「まともバカ」 養老孟司 だいわ文庫 2006年
身についたものだけが財産 p244〜
「いまの若い人はよくお金のことをいいますが、そうではない。 自分の身についたものだけが財産なのだという知識は、極端な状態を通らないとなかなか覚えないことです。 墓に持っていけるものが自分の財産なのです。
私は大学に長いこといましたから、率直に申しあげますが、たとえ大学で中堅どころ、二〇代、三〇代の人が何を考えてるかというと、いかにして自分のポジション、社会的な位置を確保するかということです。 そんなことをいつも考えています。 私は気の毒だなと思っていました。
私の頃は、そんなことは考えませんでした。 医学部を出て解剖なんかやったら食えないよというのが世間の通り相場で、食えないところでなんとか生き延びているんだから、それでだけでありがたいと思っていました。 おかげで、それ以上どうのこうのということを考えないですんでいました。
私は、ハリス幼稚園に通わされていましたが、別に行きたくて行っていたわけではない。 当時、男の子はだいたい半ズボンに決まっていました。 はくものは運動靴。 戦争中だったから、穴があいている。 小学校に入ってから、ときに母親が新しい靴なんか買ってきても、学校から帰りには裸足でした。 新しい靴は誰かがはいていってしまい、すぐなくなった。 靴下なんかない。 当然素足。 あったってすぐ穴があいてしまう。 半ズボンで素足だから、冬は寒い。 それが当たり前だと思って暮らしていました。
食べるものといえば、サツマイモとカボチャ。 私の世代は、たいていの人がサツマイモとカボチャはもう食わないといっています。 一生食う分、もう食ったと。 懐石料理にたいていサツマイモとカボチャが入っていますが、それだけは残すというのがわれわれの世代です。
少なくとも私どもの世代は、自分が育った育ち方をよしとしない。 はっきりいえば、カボチャとサツマイモと、半ズボン。 あれはまずかった。 だから子どもには、冷蔵庫を開ければいつでも食べ物が出てくるようにして育ててきました。 こうして自分の過去を否定してしまった人は、他人にどうしろといえなくなる。 それに気がつきます。
自分自身の育ちを肯定するのか、しないのか。 まずそれがあるわけなのです。 それをうっかりしてというか、ある意味で否定してきたのが現代です。 そういうことをすると、多少わけがわからなくなって当然だなと思います。」
(初出 「こどもと自然」子どもの健康のための講座(一九九六年十二月七日)、育児センター会報)
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2022年12月30日
墓まで持っていける財産
posted by Fukutake at 08:08| 日記