2023年01月10日

音による演劇

「小林秀雄全集 第十巻」− ゴッホの手紙 − 新潮社版 平成十四年

芝居問答(對談)sc恆存 小林秀雄 p130〜

 「小林 …眼に比べてね。特に耳を訓練している少数の人々をのぞけば。だからまだラジオ・ドラマをちゃんと聴ける耳を持っている人はいないと思うんですよ。人の声っていうものは、非常に表情に富んだものでしょう。見ないで、声で人間がわかる、そこまで耳の訓練が出来ている人はいないんだよ。ラジオ・ドラマが非常に発達すると、そういう訓練ができるかも知れない。そうすると、見なくても、声のほうがよっぽど表情的でね、ラジオ・ドラマ専門の名優というものが出てくる。 …ぼくら、眼を開けて暮らしているから、耳はおろそかになっている。芝居っていうやつは、眼と耳と両方で鑑賞しているしね。まあ、はなし家や講談師になるとどうかな。たとえば落語だって、話術の生命はやぱり物語を追っているんだけども、同じ物語を何度聴いてもいいでしょ? 何度聴いてもいいというのは、つまり音なんだよ。そいつを聴いて楽しんでいるわけだな。

sc だけど、機械を通した声というものは…。

小林 だからさ、これはまた全然別問題なんだよ。ぼくはね、どんな芸術でも、みんな生きているもんだと思うんだよ。これからラジオ・ドラマがどうなるかということは、なかなか予想できないんだ。

sc ラジオ・ドラマって、一度も聴いたことがないんじゃないですか。

小林 それはありますよ。だけど嫌いなんだ。今話した事もただの空想さ。現物は嫌いなんだ。蓄音機もラジオも嫌いです。ラジオや蓄音機が非常に完全になって、僕の耳が聴きうる以上の音を、全部ラジオが取ってくれれば、これは演奏会で聴くのと同じものでしょう。だけど、それは理論なんで、音楽会の聴衆は音だけを捉えてるんじゃないだからね。蓄音機やラジオは音だけしかくれないでしょう。演奏会っていうものは、あれは一種の劇場ですからね。観客がいる。雰囲気がある。あそこで聴こえてくる音は、いい蓄音機で聴く音よりは、もっと悪いのかも知れないです。だけど、よく聴こえるんです。それはみんなその時の身体のコンディションだね。だから、美学っていうものは社会心理学になるんだな。

sc ラジオ・ドラマでなくて、舞台の中継放送っていうものがあるでしょう。あれは殆ど意味ないんじゃないですか。宣伝広告なら別だけど、少なくともジャンルとしては意味ないですね。野球の中継放送のほうが芸がある。

小林 そりゃそうだ。

sc じゃ、このへんにしておきましょう。」

(「演劇」、昭和二十六年十一月)

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posted by Fukutake at 08:11| 日記