「自分は死なないと思っているヒトへ」 養老孟司 だいわ文庫 2006年
知ることの深層 p86〜
「癌の告知を学生に教える例を取りあげましたが、現実の話としても、患者さんが告知に耐えられるかどうかということは、じつは最大の問題です。 東大病院でもそうですが、一般に癌の患者さんが入る病棟では飛び降りが絶えない。 そのため、ついに精神科と同じように、窓をいっさい開かなくしてしまった。 そういうものなのです、人は。 本当は、知るというのは危険をともなうことなのです。 体力がない人に労働させるのと同じです。
しかし、親はおそらく子どもに勉強しなさい、勉強しなさいといっている。 これは学問が安全なものだと信じ切っていることを意味します。 そういう意味で、知はやはり世間全体で変質してきたのではないかと思います。
癌の告知を例に考えるとよくわかるように、知るということは自分が変わるということでもあります。 多かれ少なかれ、自分が変わるということです。 自分が変わるとはどういうことかというと、それ以前の自分が、部分的にせよ死んで、生まれ変わっているということです。 しょっちゅう死んでは生まれ変わっているのですから、朝そういう体験をして、夜になって本当に死んだとしても、別に驚くにはあたらないだろうというのが、有名な「朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり*」の意味ではないか。 私なりの解釈でそう思っています。
本来、知とはそういうものであったはずです。 『論語』に書いてある通りです。 学問には、しばしば害がある。 ここは大磯で、隣に二宮尊徳の出身地がありますが、尊徳の時代にも百姓に学問はいらないといわれたはずです。
それは、知るということの裏表がよくわかっていたからだろうと思います。 学問をすることが、必ずしもいい結果になるとは限らない。 知るということは、決して、必ずしもいいことではありません。 そのことを、昔の人は知恵として知っていたと思います。
しかし現代では、ご存知のように、よくいえば教育が普及しました。 それと同時に知というものは非常に安全化していきます。 完全化せざるを得ないわけですが、そうすると、知というものが、自分自身と分離してくる。 自分と分離した知は、おもしろくない。 これは当たり前です。 だから今の学生は、勉強するのがおもしろくないと言います。 自分に何のかかわりもないことをやらされていると。
ただ、学生の皆さんには、知ることは危険なものだということを、もう少しいっておいていいのではないかと思います。」
初出 「現代の学生を解剖する」一九九九年六月三十日、「教育学術新聞」二〇〇〇年三月一日号〜四月五日号)
朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり* 『論語 里仁第四』 意味「朝、真理を聞いて満足したなら、 夕方に死んでも思い残すことはない」(宮ア市定「論語」より)
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