「骸骨考」 ーイタリア・ポルトガル・フランスを歩くー 養老孟司 新潮社 2016年
原理主義 p54〜
「宗教体験のような、「体験でしか理解できないこと」は、定義により情報化出来ない。 情報化できない以上、それ自体はウソになりようがない。 ただそういう体験が「ある」ということは、メタ・メッセージとして伝えられる。 そういう体験の存在を疑うのも、ごく普通であろう。 日常生活の中にそういうものが出現することはごく稀だからである。 私が武道家の身体論が好きなのは、宗教体験と同様、いわゆる主観でしかあり得ない境地が、確実に存在することを伝えてくれるからである。 こちらは宗教体験よりもう少し身近で、自分のような俗人でも体験できそうな気がする。
意識中心の世界、現代のいわゆる情報化社会では、情報の発信、受容が大きな比重をしめるようになっている。 若い世代はほとんどスマホに張り付いている。 こういう時代に誤報問題の比重が大きくなるのは当然であろう。 そのくせ、この種の問題を取り扱う部門、いうなればウソ学は、まだ発展していないように思われる。
対面している相手の言い分だって、その真偽を判定するには、おそらく長年の経験が必要なのである。 それがないと、たとえば拷問ということになる。 それで仮に本音が出てきたとしても、それが本当かどうか、じつはわからない。 本人の事実誤認は、いつでもありうるからである。 そもそも拷問のような特殊な状況でなら人は真実を語る、と思うのがヘンなのである。 あんな特殊な状況なら、人はなんだって言う。 それが実際であろう。 拷問が存在するのは、真実の追究とはおそらく理由が違う。 拷問まで行かなくても、弱者の立場に置かれた相手を、自分の意に沿わせようとする努力なら、組織はしばしばやっているはずである。 大学紛争の吊し上げは、逮捕された学生が警察で覚えてきたやり方だという話があった。 私の小学校の同級生が検察がらみの事件に引っかかったことがある。 本人はまったくの無実だった。 だから頑張ったわけだが、その男がよくいうことがある。 「とにかく徹底的にやられたけど、あのくらい厳しくしなけりゃ、悪いヤツは本当のことを言わないよ」、と。 本人は自分が本当だと思っていることしか言えない不器用な男だから、そう思うのであろう。 私なら口から出まかせを言うかもしれない。
若い頃から私は、「筋が通れば、道理が引っ込む」と思っていた。 筋が通るのは一種の快感だから、それはそれでいい。 でも頭の中だけでなく、それで世界を左右しようとすると、とんでもなく問題が生じてしまうことがある。 私は原理主義をそんな風に規定している。 イスラム国もそうだが、原理主義の網の目をどう理解させるか、まだ私は解答を発見していない。」
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