2023年01月14日

積み上げ読書、使い捨て読書

「本が虫」 ー本の解剖学ー 養老孟司 法蔵館 1994年

読書のすすめ (その二)p226〜

 「『学問のすすめ』は、福澤諭吉の名著である。 『読書のすすめ』という名誉は、あまり聞いたことがない。
『読書のすすめ』という本を書くとする。 そういう本は、考えてみれば、本を読まない人のための本である。 本を読まない人のために、本を書く。 それ自体が自己矛盾だから、そういう名誉がないのであろう。 たとえ本を作るだけのことにしても、それなりの論理性は必要である。

 本など読むな。そういう忠告は何度か、本の中から、受けたことがある。 これも自己矛盾の一種だが、デカルトの『省察』だって、そう言えないことはない。 「世間というより大きな本を読むために」デカルトは旅に出た。 そのくせ、自分はその結果を本に書く。 モンテーニュも本を読むなと、「エセー」のどこかに書いていたはずである。

 私は、大学院生の頃、本をあまり読むな、という教育を受けた。 自分の研究のためには、文献を読まないで、具体的な仕事をはじめたほうがいい。 仕事を済ませて、それが終わった段階で、文献を読みなさい。

 これはたいへんよい忠告だった。 文献を先に読んだら、学位論文を書くことが、間違いなく私にはできなかったはずである。他人の仕事に影響を受けるからである。 しかも、他人の仕事は、むやみに数が多い。 それを読むだけでも、一生かかりそうな気がする。 しかも、その他人の仕事が正しいという保証はじつはない。 生物体のように複雑なシステムでは、同じ材料を扱っても、いかようにも違ったふうに考えることができる。 他人の論文を先に読んでいると、その考えの自由度が減ってしまう。 読めば読むほど、なぜか自由度が減ってしまうのである。

 今の時代に、読書がすすめられるか。 もし、読書の価値が現代では下がっているのだとすれば、その第一は、この使い捨て感覚にある。 学問が積み上げでないなら、本など読む必要はない。 必要な情報を、最近の雑誌から拾えばよろしい。 それはじつは具体的な「歴史感覚」の問題でもある。 現代社会ではすべてが現在に変わる。 こればかりは、どうしようもない。 『モモ』のなかでミヒャエル・エンデでいうように、世の中は「時間泥棒」ばかりなのである。 時間泥棒は、過去と未来を盗み、すべてを現在にかえる。

 ある大学院生が私に尋ねたことがある。 「先生、進化なんて、そんな済んでしまったことを考えて、何になりますか」。 このときに、時代が変わったと、私はつくづく思った。 この質問を、今でもよく記憶している。 生物の見方が、すでに違う。 それは時空的な連続体ではなく、「今ここにあるもの」なのである。」

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posted by Fukutake at 08:10| 日記