「小林秀雄全集 第六巻」− ドストエフスキイの生活− 新潮社版 平成十三年
慶州 p484〜
「朝鮮の山はもう少し禿げてゐた筈だが、と同行の岡田君が言ふ。彼は八年前に眺めた車窓の風景を見直してゐる。林君と釜山で別れ慶州に向ふ途中である。長旅で屢々味ふあの快い疲れが来てゐた。半ば放心した様な氣持ちで、見知らぬ土地を汽車で揺られて行くのはいいものだ、かういふ時間は、僕の一生涯で合計何時間ほどあるだらうか、ふとそんな事を考へる。稲田に緩やかな傾斜で、半島のやうに幾つも丘陵が突き出て、その上に赤松が一面に生えてゐる。内地の赤松と種類が違ふのか、それとも赤い土のせゐでさう見えるのか、非常に鮮やかな緑である。それに引き代え、農村の色は、どの塊もどの塊も曇り日の下で、暗く悲し氣だ。屋根といふより蓋と言つた様な藁葺で、どれも同じ様に背の低い小さなのが見窄しいさまで寄合つてゐる。何處へ行つて見ても、沿線に眺められる村々は、さういふ同じ龜の甲羅の様な蓋をした小屋の集團であつた。居著地主の影もないとい風に見えた。かういふ景色の模様替へは、植林なみには参らぬらしい。
佛國寺驛に着き、佛國寺ホテルまで自動車で、緩い山の斜面を上る。ホテルは寺の門前にあつて、ここまで来るとかなりの高臺で、庭先きからの眺めは十月の内地の鮮やかな秋色を眺めて来た眼には、何んとなく間が抜けた長閑(のどか)な感じであつたが、霽(は)れて来た空は、鋭い澄んだ青さであつた。ホテルとあるので、どんな家だらうと思つて来たが、純日本風の古ぼけた別荘染みた構へで、これならと宿つてもいいといふ積りで、這入つて行くと某大官夫人の先約があると體よく斷わられた。
佛國寺の建物も素朴な感じで悪くはなかつたが、石の方が遥かに美しかつた。花崗岩の垣だの塔だの、どれにも新羅時代の石工達の驚くほど確かな腕といふものを、まざまざと感ずる様な快感があつた。ことに本堂の前庭に立つてゐた釋迦塔の、苔も附けずいい色に黄ばんだ肌や、強く簡明な形は心に遺(のこ)つた。
天氣が怪しくなつて来た。宿で番傘を借り、石窟庵に行く山徑を登る。子供が四人ついて来る。お尻を押して幾らか貰う積りなのである。いくら斷つても、諦めないで何處までも見え隠れについて来る。頂上近くにさし掛かると、急坂があつて、そこへ来るとバラバラと追い附いて、僕等の尻に手を掛けた。ははあ、此處が目當てだつたのか、と少々不憫だつたが、尻など押されては敵わぬので、駈け上る様にして手を振ると、やつと諦めて還つて行つた。」
(「文藝春秋」、昭和十四年六月)
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