「現人神の創作者たち」 山本七平 文藝春秋 昭和五十八年
「華」を目指す「夷」の優等生 p294〜
「江戸期の日本人の問題意識の一つに「なぜ朝廷が政権を喪失したか」があった。 ともに「儒教的発想」という枠内の中で議論したのある。 当時の日本の”進歩的文化人”にはそれ以外にの発想ができず、”儒教的基準”が「唯一の尺度」であったといってよい。この点、戦後の日本人がいわゆる「進歩的民主尺度」、乃至は自らがそう信じた輸入の基準が尺度で、それ以外に尺度を持ち得なかったのと似ている。
戦後の日本はしばしば「西欧の優等生」といわれた。 だがこれは言葉を変えれば「二流の西欧」ということであろう。 もちろん弟子が師にまさり、優等生が先生を凌駕することもあるかもしれない。 しかし凌駕しようとまさろうと、「凌駕したか否か」と基準は「先生」の方にあり、「先生」を尺度としているのであって、弟子を尺度としているのではない。 簡単に言えばメートル尺で一二〇センチの子供を計るようなもの、この場合、子供は一メートルを越えたと言い得ても、子供を基準にメートル尺が低くなったとは言えない。 他文化の規範を受容しそれを自己の基準とすればこのような現象が起こって不思議ではない。 少なくとも現在まで後進国の人びとは「日本に留学してもつまらない。 あれは模倣がうまいだけだから、学ぶなら欧米に行くべきだ」と考えていた。 いまは事情がやや異なっているように見えるが、それは「日本の能率的な学び方を学ぼう」であり、この点では、本質的な差はないと言える。 これは徳川時代でも同じであったろう。 たとえ日本が山鹿素行のように「日本=中国論」を展開しようと、また中国人から高く評価された儒者がいようと、儒学を学ぼうと思う人間は中国に留学しても日本には留学しなかったであろう。 いずれの場合もそうなって当然である。
こうなると徳川時代の日本人の「対中国意識」にきわめて似た点があって不思議ではない。 両者が共通してもつのは極限まで行っても「優等生意識」「師を凌駕した意識」であり、簡単に言えばそれぞれの”本家”への二流国意識なのである。 なぜそうなるのか。 他人の尺度を借りて自己を計っても、自らの尺度を持ち得ないからであろう。 この点では徳川時代も現代も変わりはなく、変わった点と言えば「物差し」を取りかえただけである。 この点では、徳川時代の朱子絶対化は明治の転換を容易にしたといえる。 いわば絶対化の対象を「中国という国」から「西欧という外国」に切りかえただけだからである。 そしてそれは戦後にまたアメリカに切りかえることを容易にした。これがもし、真に自らの伝統から析出した尺度を尺度としていたら、いわば中国のようであったら、このように簡単な「尺度の切りかえ」はできなかったであろう。 しかし、この他人の尺度で自己を計っているという意識はまさざまに屈折した形で出てくる。 それは日本人の「対中国劣等意識」を叱るという形で出てくるが、この「叱っている人」がその叱責の基準としているのが実は「中国の基準」なのである。」
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