2023年01月04日

畏(おそ)れよ

「人間集団における 人望の研究」 山本七平 祥伝社 昭和58年

「教なければ禽獣に近し」 p153〜

 「いったい、非行少年・問題児(いや、戸塚ヨットスクールの生徒の記事に「三〇歳」とあったから、これが誤報・誤植でなければ非行大人だが)などといわれる人に共通な要素は、何であろうか。
 ある人はそれが「病的なほど敏感で、恐ろしく高いプライド」だという。 そのプライドをほんのちょっと傷つけられても怒り狂って暴力を揮(ふる)う。 だが、それに傷つけられる「懼(おそれ)」があるから家を出ない。 中にはトイレに隠れて鍵をかけて出て来ない。 仕方なく戸を壊したなどという例もある。 そうなると本人は、そういう社会を「悪(にくむ)」ことになる。

 それでいて自分の「欲」の充足は無限で、母親を骨折させて入院させておきながら、「おれが不便だから早く帰ってきてくれ」などと平然と言う。 それは、そうしてもなお母を「愛」し、甘えているからだと言えるかもしれない。 だが「愛して敬せざれば、これ獣畜するなり」(孟子)で、(母親を)飼猫か飼犬のように扱っているということである。

 この「病的なほど敏感で、恐ろしく高いプライド」が、「向進」を阻んでいるわけだが、「矜(プライド・自負心)」に問題があることは、『近思録』の「病痛(へいつう)は尽く這(こ)(矜)の裏に在り。 若し這箇の罪過を按伏し得るば、方(まさ)に向進する処有らん」に示されているし、また『箴言』の「高ぶりが来れば恥もまた来る/高ぶりは滅びに先立ち、誇る心は倒れに先立つ/高ぶりはただ争いを生ずる」にも通ずる。

 これもおもしろい言葉である。 というのは、「人はプライドを持たねばならぬ」とか、「もっとプライドを持て」とかよく言われる。 そして「矜(プライド)」のない人間はいないのである。 だが、一方では「病痛」は尽(ことごと)く這(こ)の裏に在り」で、これが人間の向上を妨げる「病痛」の根源であるとも言っている。 これは矛盾ではないであろうか。

 だが、「プライドは社会が否応なく持たせてくれるだけ持てはよい」という俗諺もあることも忘れてはなるまい。 その実例は後述するが、確かにそれは、社会が持たせてくれるものであっても、「病的に敏感で、恐ろしく高いプライド」を自ら保持し、それを傷つけられるのを恐れて社会に出て行けなくなってよろしい、ということであるまい。 そういう、「高ぶりは滅びに先立つ」で当然である。

 ではいったい、人は何によってこの「病痛」の根源である。 奇妙な「矜(プライド)」を棄て去ることができるのであろうか。 おもしろいことに、それは「畏敬」なのである。
 田中美知太郎先生は、「教育の基本は『畏れ』(畏怖・畏敬)だと言われたが、これはギリシア人の考え方であろう。 一方、『ベン・シラ』は、「主(神)を畏れることが知恵のはじまりである」と言い、また『箴言』は、「主(神)を恐れることは知恵のはじまりである」と記す。」

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posted by Fukutake at 09:29| 日記