2022年12月26日

マキ(屋号)+名前

「遠野物語」 柳田國男 新潮文庫

遠野物語拾遺より p177〜

 名前、あだ名
「二四九 以前は家々がそれぞれのマキに属して居た。マキは親族筋合を意味する言葉である。右衛門マキ、兵衛マキ、助マキ、之烝マキなどの別があり、人の名はマキによって称するのが習いであった。佐々木君の家は右衛門の方であった。姓は無くて、代々山口の善右衛門と称し、マキには吉右衛門、作右衛門、孫右衛門、孫左衛門などと謂う家があった。」

「二五〇  人の名を呼ぶ場合には、必ず上に父親の名を加えて呼ぶ。例えば春助という人の子が勘太である時は、息子の方を春助勘太と呼び、小次郎の息子の万蔵の世ならば、小次郎万蔵と呼ぶ。同じようにして、善右衛門久米、吉右衛門鶴松、作右衛門門角、犬松牛、孫之丞権三などがあり、女の方も長九郎はるの、千九郎かつなどと謂った。又女の子に昨今面倒な漢字が用いられるようになったのは、他の地方にも通ずる同様な傾向であろう。」

 「二五一  綽名の類も亦甚だ多い。法螺を言うから某々法螺、片目であるから某々メッコ、跛(びっこ)だから某々ビッコ、テンポであるから某々テンポなど言う例は、此郷では何処へ行っても普通である。新助爺という老人はヤラ節が巧みであった為に、新助ヤラとばかり謂って他の名を呼ばなかった。至って眼が細い女をお菊イタコ、丈が人並み外れて低かったのでチンチク三平、その反対背高であったから勘右衛門長(なが)、また痩せっぽちの男を鉦打鳥に見立てて鉦打長太などと謂う例もあった。盗みをしたためにカギ五郎助、物言いが何時も泣き声なのでケエッコシ三五郎、吃りであるからジッタ三次郎、赭ら顔が細いのでナンバンおこまなど言った例の他に、体の特徴をとって、豆こ藤吉、ケエッペ福治、梟留、大蛇留などとも謂った。歩き様を綽名にしたものには、蟹熊、ビッタ手桶、カジカ太郎、狐おかん、お不動かつなどがあり、おかしかったのは、腕を振って歩く小学校の先生を腕持ち先生、顔の小さな小柄の女先生を瓜こ姫こなどと謂った例のあったことである。」

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瓜子姫子が目に浮かびます。

posted by Fukutake at 08:01| 日記