「自分は死なないと思っているヒトへ」 養老孟司 だいわ文庫 2006年
データ主義では手遅れ p142〜
「私がいちばん好きな時代は中世です。 中世とはいつのことかというと、鎌倉時代から戦国までをいっています。 中世の有名な文学の一つである『平家物語』の出だしが「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」です。 そう、そのひとことに尽きます。 いまの人は、諸行無常とは、夢にも思っていないだろうと思いますが。
諸行無常とは、すべてのものは同じ状態をとることはないということです。 万物は常ならず。 すべてのものは同じままではいない、ということです。
若い人はこれがわからない。 なぜわからないのか。 自己という観念が強いからです。 三つのときから始まって、いまだに私は私だと思っている。 それはまあ、思っているだけのことで、自己意識というのはじつはそういうものです。
人は動いているけれども、情報は止まっている。 それをいちばんみごとに表現しているのが『方丈記』の冒頭です。 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
誰だって、見れば河だとわかります。 河の姿は、ここにこのまま止まっている。 だけど、この河をつくっている水はどうかといったら、どの瞬間も決して同じ水ではない。 私がすごいなと思うのは、その数行後です。 「世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし」といっている。 そこを読み落とさないで欲しい。 人間そのものだって、栖すなわち都市だって同じでしょうといっているのです。 それは一面、止まっている。 しかし他面では動いてやまない。 こういう中世にあった感覚が、いまやわれわれの中から消えてしまっています。
皆さんのからだもまったくそうです。 一年たつと、皆さんのからだをつくっている分子は、きれいに入れ替わっています。 骨のように代謝が少ないところは、残っているけれども、それだって一部入れ替わっている。 去年と同じ顔で、同じからだだと思っていると、それはたいへんな錯覚です。 皮膚の分子なんかは、ほぼ完全に入れ替わっている。 分子に名札を貼っておいたら、その違いがよくわかるはずです。
だけど、皆さんはそうは思っていない。 どうしてそう思わないのか。 皆さんの意識が、この自分はずっとつながっているのだ、と決めているからです。 いくらこの自分がつながっているといったって、そんな保証は、じつはまったくないのです。 皆さんは人間であって、固まった情報ではないのですから。 万物は常ならずです。」
(初出 「現代社会と子ども」一九九九年度私立幼稚園中堅教員研修会(一九九九年九月二十九日)講演より)
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