「世間のドクダミ」 群ようこ ちくま文庫 2009年
プチプチ p53〜
「美容整形は、昭和二十年代生まれの私の感覚からすると、うしろめたく罪悪感が伴うものだった。 親からもらった顔というのは、すなわち神様が与えてくれた顔であって、部分に少し問題があっても、全体的にはバランスが取れているというのが、みなの言い分だった。 ちっこい目も低い鼻や平たい顔とはバランスがとれている。 だから一部分だけを手直ししても、バランスが崩れてもっとおかしくなるのだというわけである。 私もよく親にそう説得された。 が、今になって思うとうまく騙されちゃていたような気がする。 バランスが崩れるといわれても、そのバランスが保たれているはずの顔が嫌なのだから、どうしようもない。 「神様」という実体のない存在まで登場させて、うまーくいいくるめられ、最後には「外見より心を磨け」といわれたりして、若い娘たちの多くはそんなもんかとしぶしぶ納得して過ごしてきたのである。
もっと日常的な事でも、やっているのに、やっていないということが多かった。 学校のテストのとき、クラスメートに、
「勉強してきた?」
と聞かれたら、実はやっているのに、
「ううん、やっていない」
と答える。 化粧だって何か特別なことをしているかと聞かれて、めちゃくちゃ、寝る前に塗りたくっているのにもかかわらず、
「ううん、何もやっていない」
としらをきる。 もちろん結婚する予定がない男性と、深い関係になっていても「何もやっていない」といい張る。 とにかく「何もしてない」という方向にもっていく。 やっていても「やってない」人がほとんどだった。
これは今風にいえばプチ嘘つきである。 いいほうにとれば、やってるといって、相手にプレッシャーをかけるのを避けるという意味合いもあったかもしれない。
これは自分に対する保険であった。 もしも正直に、勉強したといって、勉強をしていない子よりもテストの成績が悪かったら、みっともないことこの上ない。 プレッシャーが自分にかかる。 だからしらをきっていれば、万事、うまくおさまって、相手にも自分にもプレッシャーがかからないし、偉ぶっていないから嫌われるリスクも少ない。 嘘も方便という処世術だったのだ。
若い女性のなかには、ものすごい秘密主義の女性もいて、たいした問題でもないのに、やたらと隠しまくるタイプもいるが、少しでも他人から何かいわれないために、鉄壁のガードを造っている。 これはまた別の、精神的な根深いものを抱えているように思える。 が、多くの場合、開けっぴろげすぎるぐらい、開けっぴろげだ。 外見に対しては、「襤褸を着てても心は錦」なんて絶対に通用せず、「『錦は着てても心は襤褸』でも、全然、OK」という声が聞こえてきそうだ。 外見がすべてである。 今では整形も「私はやった!」と堂々としている。 整形した場所まで明かす。 うしろめたさなんて全くないのである。」
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昭和は遠くなりにけり。