府が成立して大陸をその支配下に収めた直後にあたる。 中京政権の中国歴史に対する考え方、或いは解釈のしかたは、そのころでもおおよその見当はつけられたが、われわれは別にそれに従う必要を認めなかった。 近頃になると、そういう中共的な歴史観がいよいよ強く打出されるようになったが、私はいまそれにならって『京大東洋史』を書き直そうとは思わず、それどころか、かえって先方の行き方に大きな危惧の念を抱かざるを得ないでいる。

 事実について『京大東洋史』が最近の中共史学の傾向と異なる点を二、三あげれば、太平天国の近代性をそんなに高く評価しないこと、胡適の文学革命や陳独秀の思想革命を比較的高く評価すること。 従って五・四運動を単独には評価しないことなどである。 清朝が征服王朝だからといって、これに反対するものはなんでもかでも義軍にしてしまい、胡適は反共だから、陳独秀は共産主義の失敗者だからといって、その当時の役割を無理に引下げようとするのはわれわれから見れば余計な苦労である。 われわれは中共史学がこれ以上この方向に突進せず、親ソ派がここらで矛を収めることを希望してやまない。

 およそ歴史には、個人的な愛憎や政治権力の都合でどんなに無視しようとしても、無視することができない客観的真実があることをわれわれは信ずる。 ただしこの客観的真実は自然科学のように、読者の目の前に実験して見せるわけに行かない。 ただ、無理はけっして長つづきせず、長い時間の経過のあいだに客観的真実のみが次第に明らかに現れてくるものだ、ということだけは確かだと思う。

 中国のことわざに「人盛んなる時は天に勝つ、天定まりて人に勝つ」という言葉がある。 勢いにのると人間は理法を越えて随分無理なこともやればできるが、やがて社会が安定を取りもどすと、無理をしたものが追出され番がくる、という意味である。 われわれは長い目で歴史を眺めたい。 もしもその点で、感激のない歴史叙述だ、と評されるなら評されても構わない。

  私は借金した金で相場をうつようなことをしたくない。 その日その日の上り下りで一喜一憂せねばならぬのはご免である。 たとえ小さくても自分のものを持って、それを守り育てて行きたいと思う。」

(『京大新聞』一九五六年十一月十九日)

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勢いは恐ろしい

posted by Fukutake at 12:02| 日記