「ガクモンの壁」 養老孟司 日経ビジネス人文庫 2003年
脳に心を見る 養老孟司x百瀬敏光* p209〜
「養老孟司 脳の研究というのは、個人的には今も博物学と読んだ方がいいんじゃないかと思っています。 個々の例を集積していくという段階から始まって、後で特定のパラダイムによって位置づけていく。 先生の研究も今のところ、まだいろいろな画像を集めている段階ということですね。
百瀬敏光 学問的レベルにしても、多分そういう段階にあるんだろうと思います。
養老 そういう研究で、民族によって脳の働きぐあいが違うとかというデータが出ると面白いですね。
百瀬 わりと最近出たのが、民族ではなく男女差です。 数学の問題を解かせたときに男と女で脳のエネルギーの使い方が違うとか。 要するに、エネルギー消費が女性のほうが多いというデータです。 以前、ちょっと話題になって、男女差別だとかいう議論がありました。 ただ、それはひとつのデータで、その解釈をめぐってはいろいろなことがあるんです。
養老 非常に単純に考えれば、少なくとも女の方が血のめぐりがいいということになる。
百瀬 民族の違いについての研究は、まだこれからですね。 今、いろいろな言葉の研究が少しずつ…。 タイ語と英語と日本語で、それぞれストーリーを聞かせて、脳のどういうところが活性化してくるかというようなデータをとりあえず蓄積しています。 それぞれの国民の脳がどういうところで言語処理をしているかを調べるわけです。
養老 言語処理に関して言えば、表意文字、表音文字がありますが、実験によってはうまくできないものもある。 例えばアルファベットを一個ずつ提示することはできるけれども、漢字の場合はできません。 「へん」だけとか「つくり」だけとか…。
百瀬 いろいろな言語障害の患者さんを見ていると、漢字だけやられて仮名の言語機能は残るというケースがあります。 またその逆もある。 実際に仮名を読んでいるときと漢字を読んでいるときとで脳の活性化がどう違うかということを調べると、漢字の場合、活性化する範囲は仮名を読んでいるときよりも非常に狭いですね。 どういう理由なのかいろいろ考えてみたんですが、多分、仮名を読んだときは、いろいろな意味を想像し得るのに対し、漢字のときは一つに決められてしまう。 そういうことが関係しているのではないかと思います。
養老 漢字のほうが狭いというのは、使った漢字で違うという可能性がある。 つまり、「重」という字を見せたら随分違ってくる。 重い、重ねる、重大とか。 しかし「屋根」は屋根としか読めない。
百瀬 選んだのは、小学校の六年生までに習う漢字の中で、使われる頻度の高い言葉です。
養老 漢字の当て字でも、音で当てたものと意味だけで当てたものがありますが、そういうものを使ってうまい実験を組むと、日本語の体系の中でどう使い方が違っているかということがわかると思うんです。 あるいは日本語というのは、脳のシステムに意外ときちんと合っていて、同じ処理で全部いっているとか、といったことがわかると面白いんですけどね。」
百瀬敏光* 東京大学医学部助教授。脳の機能メカニズムを探求する神経科学者
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