「小林秀雄全集 第六巻」− ドストエフスキイの生活− 新潮社版 平成十三年
満州の印象(抄) p21〜
「孫呉に着く。美しい午前である。舞ひ上る粉雪が風の中でキラキラ光る。満蒙開拓青少年義勇孫呉訓練所といふものを、満州拓殖公社の山口君の案内で、と書いてもどうしてもかういちいち面倒臭い名前を附けるのだらう、と訝しいのだが、兎も角今日はそれを見學にいくのである。この種の仕事の名目が、不必要に厳しく難かしいのは、仕事の或る弱點を語つてゐるやうに思はれる。…
僕が行つたのは十一月上旬であつたが、もう零下二十二度と言はれた。準備の整はないうちに冬は来て了つたのである。棟上げだけ濟ませた家が、空しく並んでゐるのが見られた。出来上がった泥壁に藁葺の宿舎の形こそ大きいが、建築の粗漏な點では、一般満人の農家にも劣るであらう。はじめ少年の手で建てられた天地乾坤造りとかいふ小屋は、夏が近づいてみると濕地の上に建つてゐたことが判明し、移轉に手間どつた上に、未曾有の長雨に遭つて、かういふ始末になつたと聞かされたが、無論この説明は、世人を納得させるに足りないのである。…
凍つた土間に立ち、露はな藁葺の屋根裏を仰ぎ、まちまちな服装で、鈍い動作で動いている、浮かぬ顔の少年達を眺めただけで、僕は、もうどの様な説明も自分の重い気持ちを動かす事は出来ないのを感じた。僕はどんな質問をしようとも思はなかつた。
部屋の中央には、細長いペエチカが二つあつて、いい音をして燃えてゐのだが、未だ二重窓も出来ぬ、風通しのいい部屋の氷を溶かすわけには行かない。やがて暗いランプが點り、食事になつた。少量のごまめの煮付けの様なものに、菜っ葉の漬物がついてゐた。僕は不平など書いてゐるのではない。内原の訓練所には少年の榮養研究班なるものがあつたのを知つてゐるから、参考の爲に書いて置くのである。…
僕は少年達の宿舎に案内された。暗いランプの光では、そこにギッシリ詰つた少年達の顔を、はつきり見分けることは出来なかつた。室内は、本部の部屋よりも暖かい様に思はれたが、煙がひどかつた。少年達の眼が、自分に注がれてゐるのを感じ、彼等が笑ふ様な話がしたいと思つて、胸が塞がつた。僕は、元氣で奮闘して貰ひたいという意味の事を、努めて元氣な聲を出して喋つた。そして一ぱい汗をかいた。…
特に僕を驚かしたのは、訓練生達の實に潑刺とした表情であつた。それは朝鮮で見た、唯一の美しい顔であつた。同行の張赫宙君と、歸りがけに連れ書小便をしてゐると、彼は突然どうも考えが纏まらぬといふ風な顔で「ああいふ顔は、僕等の知らなかつたものです」と言つた。
僕はいつの間にか、そんな想ひ出に耽ってゐた。此處にあるのは訓練ではない、單なる缺乏だ。物の缺乏が、精神の訓練を装つてゐるに過ぎない。…
間もなく僕は、はつきりと理解した。そして一種言ひ様のない同情の念を覺えた。少年達の顔には何等難解なものはなかつたのだ。見る僕の心の方が氣難しかつたに過ぎない。彼等の顔は明けぱなしの子供の顔なのだ。まさしく困難な境遇に置かれた時の子供の心そのままの顔なのだ。…」
(「改造」昭和十四年一月)
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小林秀雄の慟哭