「経済論理学序説」 西部邁 中央公論社 昭和五十八年
大衆への懐疑 p169〜
「ヴェブレンもケインズも単純な経済的思惟の持ち主ではなかった。 ここで”単純な”というのは、個人性、合理性および物質性に対する関心を究極のものとみなして、各人のそのような関心の市場的調整をつうじて、人間と社会の進歩が実現されるのだとする見方をさしている。 このような思惟は産業主義の、もっと直截にいえば物質的幸福主義の、価値観となって結晶している。
またこの単純思考は民主主義の、もっとあっさりいえば社会的平等主義の、価値観とむすびついて発達してきた。 市場交換は、がんらい、平等な地位関係にあるものたちの等価交換であってはじめて正当化されるものだからである。 さらに、民主・平等の思想の背景には、物質世界を合理的に説明する個人の能力つまり科学的理性が各人にひとしくそなわっている、という近代に特有の人間観がよこたわっている。 デカルトにいわせれば、「生まれながらの光」である「ボン・サンスは、この世のものでいちばん公平に分配されているものである」ということである。
幸福と平等それ自体は恐らく何ぴとも首肯せざるをえない価値であろう。 だから、その価値を経国済民の方策にまで具体化してきた経済学がこれまで大きな発言力を持ってきたのも当然である。 しかし、どんな幸福どんな平等であってもよいのか、幸福と平等のありうべき退廃について懐疑しなくてもよいのか、その懐疑の量によって幸福と平等の質がきまるのではないのか、という意見もある。 というより、過去においてはそういう意見が無視しえぬ影響力をもっていた。
いまではそんな意見を耳にするのは稀である。 幸福と平等にかんする懐疑を失った人々を近代的大衆人とよぶなら、大衆が社会のあらゆる部署を占拠したのである。 知識人の世界もその例外ではない。 しかしこのように断定するのは、いうまでもなく、ひとつの誇張である。 多くの大衆人は、たとえば私は、心ひそかに時代への懐疑がわだかまるのを感じている。 知識人という、見たところ役に立たない人間に社会が用があるとしたら、そのような懐疑に明確な表現を与えることができるような時代解釈を出してみせる、経国済民とではないのか。
ヴェブレンとケインズは、今となってみれば未熟なやり方ではあったが、幸福と平等にたいする懐疑を保ち解釈を求めた。 しかしとりわけ第二次大戦後の経済学は、これら先人の営みを忘れ去ることにより、経国済民の技術学として花ひらいた。 その意味で現代経済学は大衆人のものである。
そしてわが国の現在もまた、単純な経済的思惟の繁茂によって、大衆文化の殷賑を楽しんでいる。 かくいう私もこのひとりでないはずはない。 わが国において解釈学の方向における経済学をやってみることの面白さと怖さは、それがただちに、自民族の大衆性の、そして自分の大衆性の、解釈へとつらなっていく点にあるようである。」
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幸福、平等であれば何でもいいのか。