「心 −−日本の内面生活の暗示と影響−−」ラフカディオ・ハーン著 平井呈一訳 岩波文庫
「趨勢一瞥」より p146〜
「知性の上では、日本人は、将来、かならずや大きな進歩があるだろうが、しかし、進歩するといったところで、日本はこの三十年のあいだに生まれ変わったように変わったと考えている人たちが、われわれをなるほどと納得させるほど、それほど急速な進歩しまい。科学教育がいくら民間に普及しようが、それがただちに、実際の知力を西欧の水準まで引き上げるというわけにはいかない。一般人の能力は、まだまだ数代のあいだは、現在のごとく、低いままでいるにちがいない。なるほどそこには、これはと思うような、顕著な異例も多々あることだろうし、げんに新知識の優れた人たちが、そろそろ擡頭してきつつあることはある。けれども、日本国民の真の将来は、少数者の異例の能力よりも、むしろ、広く一般多数者の能力にたよらなければならない。ことに、日本の将来は、こんにち、至るところで熱心に開拓されつつある、数学の力によるものが多いだろう。現在のところ、数学が弱味になっている。もっとも、陸海軍の士官学校では、この弱点も、おいおい矯正されることだろうという見通しを示すに足りるような結果が、直々得られつつあるようである。科学研究の分野で、最も至難なものとされているこの数学にしても、その分野に、ようやく頭角をあらわすことができてきた人たちの子孫の代にされば、おそらく、だんだんむずかしくなくなってくるだろう。
ところで、他の面では、一時的なある種の後退がくることが、予期されなければならないだろう。ちょうど日本が、自力の限度以上のものを意図したその線まで、−−あるいは、その線以下まで落ちることは、疑いない。こうした後退は、ごく自然なものだし、同時にまた必然的なものであって、これはいずれそのうちにまた、捲土重来すべき雪辱の準備以外の意味はないものである。その徴候は、すでにこんにち、ある官庁の仕事のうえに見えている。ことに、文部省の仕事にそれが著しい。いったい、東洋の学生に、西洋の学生の平均能力以上の学科を課そうとしたり、英語を自分の国の国語、乃至は第二外国語にしようとしたり、あるいは、こういう訓練によって、父祖伝来の感じ方、考え方を、もっとよいものに改良しようとしたり… というような物の考え方は、じつに無謀な考え方である。日本は、どこまでも、自国の精神を発展させていかなければ駄目だ。異国の精神などを、借りものにしてはいけない。…」
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西洋かぶれの成れの果てが、現代日本。